婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第5章|侍女採用の条件

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 王宮の裏口は、表門とはまるで別の世界だった。

 門をくぐった瞬間、香水と笑い声の代わりに、石と水と金属の匂いがした。
 廊下を急ぐ靴音。籠を抱える腕。短い指示の声。布が擦れる音。――王宮が“生き物”として動いている音がする。

 セシリアは、胸の前で小さな封筒を握りしめた。

 自分で書いた採用願い。
 伯爵令嬢としてではなく、一人の働き手としてここに来た証。

 淡い蜂蜜色の髪は、今日は簡素な編み込みにまとめた。飾りはない。ドレスも控えめ。灰青の瞳だけが、緊張でいつもより透明に揺れている。

(戻ってきたくなかった……でも、ここしかない)

 舞踏会で倒れたあの夜から、まだ数日しか経っていない。
 外へ出れば視線が刺さる。屋敷にいれば、存在を消される。

 ――働く。
 それだけが、セシリアの足を前へ進めた。

「次の方」

 案内役の下働きが、無表情に言った。
 セシリアは小さく頷き、扉の前へ立つ。

 手のひらに汗が滲む。
 呼吸を整え、ノックをする。

「入れ」

 中から聞こえた声は、女の声だった。
 低く、よく通る声。冷たいのではない。無駄を削ぎ落とした声だ。

 扉を開けると、そこは侍女の執務室だった。

 机が並び、書類が整然と積まれ、壁には当番表と規律が掲示されている。
 華やかさはない。けれど、隅々まで秩序が染み込んだ空間。

 正面の机に座っていた女性が顔を上げた。

 侍女長マルタ・ベルネ。

 年齢は四十代半ばだろう。髪はきっちりとまとめられ、首筋がすっきり見える。視線は鋭いが、感情で揺れない。――一目で分かる。“この王宮の裏側を動かす人”だ。

 マルタは、セシリアの顔を見て、眉ひとつ動かさなかった。

「……名前」

 問われ、セシリアは一瞬だけ躊躇した。

 伯爵家の名を出すな、と父は言った。
 自分もそれに従うつもりだった。

「……セシリアです」

「姓は?」

 胸が詰まる。

 嘘をつくのは怖い。
 でも、ここで名乗れば噂が追ってくる。働く前に潰される。

「……必要でしょうか」

 口に出した瞬間、自分でも驚いた。
 けれどマルタは怒らなかった。ただ、視線がさらに鋭くなる。

「ここは王宮。曖昧な者を雇えば、王宮が崩れる」

 正論だった。

 セシリアは息を吸い、答えた。

「……アルヴェーン、と名乗ることは許されていません。家の都合で」

 正直に言った。
 全てではないが、嘘でもない。

 マルタは、書類に視線を落とした。
 セシリアの手紙。そこに書かれた文字を追う。

 ペン先が整い、文の癖が丁寧で、でもどこか硬い。
 育ちの良さが滲んでいる。

「……貴族だな」

 短い指摘。

 セシリアの喉が鳴る。
 否定するか、認めるか。

 迷っている間に、マルタが続けた。

「貴族が侍女になりたい理由は二つしかない。逃げるか、堕ちるか」

 堕ちる、という言葉が刺さる。
 セシリアは目を伏せず、言った。

「私は……逃げません。生きます」

 自分の声が、少し震えたのが分かった。
 それでも言い切った。

 マルタは一度だけ、ほんの僅かに目を細めた。
 評価ではない。試すような視線。

「働く覚悟は?」

「あります」

「噂は?」

「……耐えます」

「誰かに泣きつくつもりは?」

 セシリアは、胸の奥の痛みを飲み込んだ。

 王太子の顔が、ふっと浮かびかける。
 あの琥珀の瞳。冷たい声。
 ――思い出せないのに、痛い。

 セシリアは首を振る。

「ありません」

 マルタは指先で机を一度だけ叩いた。
 音が、合図のように響く。

