「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

文字の大きさ
1 / 10

第1章|窓辺の午後の茶会

しおりを挟む

 王宮の午後は、音が少ない。
 高い天井の回廊を渡ってくる靴音も、遠くで鳴る鐘の余韻も、どこか布で包まれたように柔らかくなる。リディアが好きだったのは、その静けさの中に、ほんの少しだけ“自分の居場所”が生まれることだった。

 茶会室の窓は、庭園に面している。冬を越えた薔薇の枝が細い影を落とし、風が通るたびに硝子に淡く息がつく。窓辺に置かれた小卓は二人掛け——王宮の儀式のように大きな会食ではなく、妻と夫が“夫婦”として向き合える、たったひとつの場所。

 リディアは、指先でカップの縁をそっと撫でた。
 白磁は冷たく、けれど、それがいい。落ち着く。自分の温度で温めていけるものが、ここにはある。

「妃殿下、湯加減はいかがでしょう」

 侍女ミナが、低い声で尋ねる。ミナはいつも、声の高さを変えない。王宮にふさわしい控えめさで、しかし、主の小さな揺れだけは見逃さない眼を持っている。

「ちょうどいいわ」

 リディアは微笑んだ。微笑み方まで、妃の作法が染みついている。
 そのことが時々、胸を締めつける。——笑顔は身を守る盾であり、同時に、誰にも本心を見せない檻でもあるから。

 扉の向こうで、控えめなノックが二度。
 ミナが一歩下がり、扉が開く。

 アーヴィンが入ってくる。王太子としての装いは完璧で、襟元の刺繍も、肩章の光り方も、隙がない。歩みは静かで、背筋は真っすぐ。王宮が望む“未来の王”そのものだ。

 けれど、リディアは知っている。
 その完璧さの下に、彼がどれほど疲れているかを。

「待たせたか」

「いいえ、ちょうど今、淹れていただいたところです」

 リディアは立ち上がらない。ここは“午後の茶会”。正式な謁見ではない。夫婦が並ぶための時間だ。だからこそ、彼が王太子ではなく、少しだけ“夫”になれる瞬間だった。

 アーヴィンは、窓辺の席へ来ると、椅子を引き——一瞬だけ、動きを止めた。
 まるで、自分が座っていい場所なのか、確かめるように。

 リディアはその小さな躊躇に気づいて、胸の奥がすっと冷えるのを感じた。
 ——私の隣に座ることに、今さら迷う理由があるの?

 だが彼は、いつも通りに腰を下ろす。いつも通り、穏やかな顔で、いつも通りの距離で。

「今日は庭が明るいな」

「ええ。風が少し、春に近い気がします」

 会話は、無難で、柔らかく、続く。
 リディアはそれを“安らぎ”と呼びたかった。彼の前で、王太子妃としてではなく、ひとりの女性として、息をできる時間だから。

 ミナがカップを差し出し、銀のポットから紅茶を注ぐ。湯気が立ちのぼり、ベルガモットの香りが広がる。
 その香りは、リディアにとって唯一の“確かなもの”だった。噂も、視線も、言葉も変わる。けれど、この香りだけは変わらない。

「……リディア」

 不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
 彼が、自分の名を呼ぶ時。そこに少しでも温度があると信じたくて、リディアは視線を上げた。

