婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第3章|目覚め「あなたはどなた?」

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 最初に戻ってきたのは、匂いだった。

 薬草を煮出した甘い苦さ。清拭のためのアルコール。乾いたリネンの匂い。
 そして、その奥に――かすかに混ざる、鉄と革と香木。

 その匂いを嗅いだ瞬間、胸がきゅっと縮む。

(……なんで……)

 目を開ける前から、涙が出そうになる。理由が分からない。思い出せない。
 けれど身体だけが、知っているみたいに反応した。

 セシリアはゆっくり瞼を持ち上げた。

 白い天蓋。淡い光。王宮の医務室――豪奢な飾りはないが、必要以上に清潔で、静かで、息が詰まるほど整っている。

 喉が渇いていた。舌が重い。
 指先を動かすと、シーツが擦れて小さな音がした。

「……気がつかれましたか」

 低い声。男の声。

 視線を向けた先に、医官ユーリがいた。眼鏡の奥の目が、真剣にセシリアを観察する。

「ここは王宮医務室です。失神されましたが、命に別状はありません。……めまいは?」

 セシリアは口を開こうとして、言葉が出ないことに気づく。喉の奥がひりつく。
 目を瞬かせると、睫毛の先に光が溜まって、視界が滲んだ。

(舞踏会……)

 思い出すだけで、胃の底が冷える。

 婚約破棄。
 リディアの涙。
 ざわめき。
 冷たい声。
 指輪が床に落ちた音。

 そこで記憶が途切れている。
 ――いや、途切れてなどいない。痛みだけが残っている。

 セシリアが息を吸い直した、その時。

 扉の向こうで、足音が止まった。

 近づいてくる。
 静かで、重い足音。規則的で、軍人の歩き方。

 胸がまた、ぎゅっと痛む。
 何かが来る。
 何か――大事なものが。

 扉が開いた。

 入ってきたのは、漆黒の髪の男だった。
 王宮の廊下に溶けるほど整った軍装。金糸の刺繍。肩章。重さのある外套。

 王太子レイヴン・ヴァルドシュタイン。

 ――そうだ。彼だ。知っている。名前も肩書も顔も、全部分かる。

 なのに。

 セシリアの頭の中だけが、変だった。
 彼を見た瞬間、胸の奥がひどく疼いて、息が詰まった。涙がこぼれそうになった。抱きしめられたくてたまらなくなった。

 けれど、そこにあるはずの“思い出”が――ない。

 何も浮かばない。
 彼と笑った記憶も、手を繋いだ感触も、優しい声も。

 空洞だけが、ぽっかりと開いている。

(……どうして?)

 レイヴンの琥珀の瞳が、セシリアを捉えた。

 冷たい光。
 それでもその冷たさの下で、何かがひどく揺れている。
 怒りではない。憎しみでもない。
 ――壊れそうな、痛み。

 セシリアは、無意識にシーツの端を握りしめた。
 握った指が震える。

 医官ユーリが、気配を読んで一歩下がる。

「殿下。患者は目覚めました。会話は可能ですが、刺激は避けた方が――」

 言い終える前に、レイヴンが手を上げた。
 黙れ、という合図。静かで、絶対の。

 医官は口を閉じる。
 部屋に、二人きりの空気が落ちた。

 レイヴンはベッドの傍へ近づいた。
 近づくたび、セシリアの胸の痛みが強くなる。何かが呼び戻されそうで、怖い。

 そして彼は――距離を詰める直前で、足を止めた。

 手を伸ばせば触れられるのに、触れない。
 触れたいのに、触れない。
 その我慢が空気を張りつめさせる。

 セシリアは唇を震わせた。

(この人は……)

 王太子。
 婚約者――だったはずの人。

 でも、どうして?
 どうして婚約破棄?
 どうして私は倒れた?
 どうして彼の前で、こんなに苦しい?

