婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第4章|伯爵家の崩壊

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 目覚めた朝、セシリアはまず――自分の部屋の天井を見上げていた。

 王宮医務室の白い天蓋ではない。
 伯爵家の屋敷、幼い頃から見慣れた天井画。淡い花模様と金の縁取り。
 それが今、ひどく“他人の家”のように感じる。

 カーテン越しの光は柔らかいのに、胸の奥が冷えたままだった。

 自分がなぜここにいるのかは分かる。
 舞踏会で婚約破棄された。倒れた。医務室で目覚めた。
 ――そして、王太子レイヴンの顔を見て、何かを失っていると知った。

 けれど、その“何か”の形だけが掴めない。

 彼の名前も肩書も覚えている。
 彼が王太子で、かつて自分の婚約者だったことも理解している。
 なのに、思い出だけがない。

 思い出せないくせに、胸が痛む。
 痛むくせに、理由が分からない。

 布団の中で、セシリアは息を吸った。
 吸った空気が、ひどく苦い。

 ノックの音がした。

「セシリア」

 父の声だった。伯爵アルヴェーンの声。
 それだけで背筋が伸びる。怖いからではなく、習慣だ。家の空気がそうさせる。

「入ります」

 返事を待たず扉が開いた。
 父は正装のまま立っていた。昨夜のまま帰ってきたのだろうか。疲労の影はあるのに、顔にはそれを見せない。

 その背後に、兄ルーカスの気配が見えた。
 兄は父ほど冷たくない。けれど今朝の目は、何か言いたいのに言えない色をしている。

 父は部屋の中へ入ると、扉を閉めた。

 その音が、妙に重い。

「……体調はどうだ」

 形だけの問いだった。
 父は答えを期待していない。会話ではなく、通告をしに来たのだ。

「大丈夫です」

 セシリアは布団の上で背を正し、声を整えた。
 礼儀は覚えている。体の隅々に染みついている。

 父は頷きもしない。

「昨夜の件について話す。――いや、話はすでに決まっている」

 セシリアの指先が、シーツの上でぎゅっと縮んだ。
 胸が冷たくなる。

「お前は、王宮に戻るな」

 一瞬、意味が分からなかった。

「……え?」

「社交界ではすでに、お前は“聖女候補を虐げた女”として扱われている。今、口を開けば開くほど火に油だ。伯爵家は焼ける。わかるな」

 父の口調は冷静で、淡々としていた。
 そこに娘への心配が混じっていないことが、逆に痛い。

 セシリアは唇を噛んだ。

「私は、していません」

 言った瞬間、父の目が鋭くなった。

「誰も真実など欲しがらない。欲しがるのは“納得できる悪役”だ。お前はその役に選ばれた。――それだけだ」

 冷たい現実。
 でも、セシリアは食い下がらずにいられなかった。

「殿下は……王太子殿下は、どうして……」

 言いかけた瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
 名前を口にするだけで痛むのが、悔しい。

 父が鼻で笑った。

「王太子殿下がどうこうなど、関係ない。殿下は王家の判断を下された。それが王家の意思だ。伯爵家は従う」

 セシリアは息を呑む。
 その言い方は、まるで――娘を一人の人間として扱っていない。

「お前は伯爵家の娘だ。家を守れ」

 父は言った。
 それが、命令だった。

 セシリアの胸の奥で、小さな火が灯った。

 泣きたい。崩れたい。叫びたい。
 でも、そんな弱さを見せたら負ける。
 昨夜から、ずっと“負け”が積み重なっている。もうこれ以上、踏み潰されたくない。

「……家を守るなら、私は――どうすればいいのですか」

 父の目が、少しだけ細くなった。

「しばらく療養という形にする。外には出るな。誰にも会うな。噂が落ち着くまで、お前は存在しない者として振る舞え」

 存在しない者。
 その言葉が、セシリアの耳に刺さった。

 部屋の空気が薄くなる。

 息を吸っても、胸に入ってこない。

 セシリアは父を見た。
 見てしまった。父の目が、娘ではなく“厄介な荷物”を見ていることを。

 その瞬間、分かった。

(……ここにいても、私は死ぬ)

