あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第2章|片想いの告白

 その場から動けなかった。
 回廊の角、絵画の金縁が朝の光を反射している。床に落ちる影だけが静かに揺れて、リリアーヌの身体だけが時間から取り残されていた。

 ——好きな人がいる。片想いだ。

 言葉は短いのに、胸の内側を裂くには十分すぎた。
 “名前は出ない”。なのに、心は勝手に結論を作っていく。

 自分ではない。
 私は、ただ隣にいるだけでよかった人。
 会える日々が宝物だと思っていたのは、私だけ。

 喉の奥が熱くなる。涙の前触れが来るのが分かった。
 リリアーヌは反射で唇を引き結び、手袋の指先を握りしめた。爪が食い込む。痛みを作ると、泣きそうなものが少し引っ込む。

「……お嬢様」

 背後でヴィオラが息を呑む気配がした。
 振り向けない。振り向いたら、顔が崩れる。

「聞こえましたか」

 ヴィオラの声は低く、いつも通り平坦で、だからこそ優しい。
 リリアーヌは頷くだけで、答えの代わりにした。

 回廊の向こう、アレクシスの声がもう一度落ちる。

「……だから、あれは俺がやるべきだ。誰にも触れさせるな」

 続く側近ヘンリーの返事は、真面目すぎて冷たい。

「閣下。例の件は公務です。ですが、噂になるのは避けるべきかと」

 噂。
 胸の奥が、ひやりと冷える。噂になる“誰か”がいる。
 “好きな人”。“片想い”。“触れさせるな”。

 たった三つの言葉が、勝手に一人の女性の輪郭を作る。
 顔は知らない。名前も知らない。けれど、リリアーヌの中ではもう——彼女は“私より大切な人”として生まれてしまった。

 リリアーヌは、息を吸う。
 肺の奥まで入らない。喉で止まる。
 それでも、声を出せる形にしなければならない。

「……帰りましょう、ヴィオラ」

 自分でも驚くほど穏やかな声だった。
 まるで、何も聞かなかったかのように。

 ヴィオラが一瞬だけ沈黙する。次いで、いつもの侍女長の顔で頷いた。

「はい。お嬢様」

 歩き出す。
 足音が出ないように、ドレスの裾を少し持ち上げる。
 こういう所作は、幼い頃から身についていた。礼儀は、こんな時にまで役に立つ。——役に立ってほしくなど、なかったのに。

 角を曲がる。
 背中に声が届かない距離になっても、胸の痛みは離れない。
 むしろ、静けさのぶんだけ鮮明になる。

「……お嬢様」

 ヴィオラが歩幅を合わせ、ほんの少しだけ近づいた。彼女の近さは押しつけではなく、“支え”の距離だ。

「今は、何も決めなくてよろしいかと」

 その言い方が、リリアーヌの涙腺をもっと危うくした。
 “決める”必要がある。自分は分かっている。
 けれど今は、決めたら終わってしまう気がした。

「決めるのは、いつも私の役目ですもの」

 笑い声にしたかった。けれど、喉の奥が震える。
 リリアーヌは、笑う代わりに目を伏せた。

「……毎日会えるのが、嬉しかったの」

 口から零れた瞬間、胸が痛んだ。
 こんな言葉、誰にも言うつもりはなかったのに。ヴィオラの前だけで、溜めていたものが薄皮を破る。

 ヴィオラは「そうでございましたか」と言っただけだった。
 余計な慰めも、安い励ましもない。
 それがリリアーヌには救いだった。自分の惨めさを“可哀想”にされたくない。

 部屋へ戻ると、侍女たちが手際よく日常を整える。
 紅茶の湯気、窓のレース、花瓶の白い花。
 昨日と同じはずの景色が、今日だけ違って見える。

「お嬢様、少しお休みを」

 ヴィオラが淡々と言う。
 リリアーヌは頷き、鏡台の前へ座った。

 鏡の中の自分は、整っていた。
 淡い亜麻色の髪は乱れていない。青灰の瞳も潤んでいない。頬の色も、いつも通り。
 ——つまり、何も起きていないように見える。

 それが、怖い。

 リリアーヌは指先で、唇の端を少しだけ持ち上げた。
 “微笑み”を作る。
 社交界で生きるための、いつもの顔。

「……ほら。大丈夫」

 誰に言ったのか分からない。自分自身にかもしれない。
 ヴィオラは鏡越しにこちらを見て、ほんの僅かに眉を動かした。

「大丈夫な方ほど、眠れなくなります」

 その一言が、なぜか胸に刺さった。
 リリアーヌは目を伏せる。

「眠れなくても、平気よ。明日も、会うのでしょう?」

 言ってしまってから、心臓が冷えた。
 明日も会う——それは、希望にも、拷問にもなる。

 ヴィオラは答えず、代わりに髪の編み目をほどき始めた。
 指先が器用に動くたび、亜麻色の髪が肩へ落ちてくる。
 ほどけるのは髪だけで、胸の結び目はほどけない。

 夜。
 蝋燭の火が小さく揺れ、寝台の天蓋が薄い影を落とす。

 リリアーヌは横になっても、まぶたの裏にあの回廊が浮かんだ。
 あの声。
 あの低さ。
 “片想い”という言葉が、何度でも胸に落ちてくる。

 もし、私が名前だったら。
 もし、私が“好きな人”だったら。
 そんな願いは、願った瞬間に恥ずかしくて、苦しくて、消したくなる。

 けれど消えない。

 枕元で、ヴィオラが静かに言う。

「お嬢様。泣いてもよろしいのですよ」

 リリアーヌは、すぐに首を振った。
 泣いたら負けるのではない。
 泣いたら、明日が壊れる。

「……泣きません。泣かないほうが、品がいいもの」

 自分で言って、自分の言葉が薄く聞こえて嫌になった。
 ヴィオラはため息をつかない。叱らない。
 ただ、ふとんの端を整え、灯りを落とす。

 闇が増える。
 静けさが増える。

 眠れないまま、リリアーヌは天蓋の影を見つめた。
 そして、心の中で“準備”を始めてしまう。

 舞踏会まで、あと少し。
 彼の隣に立つのは——本当に私でいいのだろうか。

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