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第2章|崩れ落ちる指輪
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床は、信じられないほど冷たかった。
大理石の模様が、まるで水面の波紋みたいに揺れて見える。シャンデリアの光は眩しすぎて、視界の端が白く滲む。音だけが遠い。ざわめきは水の底から聞こえるみたいで、言葉の輪郭が溶けていった。
(……立って、いなきゃ……)
セシリアはそう思った。
思ったのに、膝が笑う。足首が自分のものじゃなくなる。
婚約破棄――その四文字が、頭の中で何度も反響する。意味が追いつかない。心だけが置き去りになって、後から痛みが追いかけてくる。
唇を噛む。血の味。
それでも涙は落ちない。落ちたら負けだ。落ちたら、あの可憐な涙に塗り潰される。
――その時、指先が震えた。
婚約の指輪。
白い金属に嵌められた青い宝石が、会場の光を受けて薄く輝く。これが“永遠”の証だと思っていた。彼が自分の手で嵌めた瞬間、胸の奥が温かくなったのを覚えている――はずなのに。
今、そこにあるのは熱ではなく、氷だった。
指輪が、ゆるんだ。
汗のせいか、指が冷えたせいか。
それとも――もう、この指に留まる意味がないとでも言うように。
(……嘘……)
小さな金属音。
指輪が床に落ちた。
青い石が一度だけ光を跳ね返し、くるりと回り、セシリアから少しだけ離れて止まった。
その瞬間、セシリアの胸の奥で、何かが決定的に折れた。
「……っ」
息ができない。
喉が締まり、視界が暗く落ちる。
倒れる――そう理解した時には、もう遅かった。
身体が前に傾き、髪が肩から滑り落ちる。
誰かが叫んだ気がする。
「令嬢が!」
「医官を!」
「やはり罪の――」
言葉が針のように刺さり、でもすぐ遠のく。
次の瞬間、セシリアの身体は、硬い床にぶつかる前に――宙で止まった。
強い腕が、背と膝裏を同時に抱え上げた。
香りがした。
鉄と革と、淡い香木。
覚えのある匂い。心が反射的にそれを“安心”だと判断してしまう匂い。
セシリアは薄く開いた瞼の向こうで、漆黒の髪を見た。
落ちた前髪の影。金の縁取り。大きな手。
(……殿下……?)
名前が喉まで上がった。
けれど声にならない。
抱き上げた男――王太子レイヴンの胸元が、近すぎる。
彼の鎖骨のあたり、薄い古傷が目に入った。見たことがある。何度も。なのに、今はそれが“他人の傷”みたいに遠い。
レイヴンは、セシリアを見ていなかった。
見ているのに――視線が、彼女の瞳に触れない。
琥珀の瞳は冷たく、まるで最初からそこに感情などなかったかのように、平らだった。
なのに、その腕だけが、痛いほど強い。
「殿下!」
近衛隊長ガイルが駆け寄ってくる。甲冑の擦れる音。
医官ユーリが、人々をかき分けて膝をつく。
「失神です。息は――」
ユーリの声は切迫しているのに、レイヴンは静かだった。
静かすぎて、恐ろしい。
セシリアの意識は浮き沈みしていた。
周りの声が遠い。音の膜が一枚、二枚と重なる。
その中で、ひとつだけはっきり聞こえた。
リディアの声だ。
「……殿下……! セシリア様が……」
涙に濡れた、震える声。
けれどその震えは、心配のようでいて――どこか、勝利の匂いがした。
リディアが一歩近づく気配。
その気配に、レイヴンの肩がほんの僅かに強張った。
そして、彼は――
「下がれ」
冷たい声だった。
低く、短く、誰にも逆らわせない声。
空気が凍る。
リディアは息を呑み、けれどすぐに「……申し訳ありません」と俯いた。可憐な仕草で、誰もが“守りたい”と思ってしまう角度で。
セシリアの胸が、理由もなく痛む。
(……どうして、胸が痛いの……)
目を閉じたい。
なのに、閉じられない。
レイヴンはセシリアを抱いたまま、会場の中心から歩き出した。
群衆が道を開ける。好奇の視線が、刃のように背中へ刺さる。
「ほら、見たでしょう」
「罪人の顔色だわ」
「可哀想なのはリディア様よ」
セシリアは音を拾うたび、指先から温度が奪われていく。
廊下に出ると、急に静かになった。
大広間の光が遠のき、壁に掛けられた燭台の火が、頼りなく揺れる。冷たい石壁の匂い。響く足音。
レイヴンの腕の中は温かいのに、彼の胸の奥は、雪原みたいに冷たかった。
セシリアは必死に、彼の顔を見上げようとする。
問いかけたい。
どうして。
何が起きているの。
私が、何をしたの。
けれど、レイヴンが先に口を開いた。
「……目を覚まさなくていい」
それは、呟きだった。
誰に向けた言葉なのか分からないほど小さな声。
セシリアの心臓が、ぎゅっと掴まれる。
(……目を覚まさなくていい……?)