 身体が生きていても、心が。

 兄ルーカスが、たまらず口を開いた。

「父上、あんまりだ。セシリアは――」

「黙れ、ルーカス」

 父の一喝で、兄は口を閉じた。
 握った拳が震えている。

 セシリアの胸が、ちくりと痛んだ。
 兄は味方でいてくれる。少なくとも、完全に切り捨てはしない。

 でも、兄もまた家の中の人間だ。
 父を覆すことはできない。

 父はもう結論を出していた。

「――伯爵家の名誉を汚したのは事実だ。お前が何もしていないとしても、結果は同じ。責任を取れ」

 セシリアは、静かに息を吐いた。

 そして――顔を上げた。

「……いいえ」

 父が目を細める。

「何だ」

「私が責任を取るなら、伯爵家の“檻”の中で存在を消すことではありません」

 自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。

 父の眉が動く。
 怒りというより、“理解できないもの”を見る顔。

 セシリアは続けた。

「私は働きます」

 父が一瞬、言葉を失った。

「働く、だと?」

「はい。家が私を守れないなら、私が私を守ります。噂から逃げるのではなく、身分に甘えるのでもなく――生きる方法を、自分で選びます」

 兄ルーカスが、息を呑んだ。

 父は低い声で言う。

「何を馬鹿な。伯爵令嬢が働くなど、さらに笑いものだ」

「笑われても構いません」

 セシリアは言った。
 胸が震えている。怖い。
 それでも、昨夜から一度も掴めなかった“足場”を、今ようやく見つけた気がした。

「私は、もう……存在しない者として生きたくありません」

 父が一歩近づく。
 圧がある。息が詰まりそうになる。

「……お前は、私に逆らうのか」

 セシリアは、逃げなかった。

「逆らうのではありません。選ぶのです」

 言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
 ほんの少し。
 それでも確かに、昨日までの自分とは違う。

 父はしばらく黙っていた。
 そして、吐き捨てるように言った。

「勝手にしろ。だが伯爵家の名を使うな。お前がしくじれば、家は終わる」

 つまり、支援はない。
 守る気もない。

 セシリアは頷いた。

「承知しました」

 言った瞬間、胸が痛んだ。
 でも、もう引き返さない。

 父が踵を返す。

「ルーカス、来い」

 兄がセシリアを見た。
 言いたいことが山ほどある目だ。
 けれど父の背に従うしかない。

 扉が閉まる直前、兄が小さく唇を動かした。

『……すまない』

 音にならない言葉。
 それでもセシリアには伝わった。

 扉が閉まった。

 部屋に、静寂が戻る。
 カーテンが揺れ、光が床に落ちる。
 何も変わっていないはずなのに、セシリアの世界は変わってしまった。

 セシリアは布団から降りた。

 足がまだ少しふらつく。
 それでも鏡の前に立ち、淡い蜂蜜色の髪を手で梳く。

 鏡の中の自分は、ひどく青白い。
 けれどその目――灰青の瞳の奥に、かすかな光が宿っている。

(……働く)

 口に出すと、現実になる気がした。

 そこで、ふと胸が痛んだ。

 “彼”を思い出していないのに。
 名前を口にしていないのに。
 なのに、痛い。

 セシリアは喉元に手を当てた。

(……私、何を失ったの……)

 答えは出ない。

 ただ、ひとつだけ決まった。

 ここを出る。
 伯爵家の檻を出て、新しい場所へ行く。
 王宮へ――ではない。
 王宮の中の、誰にも踏みにじられない場所へ。

 セシリアは机の引き出しを開け、紙とペンを取り出した。

 父に許しを請うためではない。
 自分の道を作るために。

 “王宮侍女採用”――その噂が本当なら。
 身分を隠し、過去を問われず働ける場所があるなら。

 そこへ行く。

 セシリアは震える手で、最初の一行を書いた。

『採用条件を、お伺いしたく――』

 インクが紙に滲む。
 それが、彼女の新しい生活の始まりのしるしだった。

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