 アーヴィンは、カップを持ったまま、窓の外を見ている。
 視線が合わない。

「公務が立て込んでいて、時間が取りづらい」

「承知しております。王太子殿下のお務めは——」

「そういう意味じゃない」

 彼の声が、少しだけ低くなる。
 リディアは息を止めた。自分でも驚くほど、期待が胸を押し上げる。

 けれどアーヴィンは、唇を開きかけて、閉じた。
 その仕草は、言葉が喉元で引っかかったようで——結局、彼は微かに笑って、話題を変える。

「今日は、宰相が面倒な書類を持ってきた。お前なら、どう裁く?」

 “お前なら”。
 それは、少しだけ親しさのある言い方。けれど同時に、いつもこの茶会が、結局は政務の延長に吸い込まれていく合図でもある。

 リディアは笑顔を崩さず、答えた。妃としての知識を、夫の助けになれる言葉を選んで、丁寧に。
 そうすることで、自分の居場所を繋ぎとめられる気がしたから。

 ——私は、あなたの役に立つ。
 それが、妃の価値だと信じたかった。

 茶会が終わりに近づくころ、アーヴィンはふと窓辺の光に目を細めた。

「こうしていると、少し落ち着くな」

 その一言に、リディアの胸が熱くなる。
 彼も同じなのだと思えた。ここが彼の安らぎでもあるのだと。

「……そう言っていただけるなら、嬉しいです」

 リディアは、心からの声を、なるべく平らに包んで返した。
 王宮で、感情は露わにするほど危険になる。喜びさえも、誰かに利用される。

 ミナがそっと近づき、食器を下げながら、主の横顔を見た。
 その目が、ほんの一瞬だけ、悲しみに曇る。

 リディアには見えない。
 自分の笑顔が、どれほど“薄い”か。

 そして、リディアもまだ知らない。
 この窓辺の小さな安らぎが、これから、誰かの“足音”によって踏みにじられていくことを。

 ただ、午後の光だけが、二人の間に落ちていた。
 やさしく、静かに、そして——容赦なく。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。 二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。 だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。 信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。 王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。 誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。 王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。

硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ
恋愛
幼い頃から、第一王女アリアと隣国の王子レオンは、誰もが疑わない「未来の国王夫妻」として育てられてきた。 政略で結ばれた関係でありながら、二人の間には確かな絆があった。幼馴染として共に過ごした年月の中で、アリアは感情を表に出さないながらも、レオンをただ一人、深く愛していた。 すべてが順調に進んでいるはずだった。 戴冠式と成婚を目前に控えた、その日までは。 歯車が狂い始めたのは、妹のセシルが涙に濡れた顔で、突然アリアの元へ駆け込んできた夜だった。 震える声で語られたのは、信じ難い言葉―― 「……レオン様に、愛を告白されたの」 アリアは即座に否定した。信じるはずがない。あのレオンが、そんな裏切りをするはずがないと。 だが、その確信は、夜の庭園で無惨に打ち砕かれる。 月明かりの下。 レオンは、確かにセシルを抱き寄せていた。 後に明らかになる真実は、あまりにも残酷だった。 姉に対する劣等感を長年募らせてきたセシルが仕掛けた、周到な罠。そして――レオンが決して知られてはならない「ある弱み」を、彼女が握っていたという事実。 それは、愛ではなかった。 だが、アリアの未来を根こそぎ奪うには、十分すぎる裏切りだった。

完結 愛される自信を失ったのは私の罪

音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。 それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。 ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。

王妃はただ、殺されないことを願う

柴田はつみ
恋愛
一度目の人生で、愛する国王の剣によって結婚半年で殺されたお飾り王妃リリアナ。彼女は運命に抗うことなく、隣国から送られた「呪いの血を持つ王妃」として処断された。 しかし、リリアナは婚礼直後に時を戻して転生する。二度目の人生、彼女に残された時間は、運命の冬至の夜会までの半年間。 リリアナは、以前のような無垢な愛を国王アレスに捧げることをやめ、「殺されない」ため、そして「愛する人を裏切り者にしたくない」ために、冷徹な「お飾りの王妃」として振る舞い始める。

沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。 最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。 しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。 カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。 離婚届の上に、涙が落ちる。 それでもシャルロッテは信じたい。 あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。 すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。

王子様への置き手紙

あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

【本編完結】笑顔で離縁してください 〜貴方に恋をしてました〜

桜夜
恋愛
「旦那様、私と離縁してください!」 私は今までに見せたことがないような笑顔で旦那様に離縁を申し出た……。 私はアルメニア王国の第三王女でした。私には二人のお姉様がいます。一番目のエリーお姉様は頭脳明晰でお優しく、何をするにも完璧なお姉様でした。二番目のウルルお姉様はとても美しく皆の憧れの的で、ご結婚をされた今では社交界の女性達をまとめております。では三番目の私は……。 王族では国が豊かになると噂される瞳の色を持った平凡な女でした… そんな私の旦那様は騎士団長をしており女性からも人気のある公爵家の三男の方でした……。 平凡な私が彼の方の隣にいてもいいのでしょうか? なので離縁させていただけませんか? 旦那様も離縁した方が嬉しいですよね?だって……。 *小説家になろう、カクヨムにも投稿しています

『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋
恋愛
愛されることを諦めた。だから、私は心を凍らせた。 不誠実な婚約者・ユリアンの冷遇に耐えかねたヤスミンは、 伝説の魔女の元を訪れ、恋心を消し去る「氷の薬」を飲む。 感情を捨て、完璧な「人形」となった彼女を前に、 ユリアンは初めて己の罪と執着に狂い始める。 「お願いだ、前のように僕を愛して泣いてくれ!」 足元に跪き、涙を流して乞う男に、ヤスミンは冷酷に微笑む。 「愛?……あいにく、そのような無駄な感情は捨てましたわ」 一度凍りついた心は、二度と溶けない。 後悔にのたうち回る男と、心を凍らせた冷徹な公爵夫人の、 終わりのない贖罪の記録。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

処理中です...