婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

文字の大きさ
1 / 5

第I章|公開処刑の夜

しおりを挟む
 王宮の舞踏会は、香りからして嘘だった。

 薔薇と白檀、磨き上げられた大理石に落ちるシャンデリアの光。弦楽器の甘い旋律が、笑い声とグラスの触れ合う音を丸く包み込み、そこが「幸福のためにある場所」だと錯覚させる。

 けれど――セシリアの胸の奥だけは、最初から冷えていた。

 淡い蜂蜜色の髪は、今日に限っていつもより柔らかく揺れる。侍女に整えられた長い髪の先が、絹の糸みたいに肩の上を滑り、背中をくすぐった。灰青の瞳は、灯りを映して硝子みたいに透ける。その目が今夜、ひどく乾いていることに、本人だけが気づいていた。

(……どうして、こんなに胸がざわつくの)

 舞踏会は祝いの名目だ。王太子の婚約者として、セシリアは何度もここに立ってきた。礼儀も手順も、間違えるはずがない。

 それなのに、今夜は――王宮が、獣の喉の奥みたいに見えた。

 金の縁取りが施された玉座の段上に、国王オルディスが座している。隣には王妃エリシア。さらに少し下がった位置で、王女ミレイユが扇を持ち、上品に笑っていた。

 その前に立つのが、王太子レイヴン・ヴァルドシュタイン。

 漆黒の髪は完璧に整えられているのに、前髪がほんのわずか額に落ちていた。普段なら一切許さない乱れ――その小さな違和感が、なぜかセシリアの喉を締めつけた。

 金に近い琥珀の瞳が、彼女を見た。

 冷たい。氷のように、感情の温度を拒む光。

 いつもの、王太子の瞳だ。そう思おうとしたのに、今夜はその冷たさの奥に、別のものが潜んでいる気がしてしまった。怒りではない。侮蔑でもない。もっと――深くて、苦い何か。

 セシリアは自分の頬に笑みを貼り付け、歩を進める。

 ――その時だった。

「皆さま。本日は、聖女候補リディア・ルミナスの清廉を讃え、王宮としてその功を――」

 司会の声が響き、視線が一斉に舞台の右へ移る。

 そこに、リディアがいた。

 白く柔らかなドレス。真珠の髪飾り。小さな肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、細い指を胸元に重ねている。

 可憐で、儚げで、守ってあげたくなる――“理想”の少女。

 そして彼女の背後には、教会の権威を纏う男が立っていた。枢機卿バルド。腹の底から信仰を語るのではなく、信仰そのものを武器にする目をしている。

 さらに奥、影の端に立つのは宮廷魔術師長オスカー。金縁の眼鏡の奥で、無機質な視線が会場全体を測量するように動いていた。

 セシリアの従姉、ヴィオラも、社交界の輪の中にいる。扇の陰からセシリアを見て、何か言いたげに眉をひそめた――が、次の瞬間には、何事もない顔に戻ってしまう。

 ざわめきが広がる。

 祝福の声ではない。蜜のように甘いはずの舞踏会の空気が、いつのまにか鉄の匂いに変わっている。

(……何が、起きているの?)

 セシリアが一歩身を引くと、レイヴンが前に出た。

 その立ち姿は、王太子のそれだった。背筋は真っ直ぐで、肩幅の広い軍人体型が、衣装の金糸の刺繍を冷ややかに映えさせる。大きな手が、剣の柄ではなく、胸元の飾り紐にかすかに触れる。癖だ。感情が昂った時に、無意識に何かを押さえるような――

 王太子は、会場を見渡した。

 そして、セシリアへ視線を落とした。

「……伯爵令嬢セシリア・アルヴェーン」

 名前を呼ばれた瞬間、会場の温度がさらに下がった。

 噂が、形を持って立ち上がるのが分かる。ささやき。視線。好奇心と断罪が混ざった、粘つく空気。

 セシリアは、息を吸った。胸が痛いほど冷たいのに、喉は妙に熱い。

「今夜をもって、私は――君との婚約を破棄する」

 言葉が落ちた。

 ガラスが割れる音はしないのに、世界が裂けた。

 セシリアは一瞬、意味を理解できなかった。唇がわずかに開く。けれど声が出ない。耳の奥が、きん、と鳴った。

 隣でリディアが、涙をこぼした。あまりに美しい、涙だった。計算された滲み方。光を拾い、彼女を“被害者”に完成させる角度。

「殿下……そんな……私は、ただ……」

 震える声。嗚咽を堪える仕草。

 それに合わせるように、枢機卿バルドが一歩進んだ。

「王宮は、清廉なる聖女候補への迫害を看過できぬ。セシリア・アルヴェーン、あなたは、リディア殿を――」

 罪状が並ぶ。いじめ。侮辱。陰湿な嫌がらせ。

 セシリアの知らない、セシリアの悪行。

 周囲がざわめく。誰かが囁く。「やはり」「聞いていた」「可憐なリディア様が……」
 誰かが軽蔑の息を吐く。誰かが楽しげに目を輝かせる。――“公開処刑”は、社交界の娯楽でもあるのだ。

