婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第I章|公開処刑の夜

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 王宮の舞踏会は、香りからして嘘だった。

 薔薇と白檀、磨き上げられた大理石に落ちるシャンデリアの光。弦楽器の甘い旋律が、笑い声とグラスの触れ合う音を丸く包み込み、そこが「幸福のためにある場所」だと錯覚させる。

 けれど――セシリアの胸の奥だけは、最初から冷えていた。

 淡い蜂蜜色の髪は、今日に限っていつもより柔らかく揺れる。侍女に整えられた長い髪の先が、絹の糸みたいに肩の上を滑り、背中をくすぐった。灰青の瞳は、灯りを映して硝子みたいに透ける。その目が今夜、ひどく乾いていることに、本人だけが気づいていた。

(……どうして、こんなに胸がざわつくの)

 舞踏会は祝いの名目だ。王太子の婚約者として、セシリアは何度もここに立ってきた。礼儀も手順も、間違えるはずがない。

 それなのに、今夜は――王宮が、獣の喉の奥みたいに見えた。

 金の縁取りが施された玉座の段上に、国王オルディスが座している。隣には王妃エリシア。さらに少し下がった位置で、王女ミレイユが扇を持ち、上品に笑っていた。

 その前に立つのが、王太子レイヴン・ヴァルドシュタイン。

 漆黒の髪は完璧に整えられているのに、前髪がほんのわずか額に落ちていた。普段なら一切許さない乱れ――その小さな違和感が、なぜかセシリアの喉を締めつけた。

 金に近い琥珀の瞳が、彼女を見た。

 冷たい。氷のように、感情の温度を拒む光。

 いつもの、王太子の瞳だ。そう思おうとしたのに、今夜はその冷たさの奥に、別のものが潜んでいる気がしてしまった。怒りではない。侮蔑でもない。もっと――深くて、苦い何か。

 セシリアは自分の頬に笑みを貼り付け、歩を進める。

 ――その時だった。

「皆さま。本日は、聖女候補リディア・ルミナスの清廉を讃え、王宮としてその功を――」

 司会の声が響き、視線が一斉に舞台の右へ移る。

 そこに、リディアがいた。

 白く柔らかなドレス。真珠の髪飾り。小さな肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、細い指を胸元に重ねている。

 可憐で、儚げで、守ってあげたくなる――“理想”の少女。

 そして彼女の背後には、教会の権威を纏う男が立っていた。枢機卿バルド。腹の底から信仰を語るのではなく、信仰そのものを武器にする目をしている。

 さらに奥、影の端に立つのは宮廷魔術師長オスカー。金縁の眼鏡の奥で、無機質な視線が会場全体を測量するように動いていた。

 セシリアの従姉、ヴィオラも、社交界の輪の中にいる。扇の陰からセシリアを見て、何か言いたげに眉をひそめた――が、次の瞬間には、何事もない顔に戻ってしまう。

 ざわめきが広がる。

 祝福の声ではない。蜜のように甘いはずの舞踏会の空気が、いつのまにか鉄の匂いに変わっている。

(……何が、起きているの?)

 セシリアが一歩身を引くと、レイヴンが前に出た。

 その立ち姿は、王太子のそれだった。背筋は真っ直ぐで、肩幅の広い軍人体型が、衣装の金糸の刺繍を冷ややかに映えさせる。大きな手が、剣の柄ではなく、胸元の飾り紐にかすかに触れる。癖だ。感情が昂った時に、無意識に何かを押さえるような――

 王太子は、会場を見渡した。

 そして、セシリアへ視線を落とした。

「……伯爵令嬢セシリア・アルヴェーン」

 名前を呼ばれた瞬間、会場の温度がさらに下がった。

 噂が、形を持って立ち上がるのが分かる。ささやき。視線。好奇心と断罪が混ざった、粘つく空気。

 セシリアは、息を吸った。胸が痛いほど冷たいのに、喉は妙に熱い。

「今夜をもって、私は――君との婚約を破棄する」

 言葉が落ちた。

 ガラスが割れる音はしないのに、世界が裂けた。

 セシリアは一瞬、意味を理解できなかった。唇がわずかに開く。けれど声が出ない。耳の奥が、きん、と鳴った。

 隣でリディアが、涙をこぼした。あまりに美しい、涙だった。計算された滲み方。光を拾い、彼女を“被害者”に完成させる角度。

「殿下……そんな……私は、ただ……」

 震える声。嗚咽を堪える仕草。

 それに合わせるように、枢機卿バルドが一歩進んだ。

「王宮は、清廉なる聖女候補への迫害を看過できぬ。セシリア・アルヴェーン、あなたは、リディア殿を――」

 罪状が並ぶ。いじめ。侮辱。陰湿な嫌がらせ。

 セシリアの知らない、セシリアの悪行。

 周囲がざわめく。誰かが囁く。「やはり」「聞いていた」「可憐なリディア様が……」
 誰かが軽蔑の息を吐く。誰かが楽しげに目を輝かせる。――“公開処刑”は、社交界の娯楽でもあるのだ。

