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第二章 ライラックの秘密と誤解の絆
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夕食を終え、リリーは私室へ戻った。
カイル侯爵の冷え切った視線に晒されていた食堂とは対照的に、この部屋は、彼女自身の趣味と洗練だけで整えられた空間だった。
壁は淡い青に塗られ、調度品は繊細なロココ様式で統一されている。だが、暖炉の火が落とされた今、室内には冬の夜の冷気が満ち、まるでリリーの心がそのまま形を取ったかのようだった。
窓際で侍女を下がらせ、リリーは一人、ドレスの背のフックを外す。
絹がかすかな音を立てて床へ落ち、彼女は薄いガウンに身を包んだ。
鏡に映るのは、社交界で「冷たい美女」と称される、隙のない姿。
だが、その瞳の奥には、張りつめた緊張と、長年積もった哀しみが沈んでいる。
(義務……報復……)
カイルの言葉が、胸の内で反響する。
(ああ、カイル様。あなたは、私がどれほど必死に耐えているか、その半分もご存じない)
彼は、リリーがクリスを愛しているから自分を拒んでいると思っている。
けれど実際は違う。
この冷淡さは、彼の憎悪と冷遇から身を守るために身についた、防衛の仮面に過ぎなかった。
リリーの指先が、ガウンの胸元――心臓の上に留められた、小さなブローチに触れる。
濃い紫のライラックを象った、慎ましい意匠。
それは、数年前、二十歳の誕生日にクリスから贈られたものだった。
公の場では決して身に着けられない、二人だけの秘密。
彼女はそれを、ガウンや下着の裏に縫い留め、常に肌身離さず身につけている。
ブローチを外し、掌に乗せる。
冷たい金属の感触が、なぜか胸の奥まで沁みた。
その夜、リリーはクリス宛に短い手紙を書いた。
綴られたのは、愛の言葉ではない。
侯爵家に生じた新たな問題についての、事務的な報告だけ。
――今、彼は公爵家の跡取りとして、最も重要な時期にいる。
――これ以上、重荷を背負わせてはならない。
――自分が、彼の足枷になってはならない。
ペンを置き、リリーは暖炉の前の絨毯に座り込んだ。
(彼は……愛するべき人を見つけた)
一ヶ月前の舞踏会の光景が、鮮やかに蘇る。
喧騒から離れた回廊の隅で、クリスは伯爵令嬢アメリアと向き合っていた。
清らかで、可憐で、祝福されるべき女性。
彼は人混みを避け、彼女にそっと飲み物を手渡していた。
その表情は、リリーに向ける、焦燥を帯びた情熱とは違う。
あれは――守るべき未来を見つけた男の眼差しだった。
自分たちの関係は、侯爵夫人と次期公爵という、不浄で危ういもの。
一方、アメリアとクリスの未来は、光と祝福に満ちている。
(あの時、彼は一瞬、私を憐れむように見た……)
きっと、終わらせる理由を探しているのだ。
ならば――自分が、その役を引き受けなければならない。
リリーにとって、クリスの真の幸福は、自分ではない誰かと、公然と結ばれることだった。
彼女が今も侯爵夫人として邸に留まり、カイルの冷遇に耐えているのは、
クリスとの愛に終止符を打ち、彼の人生から完全に身を引くための、究極の自己犠牲だった。
それは、義務でも、報復でもない。
夜半、衣擦れの音と共に、影が窓の外を横切った。
クリスの侍従が、手紙を受け取りに来たのだ。
リリーは封をした手紙を静かに渡し、ひと言だけ伝言を託す。
「クリストファー様へ――
『侯爵家の問題は、私自身の力で解決できます。ご心配には及びません』と」
侍従が去った後、リリーはライラックのブローチを再び胸元へ戻した。
「ご心配には及びません」
――それは、「あなたを必要としていない」という、残酷な拒絶の言葉。
彼の未来を守るため、心を鬼にしたつもりだった。
だが、その夜。
クリスの私室で手紙と伝言を受け取った彼は、深い絶望に沈む。
(彼女は……本気でカイル侯爵との地位を選んだのか。
私との愛は、ただの過ちだったのか)
彼はその言葉を、
「夫との絆を守るために、自分を切り捨てた」
そう解釈してしまった。
互いを想い続けた年月は、
深すぎる献身と、致命的な言葉のすれ違いによって、
静かに、そして修復不可能なほどに凍りついていくのです。
後書き
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
この章では、
「相手を想って選んだ言葉が、最も残酷な誤解になる」
そんな瞬間を描いています。
リリーは、クリスの未来を守るために身を引き、
クリスは、リリーの幸福を信じるために諦め、
そのすれ違いが、二人の心を静かに凍らせていきました。
誰も嘘をついていないのに、
誰も本心を口にしていない。
だからこそ生まれてしまった距離です。
ライラックのブローチと、届かない恋文。
それらが象徴するのは、
「言葉にしなかった愛」と「誤解される覚悟」でした。
この先、
この誤解がどう揺らぎ、
誰が真実に触れ、
誰が最も傷つくのか——
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