 セシリアは、指先を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込み、痛みだけが現実を繋ぎとめる。

「……違います」

 やっと出た声は、ひどく小さかった。
 けれど彼女は、もう一度言う。

「私は……リディア様に、そのようなこと――」

 言い終える前に、リディアが顔を上げた。涙に濡れた瞳が、会場の光を受けて揺らめく。

「……やめてください、セシリア様……!」

 それは、悲鳴に聞こえた。
 そして悲鳴は、人の心を一瞬で支配する。

 会場が、セシリアを見た。
 信じるべきはどちらか、答えは最初から決まっているとでも言うように。

 王妃エリシアが、眉をわずかに寄せた。王女ミレイユは扇の陰で、視線の動きを読み取るように静かに観察している。

 国王オルディスの声が落ちた。

「――セシリア。申し開きがあるなら、述べよ」

 それは慈悲に見せかけた宣告だった。
 ここで正しく弁明できなければ、罪は確定する。
 けれど、何を言えばいい? “していないこと”を証明する言葉など、空に向かって投げる石だ。

 セシリアは、レイヴンを見た。

 助けて。
 その一言が、喉まで上がってきて、飲み込んだ。

 彼は――王太子は、セシリアを見ていない。

 いや、見ている。見ているのに、視線が彼女の輪郭をなぞるだけで、触れない。手が届かない場所に、彼女を置いている。

 琥珀の瞳は冷たい。
 それでも、その奥で――何かが、燃えている気がした。
 怒りでも、憎しみでもない。
 もっと、壊れそうな色。

 セシリアの胸が、どうしようもなく痛む。

 知らないはずの痛み。
 理由の分からない痛み。

「殿下……」

 声が震えた。

 レイヴンの前髪が、ほんの少し落ちる。
 彼は息を吸い、吐き、完璧な仮面を被り直した。

「……セシリア・アルヴェーン」

 名前が、刃物みたいに響く。

「君は、王太子妃には相応しくない」

 その言葉に、会場が息を呑む。
 次の瞬間、ざわめきが爆発する。
 笑い声。囁き。勝ち誇った同情。

 セシリアの視界が、少し揺れた。

 大理石の床の模様が、波打つみたいに歪む。
 シャンデリアの光が、やけに眩しい。

(……立っていなきゃ)

 そう思ったのに、足の感覚が遠い。
 指先が冷える。耳の奥が、また鳴った。

 遠くで、従姉ヴィオラが扇を握りしめているのが見えた。
 誰かが、セシリアの名を蔑むように口にする。
 リディアの嗚咽が、勝利の鐘みたいに響く。

 セシリアは、唇を噛んだ。

 泣いてはいけない。
 ここで泣いたら、もっと“有罪”になる。

 けれど――胸の奥が、何かを失う音を立てた。

 そして、その瞬間。

 レイヴンの視線が、ほんの一瞬だけ、セシリアの指へ落ちた。

 指輪。
 婚約の証。
 彼が自分の手で嵌めた、冷たい輝き。

 その琥珀の瞳が、痛みの色に変わった気がした。
 次の瞬間、彼はそれを隠し、声を硬くする。

「――以上だ」

 短い、終わりの宣言。

 セシリアの世界は、音のないまま崩れていった。
 立っているのに、落ちていく。

(……どうして……)

 問いは、形にならない。
 喉の奥で、涙より先に、息が詰まった。

 視界が、もう一度揺れる。
 眩しさが白く滲んで――

 セシリアは、気づかないふりをしようとした。

 倒れる前兆を。
 自分の身体が、限界を告げていることを。

 けれど足元の大理石が、突然、遠くなる。

 ――世界が、傾いた。

(……あ……)

 声にならない音だけが、胸の奥で震えた。

 そしてセシリアは、まだ笑うことさえできないまま、光の中へ落ちていった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども

神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」 と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。 大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。 文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...