あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第I章|毎日の挨拶

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 朝の光は、冬を越えたばかりの庭にまだ柔らかかった。
 露を含んだ芝は淡くきらめき、噴水の縁をかすめる風が、薄い水音を連れてくる。

「お嬢様、羽織を。今朝は冷えます」

 侍女長ヴィオラが、白いショールを肩へそっと掛ける。
 リリアーヌは「ありがとう」と微笑み、胸元のブローチに指先を添えた。石鹸と乾いたリネンの香りが、呼吸と一緒に落ち着いていく。

「今日も……来られるのよね」

 声に出した途端、胸の奥が子供みたいに跳ねたのが自分でも分かって、少しだけ恥ずかしい。
 けれど、否定はできない。

 隣家のレイヴン公爵邸との行き来は、ここ数か月、まるで日課になっていた。領地の書類、灌漑の整備、孤児院への寄付、舞踏会に向けた寄進の調整——理由はいくらでも作れたし、実際に必要でもあった。

 けれどリリアーヌにとっては、その理屈のどれよりも確かなものがある。

 ――毎日、会える。

 窓辺で筆記をしているだけの昨日より、今日のほうが少しだけ息がしやすい。
 会う前は落ち着かなくて、会っている間は夢みたいで、帰ったあとにようやく「本当だった」と確かめる。そんな繰り返し。

「公爵様は必ずいらっしゃいます。お嬢様がいらっしゃる日に、予定をずらされる方ではありません」

 ヴィオラは淡々と言った。褒めてもいないのに、なぜか温かく聞こえるのが、彼女の不思議なところだ。

「……予定をずらす、なんて」

 リリアーヌは笑ってごまかした。
 “私のために”という言葉に触れそうになると、胸が痛い。そんなはずはない、と自分で釘を刺しておきたかった。

 門の方がわずかにざわめく。蹄の音が砂利道を踏み、次いで、低い声が指示を飛ばした。

「……整列は不要だ。運び込みは奥から。音を立てるな」

 耳が勝手に、その声だけを拾う。

 リリアーヌは息を整えるふりをして背筋を伸ばした。淡い亜麻色の髪をきっちりまとめ、手袋の縫い目まで乱れがないか確かめる。
 ここで「嬉しい」と顔に出したら、品がないみたいで嫌だった。

 扉が開き、冷たい外気と一緒に彼が入ってくる。

 アレクシス・ド・レイヴン公爵。
 濃い黒髪、黒に近い森色の瞳。礼装は黒と銀でまとめられ、余計な飾りはないのに、家格だけがはっきりと浮かび上がる。
 彼が立っただけで、空気の粒が整列するような静けさが走る。