 喉の奥に、言葉が溜まっていく。
 問いが押し寄せる。

 けれど、最初に出てきたのは――

「……あの」

 声が掠れた。自分の声なのに、弱々しくて情けない。

 レイヴンの眉が、ほんの僅かに動いた。
 その小さな動きだけで、胸が締めつけられる。

 セシリアは勇気を振り絞り、言葉を選んだ。

「失礼ですが……」

 彼の視線が、セシリアの唇に落ちる。
 次に言う言葉を、恐れるみたいに。

 セシリアは、その瞳をまっすぐ見上げた。

「あなたは、どなたですか?」

 ――時間が止まった。

 空気が凍り、息ができなくなる。
 医務室の静けさが、さらに重くなる。

 レイヴンの瞳の奥で、何かが砕けた。

 琥珀の光が、ひどく暗く揺れた。
 その揺れは、怒りではなく――喪失の色だった。

「……セシリア」

 名前が呼ばれた。
 けれどそれは、叱責ではない。呼びかけでもない。
 喉の奥から絞り出した、痛みの塊のような声。

 セシリアの胸が、理由もなく熱くなった。
 泣きたくなる。
 抱きしめたくなる。
 思い出したくなる。

 でも、思い出せない。

 レイヴンは、目を伏せた。
 長い睫毛の影が頬に落ち、完璧な王太子の仮面が、一瞬だけ外れる。

 右鎖骨のあたりに、彼の指が触れる。薄い古傷を押さえる癖。
 それをした瞬間、彼は――自分を立て直した。

 次に顔を上げた時、そこには冷たい王太子がいた。

「……忘れたなら、それでいい」

 セシリアは息を呑む。

「え……?」

 理解できない。
 忘れた? 何を?
 彼を? どうして?

 セシリアが身を起こそうとした瞬間、頭がぐらりと揺れた。
 医官が慌てて手を伸ばす。

「動かないで――」

 レイヴンの声が、それを制した。

「触れるな」

 医官の手が止まる。
 レイヴンは自分で、距離を保ったままセシリアを見下ろした。

 セシリアの目には、彼が冷たい男にしか見えないはずなのに。
 なぜか、その冷たさが“嘘”だと感じてしまう。

「殿下……私は……」

 言葉が絡まる。
 何を言えばいいのか分からない。

 レイヴンは、答えを与えない。
 ただ、必要なことだけを切り捨てるみたいに言う。

「……お前は、もう俺のことを思い出そうとするな」

 セシリアは、凍りついた。

 心臓が跳ね、胸が痛いほど締まる。
 拒絶。
 拒絶なのに、なぜか“懇願”のようにも聞こえる。

「なぜ……ですか」

 セシリアの声は、震えていた。

「私は、あなたが誰かも分からないのに……。でも、胸が……苦しくて……」

 言いながら、涙が溜まっていくのが分かる。
 泣きたくないのに。
 泣いたら負けなのに。

 レイヴンの瞳が、一瞬だけ揺れた。
 その揺れが、セシリアの涙腺を壊した。

 涙が、こぼれた。

 頬を伝う雫が、シーツに落ちる。
 硝子みたいに透けた涙。

 レイヴンの喉が、わずかに動いた。
 言葉を飲み込む動き。

 彼は、セシリアに一歩近づきかけて――止まった。

 伸ばしかけた手を、拳にして握りしめた。
 指の関節が白くなる。

「……泣くな」

 命令の形をしているのに、声が痛い。

 セシリアは、首を振る。
 止められない。

「ごめんなさい……でも……」

 言葉にならない。
 胸が痛い。
 理由が分からない。

 レイヴンは、視線を逸らした。
 セシリアの涙を見ていられないように。

「……医官」

 呼ばれたユーリが、恐る恐る一歩前に出る。

「はい、殿下」

「この件は口外するな。……彼女の症状も、だ」

 その言い方は、守っているようにも、隠しているようにも聞こえた。

 セシリアが息を詰める。

「殿下、記憶喪失の可能性が――」

「黙れ」

 低い声で切られる。
 医官は唇を結び、深く頭を下げた。

 レイヴンは、扉へ向かった。

 去る。
 また、去る。

 セシリアは焦った。
 この人が行ってしまったら、二度と真実に触れられない気がする。
 自分の空白が、永遠に埋まらない気がする。

「待って……!」

 咄嗟に声が出た。
 掠れた叫び。

 レイヴンの背中が止まった。
 外套の裾が、わずかに揺れる。

 セシリアは涙を拭うこともできず、必死に言葉を探した。

「私……あなたを……」

 ――思い出せないのに。

 喉が詰まる。
 胸が痛い。
 涙が止まらない。

 レイヴンは振り返らなかった。
 振り返ったら、壊れてしまうのだと、背中が語っていた。

 ただ、低く、短く言う。

「……忘れたままでいろ」

 それは命令の形をした、祈りだった。

 扉が閉まる音がした。
 足音が遠ざかる。

 セシリアは、涙の中で空白を抱えた。

 ――名前を知っているのに、思い出せない人。
 ――冷たい言葉を投げるのに、胸が痛む人。

 ベッドの上で、彼女は小さく息を吸った。
 吸った空気が、ひどく苦い。

「……あなたは、どなたですか……」

 自分で言った言葉が、今さら胸に刺さる。

 そしてセシリアは知らないまま、ひとつの真実だけを身体で感じていた。

 この空白は、きっと――
 “守られた代償”だということを。
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