「条件がある」

 セシリアは背筋を伸ばした。

「第一に、過去を語らないこと。ここに来た理由も、何があったかも。――誰にも」

 セシリアの胸が、ひゅっと冷える。
 それは“守り”にも“封じ”にも聞こえた。

「第二に、あなたに関する噂が王宮内で広がった場合、私はあなたを守らない。切る」

 容赦のない言葉。
 でも、誠実だ。

 セシリアは頷いた。

「第三に」

 マルタは顔を上げ、セシリアをまっすぐ見た。

「王宮内で“誰かの視線”に振り回されないこと。特に、上の方々の」

 胸がきゅっと痛む。
 上の方々――王族。貴族。教会。

 そして、レイヴン。

 セシリアの指先が、無意識に喉元へ触れそうになって止まった。
 首を掻く癖ではない。痛みを抑えるような仕草だ。

「……できます」

 言った瞬間、マルタが立ち上がった。

 書類棚から一枚の札を取り出し、セシリアの前に置く。

 小さな金属の名札。
 控えめな装飾。裏に細い鎖。

「配属は厨房補助から。掃除、洗濯、配膳。汚れるし、手は荒れる。辞めてもいい」

 セシリアは名札を見つめた。

 それは“侍女になる”というより、
 “王宮の歯車になる”ための札だった。

 でも――それでいい。

 存在を消されるより、歯車としてでも生きる方がいい。

 セシリアは名札を手に取った。
 冷たい。
 金属の冷たさが、指輪の冷たさを思い出させる。

 胸がまた痛む。
 理由が分からないまま。

 そこへ、扉の外から声が飛び込んできた。

「マルタ様、新人の面接、終わりましたか?」

 明るい声。
 扉が開く。

 入ってきたのは、侍女服姿の女性だった。
 柔らかな栗色の髪をまとめ、笑顔が上品で温かい。

 先輩侍女フローラ。

「あなたが新しい方? 緊張してるでしょう。大丈夫、マルタ様は怖い人じゃないの」

「フローラ、余計なことを言うな」

 マルタが冷たく言うと、フローラは肩をすくめて笑った。

「はいはい。――でも、必要でしょう? 最初の空気って」

 フローラの視線がセシリアに向く。

「私はフローラ。困ったら聞いて」

 その言葉が、セシリアの胸に温かく落ちた。

 次に、廊下側から小さな顔が覗く。

「……ねえ、あの人? 新しい侍女?」

 囁くような声。
 同期の侍女リネットが、興味津々の顔で覗き込んでいる。
 その後ろに、視線だけ鋭い少女――イヴがいた。

 イヴはセシリアを一度だけ見て、何も言わずに目を逸らす。
 その目が、値踏みの色を含んでいて、セシリアの背筋が少し冷えた。

 マルタが言う。

「リネット、イヴ。用がないなら下がれ」

「はぁい」

 リネットは軽く返事をして引っ込み、イヴは無言で姿を消した。

 扉が閉まり、室内が少し静かになる。

 マルタは最後に言った。

「名札を握った時点で、あなたの過去は“王宮の裏側”に置いていけ。持ち込めば壊れる」

 セシリアは名札を強く握りしめた。

 冷たい金属が、手のひらに食い込む。
 痛いほど現実だった。

「……分かりました」

 声が掠れないように、意識して言う。

 フローラがふっと笑って、セシリアの肩に軽く手を置いた。

「大丈夫。ここでは、働いた分だけ生きられるから」

 その言葉に、セシリアの胸の奥が少しだけほどけた。

 ――働いた分だけ、生きられる。

 それは、伯爵家の檻にはなかった言葉。

 セシリアは名札の鎖を指でなぞり、そっと首にかけた。

 金属の冷たさが肌に触れ、ひやりとする。
 けれど不思議と、それは恐怖ではなかった。

 新しい生活の始まりの冷たさだ。

 セシリアは顔を上げた。

 王宮の裏側の空気が、肺に入る。
 まだ苦い。
 でも、昨日より少しだけ、息ができた。
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