その言葉は優しさではない。
祈りでもない。
――切り離すための言葉だ。
彼女の意識がさらに沈みかけた、その時。
ガイルが後ろから追いすがる。
「殿下、指輪が――」
セシリアの視界の端に、床に転がる青い石の指輪がちらりと映った。
ガイルが拾い上げようとした瞬間、レイヴンが言った。
「……それは」
一拍。
そして、冷酷に続ける。
「捨てておけ」
言葉が、胸を貫いた。
セシリアの指先が、反射的にレイヴンの衣服を掴む。
震えるほど弱い力で。
レイヴンの身体が、ほんの僅かに揺れた。
彼の腕が、セシリアを抱く力を増す。
まるで、逃げられないように――いや、落ちていかないように。
それでも、彼は彼女を見なかった。
そして次の瞬間、レイヴンは“王太子の声”で言い放った。
「――彼女を医務室へ。処置が済み次第、伯爵家へ戻せ」
命令。
感情のない命令。
ガイルが息を呑む。医官ユーリも一瞬だけ固まる。
けれど命令は命令で、誰も逆らえない。
セシリアの胸に、黒いものが広がった。
(……戻せ?)
ここから追い出される。
あんなふうに断罪されて。
何も分からないまま。
涙が、ようやく滲んだ。
滲んだだけで、落ちない。
落ちたら、最後の何かが終わってしまう気がした。
レイヴンの腕が、ふっと緩んだ。
医官へ引き渡すための動きだと分かって、セシリアは恐怖に息を詰める。
――離されたくない。
理由が分からないのに、身体がそう叫ぶ。
けれど、レイヴンは自分の手で、セシリアを医官へ渡した。
そして、最後に一度だけ――
彼は、セシリアの指先を見た。
指輪のない、白い指。
冷えた皮膚。震える手。
琥珀の瞳が、ひどく暗く揺れた。
その揺れを隠すように、レイヴンは視線を上げ、仮面を被り直す。
「……以上だ」
そう言って背を向ける。
セシリアは、薄れていく意識の中で、その背中を追った。
追ったのに、声にならない。
扉が閉まる音がした。
光が遠のく。
そしてセシリアは、最後に見た青い指輪の冷たい輝きだけを、瞼の裏に焼き付けたまま――闇へ沈んだ。
大理石の模様が、まるで水面の波紋みたいに揺れて見える。シャンデリアの光は眩しすぎて、視界の端が白く滲む。音だけが遠い。ざわめきは水の底から聞こえるみたいで、言葉の輪郭が溶けていった。
(……立って、いなきゃ……)
セシリアはそう思った。
思ったのに、膝が笑う。足首が自分のものじゃなくなる。
婚約破棄――その四文字が、頭の中で何度も反響する。意味が追いつかない。心だけが置き去りになって、後から痛みが追いかけてくる。
唇を噛む。血の味。
それでも涙は落ちない。落ちたら負けだ。落ちたら、あの可憐な涙に塗り潰される。
――その時、指先が震えた。
婚約の指輪。
白い金属に嵌められた青い宝石が、会場の光を受けて薄く輝く。これが“永遠”の証だと思っていた。彼が自分の手で嵌めた瞬間、胸の奥が温かくなったのを覚えている――はずなのに。
今、そこにあるのは熱ではなく、氷だった。
指輪が、ゆるんだ。
汗のせいか、指が冷えたせいか。
それとも――もう、この指に留まる意味がないとでも言うように。
(……嘘……)
小さな金属音。
指輪が床に落ちた。
青い石が一度だけ光を跳ね返し、くるりと回り、セシリアから少しだけ離れて止まった。
その瞬間、セシリアの胸の奥で、何かが決定的に折れた。
「……っ」
息ができない。
喉が締まり、視界が暗く落ちる。
倒れる――そう理解した時には、もう遅かった。
身体が前に傾き、髪が肩から滑り落ちる。
誰かが叫んだ気がする。
「令嬢が!」
「医官を!」
「やはり罪の――」
言葉が針のように刺さり、でもすぐ遠のく。
次の瞬間、セシリアの身体は、硬い床にぶつかる前に――宙で止まった。
強い腕が、背と膝裏を同時に抱え上げた。
香りがした。
鉄と革と、淡い香木。
覚えのある匂い。心が反射的にそれを“安心”だと判断してしまう匂い。
セシリアは薄く開いた瞼の向こうで、漆黒の髪を見た。
落ちた前髪の影。金の縁取り。大きな手。
(……殿下……?)