 執事ユリウスが後ろから、ほんの少し眉を寄せて頭を下げた。
 “本当に毎日ですね”とでも言いたげな顔に見えるのは、リリアーヌの願望だろうか。

「リリアーヌ」

 名前を呼ばれる。たったそれだけで、喉の奥が熱くなる。
 リリアーヌは笑みを崩さないまま、淑女の礼をした。

「おはようございます、公爵様。本日もお時間をいただき、ありがとうございます」

「礼はいらない。必要なことだ」

 相変わらずの短さ。
 でもその言い方が、彼なりの誠実さだと知っているから、リリアーヌは安心してしまう。

「こちらへ。書類をお持ちしました。灌漑の件と、交易路の……」

「先に灌漑を」

 彼の視線が、書類ではなく彼女の手元に落ちる。
 手袋の端、指先。リリアーヌの気持ちを知らない顔で、彼はほんのわずかに眉を寄せた。

「指が冷たい。暖炉を近くに」

 命令というより、独り言に近い低さ。
 けれど次の瞬間、侍女が慌てて火を強め、部屋の温度がひとつ上がった。

 リリアーヌは「大丈夫です」と言いかけて、飲み込んだ。
 否定すればするほど、“気にしてくれた”事実を強調してしまう気がして。

「……お気遣い、痛み入ります」

 代わりに礼の言葉にすり替えた。
 公爵はそれ以上何も言わず、机の前へ移動した。

 ペンが走る音、紙の擦れる音。
 その沈黙が、なぜか心地よい。言葉が少ない分だけ、余計な期待をしなくて済む――そんな自分に、リリアーヌはそっと苦笑する。

「ここ、視察を増やすべきだ。昨年の水害で、農家がまだ戻りきっていない」

「はい。こちら、現地の代表者の署名です。……公爵様が直接行かれますか?」

 思わず聞いてしまったのは、会える口実を増やしたい自分がいるからだ。
 気づいて胸がちくりと痛んだ。

「俺が行く。……君は」

 公爵が言いかけ、言葉を区切る。
 リリアーヌはペンを持つ指先が震えないように、背筋に力を入れた。

「……君は、来なくていい」

 一瞬だけ、世界の音が消えた。

 来なくていい。
 その言葉は正しい。令嬢が泥と風の中へ出る必要はない。危険もある。
 なのに、胸の奥の柔らかい部分が、きゅっと握られたみたいに痛んだ。

「承知しました」

 答えは滑らかに出せた。
 礼儀の鎧を着るのは上手い。幼い頃からずっと、それで生きてきた。

 公爵は顔を上げない。彼は傷つけたつもりもないだろう。
 それが、いちばん厄介だった。

 その時、控えめな咳払いが入った。

「閣下、こちら。舞踏会の寄進目録が届いております」

 側近ヘンリーが書類を差し出す。
 舞踏会。文字を見ただけで心臓が少し跳ねる。来る日が近い。

「……確認する」

 アレクシスが目録に目を走らせる。
 リリアーヌは思わず、その横顔を見つめてしまった。黒髪の隙間、長い睫毛の影。表情が動かないのに、彼の内側には必ず何かがあると信じたくなる。

 信じたくなるのが、怖い。

 しばらくして、公爵がふっと視線を上げた。
 森色の瞳が、まっすぐリリアーヌを捉える。

「舞踏会の件だが」

 声が低い。
 リリアーヌは背筋の芯をそっと固くした。

「はい」

「……君の準備は、整っているのか」

 それは、指示でも確認でもない。
 どこか、不器用な気遣いの形だった。

 嬉しい。とても。
 でも、嬉しさを見せたら壊れる気がする。リリアーヌは微笑の角度だけを整えた。

「問題ございません。ヴィオラが完璧に」

 ヴィオラが無表情のまま一礼する。完璧、という言葉の重みだけが部屋に落ちた。

 公爵は短く頷き、また書類へ視線を戻す。
 リリアーヌは、胸の奥に溜まった温度を、紅茶の香りに混ぜて飲み下した。

 ――このまま、いつもの日々が続く。
 そう信じたい。

 会議が一区切りし、リリアーヌが書類を束ねて立ち上がると、公爵も同時に席を立った。

「送る」

 短い一言。
 送る、という行為の意味を考える前に、リリアーヌの頬が少しだけ熱くなる。

「恐れ入ります。ですが、屋敷の中ですし……」

「段差がある」

 それだけ言って、彼は先に扉へ向かった。
 反論をする隙がない。こういうところが、彼の“優しさの押しつけ”であり、同時に彼らしい誠実さでもある。

 廊下は高い天井に光が落ち、絵画の金縁が静かに光っていた。
 二人分の足音が並ぶと、奇妙に整う。リリアーヌは、自分の足音が少しだけ軽くなるのを必死で抑えた。

「リリアーヌ」

 名を呼ばれる。
 また、喉が熱くなる。

「はい」

 公爵が何か言いかける。
 けれどその時、向こうの回廊からヘンリーの声がした。

「閣下、お時間を。……例の件で」

 “例の件”。
 言葉が曖昧なだけで、胸が嫌な形にざわつく。リリアーヌは、自分がそんなふうに敏感になっていることが悲しかった。

「分かった」

 公爵は足を止めた。
 一瞬、リリアーヌの方を見て、何か言いかけて——やめる。

 その“やめた”沈黙が、なぜか刺さる。

「……先に行け」

「はい。ありがとうございました、公爵様」

 礼をして、数歩下がる。
 振り返りたい衝動を押し殺して、リリアーヌは歩き出した。

 角を曲がったところで、ふいに足が止まる。
 向こうの回廊に、声が落ちていた。

 壁越しに、あまりに近い距離で。

「……好きな人がいる。だが、届かない。片思いだ」

 低く、静かな声。
 アレクシスの声だった。

 リリアーヌの指先から、血の気が引いていく。
 胸が硬くなって、息の仕方を忘れる。

 ——好きな人。片思い。
 言葉が、順番に心臓へ刺さってくる。

 リリアーヌはその場に立ち尽くしたまま、音を立てないように唇を噛んだ。
 微笑を作る筋肉だけが、反射で動きそうになるのが分かった。

 泣いてはいけない。
 だって、私は——

 次の瞬間、ヘンリーが続けて何か言った。けれど、耳が拾えない。
 リリアーヌの世界には、ただあの一言だけが残っていた。
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