次話も、どうぞよろしくお願いいたします。
カイル侯爵の冷え切った視線に晒されていた食堂とは対照的に、この部屋は、彼女自身の趣味と洗練だけで整えられた空間だった。
壁は淡い青に塗られ、調度品は繊細なロココ様式で統一されている。だが、暖炉の火が落とされた今、室内には冬の夜の冷気が満ち、まるでリリーの心がそのまま形を取ったかのようだった。
窓際で侍女を下がらせ、リリーは一人、ドレスの背のフックを外す。
絹がかすかな音を立てて床へ落ち、彼女は薄いガウンに身を包んだ。
鏡に映るのは、社交界で「冷たい美女」と称される、隙のない姿。
だが、その瞳の奥には、張りつめた緊張と、長年積もった哀しみが沈んでいる。
(義務……報復……)
カイルの言葉が、胸の内で反響する。
(ああ、カイル様。あなたは、私がどれほど必死に耐えているか、その半分もご存じない)
彼は、リリーがクリスを愛しているから自分を拒んでいると思っている。
けれど実際は違う。
この冷淡さは、彼の憎悪と冷遇から身を守るために身についた、防衛の仮面に過ぎなかった。
リリーの指先が、ガウンの胸元――心臓の上に留められた、小さなブローチに触れる。
濃い紫のライラックを象った、慎ましい意匠。
それは、数年前、二十歳の誕生日にクリスから贈られたものだった。
公の場では決して身に着けられない、二人だけの秘密。
彼女はそれを、ガウンや下着の裏に縫い留め、常に肌身離さず身につけている。
ブローチを外し、掌に乗せる。
冷たい金属の感触が、なぜか胸の奥まで沁みた。
その夜、リリーはクリス宛に短い手紙を書いた。
綴られたのは、愛の言葉ではない。
侯爵家に生じた新たな問題についての、事務的な報告だけ。
――今、彼は公爵家の跡取りとして、最も重要な時期にいる。
――これ以上、重荷を背負わせてはならない。
――自分が、彼の足枷になってはならない。
ペンを置き、リリーは暖炉の前の絨毯に座り込んだ。
(彼は……愛するべき人を見つけた)
一ヶ月前の舞踏会の光景が、鮮やかに蘇る。
喧騒から離れた回廊の隅で、クリスは伯爵令嬢アメリアと向き合っていた。
清らかで、可憐で、祝福されるべき女性。
彼は人混みを避け、彼女にそっと飲み物を手渡していた。
その表情は、リリーに向ける、焦燥を帯びた情熱とは違う。
あれは――守るべき未来を見つけた男の眼差しだった。
自分たちの関係は、侯爵夫人と次期公爵という、不浄で危ういもの。
一方、アメリアとクリスの未来は、光と祝福に満ちている。
(あの時、彼は一瞬、私を憐れむように見た……)
きっと、終わらせる理由を探しているのだ。
ならば――自分が、その役を引き受けなければならない。
リリーにとって、クリスの真の幸福は、自分ではない誰かと、公然と結ばれることだった。
彼女が今も侯爵夫人として邸に留まり、カイルの冷遇に耐えているのは、
クリスとの愛に終止符を打ち、彼の人生から完全に身を引くための、究極の自己犠牲だった。
それは、義務でも、報復でもない。
夜半、衣擦れの音と共に、影が窓の外を横切った。
クリスの侍従が、手紙を受け取りに来たのだ。
リリーは封をした手紙を静かに渡し、ひと言だけ伝言を託す。
「クリストファー様へ――
『侯爵家の問題は、私自身の力で解決できます。ご心配には及びません』と」
侍従が去った後、リリーはライラックのブローチを再び胸元へ戻した。
「ご心配には及びません」
――それは、「あなたを必要としていない」という、残酷な拒絶の言葉。
彼の未来を守るため、心を鬼にしたつもりだった。
だが、その夜。
クリスの私室で手紙と伝言を受け取った彼は、深い絶望に沈む。
(彼女は……本気でカイル侯爵との地位を選んだのか。
私との愛は、ただの過ちだったのか)
彼はその言葉を、
「夫との絆を守るために、自分を切り捨てた」
そう解釈してしまった。
互いを想い続けた年月は、
深すぎる献身と、致命的な言葉のすれ違いによって、
静かに、そして修復不可能なほどに凍りついていくのです。
後書き
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
この章では、
「相手を想って選んだ言葉が、最も残酷な誤解になる」
そんな瞬間を描いています。
リリーは、クリスの未来を守るために身を引き、
クリスは、リリーの幸福を信じるために諦め、
そのすれ違いが、二人の心を静かに凍らせていきました。
誰も嘘をついていないのに、
誰も本心を口にしていない。
だからこそ生まれてしまった距離です。
ライラックのブローチと、届かない恋文。
それらが象徴するのは、
「言葉にしなかった愛」と「誤解される覚悟」でした。
この先、
この誤解がどう揺らぎ、
誰が真実に触れ、
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引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
次話も、どうぞよろしくお願いいたします。
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