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第1章|窓辺の午後の茶会
しおりを挟む王宮の午後は、音が少ない。
高い天井の回廊を渡ってくる靴音も、遠くで鳴る鐘の余韻も、どこか布で包まれたように柔らかくなる。リディアが好きだったのは、その静けさの中に、ほんの少しだけ“自分の居場所”が生まれることだった。
茶会室の窓は、庭園に面している。冬を越えた薔薇の枝が細い影を落とし、風が通るたびに硝子に淡く息がつく。窓辺に置かれた小卓は二人掛け——王宮の儀式のように大きな会食ではなく、妻と夫が“夫婦”として向き合える、たったひとつの場所。
リディアは、指先でカップの縁をそっと撫でた。
白磁は冷たく、けれど、それがいい。落ち着く。自分の温度で温めていけるものが、ここにはある。
「妃殿下、湯加減はいかがでしょう」
侍女ミナが、低い声で尋ねる。ミナはいつも、声の高さを変えない。王宮にふさわしい控えめさで、しかし、主の小さな揺れだけは見逃さない眼を持っている。
「ちょうどいいわ」
リディアは微笑んだ。微笑み方まで、妃の作法が染みついている。
そのことが時々、胸を締めつける。——笑顔は身を守る盾であり、同時に、誰にも本心を見せない檻でもあるから。
扉の向こうで、控えめなノックが二度。
ミナが一歩下がり、扉が開く。
アーヴィンが入ってくる。王太子としての装いは完璧で、襟元の刺繍も、肩章の光り方も、隙がない。歩みは静かで、背筋は真っすぐ。王宮が望む“未来の王”そのものだ。
けれど、リディアは知っている。
その完璧さの下に、彼がどれほど疲れているかを。
「待たせたか」
「いいえ、ちょうど今、淹れていただいたところです」
リディアは立ち上がらない。ここは“午後の茶会”。正式な謁見ではない。夫婦が並ぶための時間だ。だからこそ、彼が王太子ではなく、少しだけ“夫”になれる瞬間だった。
アーヴィンは、窓辺の席へ来ると、椅子を引き——一瞬だけ、動きを止めた。
まるで、自分が座っていい場所なのか、確かめるように。
リディアはその小さな躊躇に気づいて、胸の奥がすっと冷えるのを感じた。
——私の隣に座ることに、今さら迷う理由があるの?
だが彼は、いつも通りに腰を下ろす。いつも通り、穏やかな顔で、いつも通りの距離で。
「今日は庭が明るいな」
「ええ。風が少し、春に近い気がします」
会話は、無難で、柔らかく、続く。
リディアはそれを“安らぎ”と呼びたかった。彼の前で、王太子妃としてではなく、ひとりの女性として、息をできる時間だから。
ミナがカップを差し出し、銀のポットから紅茶を注ぐ。湯気が立ちのぼり、ベルガモットの香りが広がる。
その香りは、リディアにとって唯一の“確かなもの”だった。噂も、視線も、言葉も変わる。けれど、この香りだけは変わらない。
「……リディア」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
彼が、自分の名を呼ぶ時。そこに少しでも温度があると信じたくて、リディアは視線を上げた。
アーヴィンは、カップを持ったまま、窓の外を見ている。
視線が合わない。
「公務が立て込んでいて、時間が取りづらい」
「承知しております。王太子殿下のお務めは——」
「そういう意味じゃない」
彼の声が、少しだけ低くなる。
リディアは息を止めた。自分でも驚くほど、期待が胸を押し上げる。
けれどアーヴィンは、唇を開きかけて、閉じた。
その仕草は、言葉が喉元で引っかかったようで——結局、彼は微かに笑って、話題を変える。
「今日は、宰相が面倒な書類を持ってきた。お前なら、どう裁く?」
“お前なら”。
それは、少しだけ親しさのある言い方。けれど同時に、いつもこの茶会が、結局は政務の延長に吸い込まれていく合図でもある。
リディアは笑顔を崩さず、答えた。妃としての知識を、夫の助けになれる言葉を選んで、丁寧に。
そうすることで、自分の居場所を繋ぎとめられる気がしたから。
——私は、あなたの役に立つ。
それが、妃の価値だと信じたかった。
茶会が終わりに近づくころ、アーヴィンはふと窓辺の光に目を細めた。
「こうしていると、少し落ち着くな」
その一言に、リディアの胸が熱くなる。
彼も同じなのだと思えた。ここが彼の安らぎでもあるのだと。
「……そう言っていただけるなら、嬉しいです」
リディアは、心からの声を、なるべく平らに包んで返した。
王宮で、感情は露わにするほど危険になる。喜びさえも、誰かに利用される。
ミナがそっと近づき、食器を下げながら、主の横顔を見た。
その目が、ほんの一瞬だけ、悲しみに曇る。
リディアには見えない。
自分の笑顔が、どれほど“薄い”か。
そして、リディアもまだ知らない。
この窓辺の小さな安らぎが、これから、誰かの“足音”によって踏みにじられていくことを。
ただ、午後の光だけが、二人の間に落ちていた。
やさしく、静かに、そして——容赦なく。
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