 セシリアは、指先を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込み、痛みだけが現実を繋ぎとめる。

「……違います」

 やっと出た声は、ひどく小さかった。
 けれど彼女は、もう一度言う。

「私は……リディア様に、そのようなこと――」

 言い終える前に、リディアが顔を上げた。涙に濡れた瞳が、会場の光を受けて揺らめく。

「……やめてください、セシリア様……!」

 それは、悲鳴に聞こえた。
 そして悲鳴は、人の心を一瞬で支配する。

 会場が、セシリアを見た。
 信じるべきはどちらか、答えは最初から決まっているとでも言うように。

 王妃エリシアが、眉をわずかに寄せた。王女ミレイユは扇の陰で、視線の動きを読み取るように静かに観察している。

 国王オルディスの声が落ちた。

「――セシリア。申し開きがあるなら、述べよ」

 それは慈悲に見せかけた宣告だった。
 ここで正しく弁明できなければ、罪は確定する。
 けれど、何を言えばいい? “していないこと”を証明する言葉など、空に向かって投げる石だ。

 セシリアは、レイヴンを見た。

 助けて。
 その一言が、喉まで上がってきて、飲み込んだ。

 彼は――王太子は、セシリアを見ていない。

 いや、見ている。見ているのに、視線が彼女の輪郭をなぞるだけで、触れない。手が届かない場所に、彼女を置いている。

 琥珀の瞳は冷たい。
 それでも、その奥で――何かが、燃えている気がした。
 怒りでも、憎しみでもない。
 もっと、壊れそうな色。

 セシリアの胸が、どうしようもなく痛む。

 知らないはずの痛み。
 理由の分からない痛み。

「殿下……」

 声が震えた。

 レイヴンの前髪が、ほんの少し落ちる。
 彼は息を吸い、吐き、完璧な仮面を被り直した。

「……セシリア・アルヴェーン」

 名前が、刃物みたいに響く。

「君は、王太子妃には相応しくない」

 その言葉に、会場が息を呑む。
 次の瞬間、ざわめきが爆発する。
 笑い声。囁き。勝ち誇った同情。

 セシリアの視界が、少し揺れた。

 大理石の床の模様が、波打つみたいに歪む。
 シャンデリアの光が、やけに眩しい。

(……立っていなきゃ)

 そう思ったのに、足の感覚が遠い。
 指先が冷える。耳の奥が、また鳴った。

 遠くで、従姉ヴィオラが扇を握りしめているのが見えた。
 誰かが、セシリアの名を蔑むように口にする。
 リディアの嗚咽が、勝利の鐘みたいに響く。

 セシリアは、唇を噛んだ。

 泣いてはいけない。
 ここで泣いたら、もっと“有罪”になる。

 けれど――胸の奥が、何かを失う音を立てた。

 そして、その瞬間。

 レイヴンの視線が、ほんの一瞬だけ、セシリアの指へ落ちた。

 指輪。
 婚約の証。
 彼が自分の手で嵌めた、冷たい輝き。

 その琥珀の瞳が、痛みの色に変わった気がした。
 次の瞬間、彼はそれを隠し、声を硬くする。

「――以上だ」

 短い、終わりの宣言。

 セシリアの世界は、音のないまま崩れていった。
 立っているのに、落ちていく。

(……どうして……)

 問いは、形にならない。
 喉の奥で、涙より先に、息が詰まった。

 視界が、もう一度揺れる。
 眩しさが白く滲んで――

 セシリアは、気づかないふりをしようとした。

 倒れる前兆を。
 自分の身体が、限界を告げていることを。

 けれど足元の大理石が、突然、遠くなる。

 ――世界が、傾いた。

(……あ……)

 声にならない音だけが、胸の奥で震えた。

 そしてセシリアは、まだ笑うことさえできないまま、光の中へ落ちていった。


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