名前が喉まで上がった。
けれど声にならない。
抱き上げた男――王太子レイヴンの胸元が、近すぎる。
彼の鎖骨のあたり、薄い古傷が目に入った。見たことがある。何度も。なのに、今はそれが“他人の傷”みたいに遠い。
レイヴンは、セシリアを見ていなかった。
見ているのに――視線が、彼女の瞳に触れない。
琥珀の瞳は冷たく、まるで最初からそこに感情などなかったかのように、平らだった。
なのに、その腕だけが、痛いほど強い。
「殿下!」
近衛隊長ガイルが駆け寄ってくる。甲冑の擦れる音。
医官ユーリが、人々をかき分けて膝をつく。
「失神です。息は――」
ユーリの声は切迫しているのに、レイヴンは静かだった。
静かすぎて、恐ろしい。
セシリアの意識は浮き沈みしていた。
周りの声が遠い。音の膜が一枚、二枚と重なる。
その中で、ひとつだけはっきり聞こえた。
リディアの声だ。
「……殿下……! セシリア様が……」
涙に濡れた、震える声。
けれどその震えは、心配のようでいて――どこか、勝利の匂いがした。
リディアが一歩近づく気配。
その気配に、レイヴンの肩がほんの僅かに強張った。
そして、彼は――
「下がれ」
冷たい声だった。
低く、短く、誰にも逆らわせない声。
空気が凍る。
リディアは息を呑み、けれどすぐに「……申し訳ありません」と俯いた。可憐な仕草で、誰もが“守りたい”と思ってしまう角度で。
セシリアの胸が、理由もなく痛む。
(……どうして、胸が痛いの……)
目を閉じたい。
なのに、閉じられない。
レイヴンはセシリアを抱いたまま、会場の中心から歩き出した。
群衆が道を開ける。好奇の視線が、刃のように背中へ刺さる。
「ほら、見たでしょう」
「罪人の顔色だわ」
「可哀想なのはリディア様よ」
セシリアは音を拾うたび、指先から温度が奪われていく。
廊下に出ると、急に静かになった。
大広間の光が遠のき、壁に掛けられた燭台の火が、頼りなく揺れる。冷たい石壁の匂い。響く足音。
レイヴンの腕の中は温かいのに、彼の胸の奥は、雪原みたいに冷たかった。
セシリアは必死に、彼の顔を見上げようとする。
問いかけたい。
どうして。
何が起きているの。
私が、何をしたの。
けれど、レイヴンが先に口を開いた。
「……目を覚まさなくていい」
それは、呟きだった。
誰に向けた言葉なのか分からないほど小さな声。
セシリアの心臓が、ぎゅっと掴まれる。
(……目を覚まさなくていい……?)
その言葉は優しさではない。
祈りでもない。
――切り離すための言葉だ。
彼女の意識がさらに沈みかけた、その時。
ガイルが後ろから追いすがる。
「殿下、指輪が――」
セシリアの視界の端に、床に転がる青い石の指輪がちらりと映った。
ガイルが拾い上げようとした瞬間、レイヴンが言った。
「……それは」
一拍。
そして、冷酷に続ける。
「捨てておけ」
言葉が、胸を貫いた。
セシリアの指先が、反射的にレイヴンの衣服を掴む。
震えるほど弱い力で。
レイヴンの身体が、ほんの僅かに揺れた。
彼の腕が、セシリアを抱く力を増す。
まるで、逃げられないように――いや、落ちていかないように。
それでも、彼は彼女を見なかった。
そして次の瞬間、レイヴンは“王太子の声”で言い放った。
「――彼女を医務室へ。処置が済み次第、伯爵家へ戻せ」
命令。
感情のない命令。
ガイルが息を呑む。医官ユーリも一瞬だけ固まる。
けれど命令は命令で、誰も逆らえない。
セシリアの胸に、黒いものが広がった。
(……戻せ?)
ここから追い出される。
あんなふうに断罪されて。
何も分からないまま。
涙が、ようやく滲んだ。
滲んだだけで、落ちない。
落ちたら、最後の何かが終わってしまう気がした。
レイヴンの腕が、ふっと緩んだ。
医官へ引き渡すための動きだと分かって、セシリアは恐怖に息を詰める。
――離されたくない。
理由が分からないのに、身体がそう叫ぶ。
けれど、レイヴンは自分の手で、セシリアを医官へ渡した。
そして、最後に一度だけ――
彼は、セシリアの指先を見た。
指輪のない、白い指。
冷えた皮膚。震える手。
琥珀の瞳が、ひどく暗く揺れた。
その揺れを隠すように、レイヴンは視線を上げ、仮面を被り直す。
「……以上だ」
そう言って背を向ける。
セシリアは、薄れていく意識の中で、その背中を追った。
追ったのに、声にならない。
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光が遠のく。
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