婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第15章|レイヴンの牽制

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 王太子の執務室は、静けさで人を追い詰める場所だった。

 重い扉。厚い絨毯。磨かれた机。
 外では王宮が息をしているのに、この部屋だけが別の時間を持っている。
 静かで、整っていて、――逃げ道がない。

 レイヴンは窓の外を見ていた。
 中庭の光。噴水の白い飛沫。花壇の縁。
 そこに、昨日――セシリアが笑っていた。

 あの笑みを思い出すだけで、胸の奥が焼けた。

(……俺の前では、笑わなかった)

 正確には、笑えなかったのだろう。
 自分が冷たく追い払った。
 守るために。
 守るために――自分が彼女を壊した。

 それでも、あの笑みが他の男に向けられた事実が、どうしようもなく醜い感情を呼び起こす。

 嫉妬。

 王太子が持ってはいけない感情。
 それを持った瞬間、王太子はただの男になってしまう。
 ――いや、もう、なっている。

 レイヴンは右鎖骨の古傷に指を当てた。
 癖だ。感情を押さえるための癖。
 触れたところで、燃えるものは消えない。

 ノック。

「殿下。近衛隊長ガイルです」

「入れ」

 ガイルが入室し、短く報告した。

「侍女区画で噂が広がっています。『新人侍女が護衛騎士に色目を使った』と」

 レイヴンの瞳が、瞬間的に冷えた。

「……誰が流した」

「同期侍女イヴが中心です。聖女候補リディア殿の周辺へ媚びている者」

 ガイルの言葉に、レイヴンの胸の奥で何かが鈍く鳴った。

(リディア側……やはり)

 偽聖女と黒幕は、セシリアを潰すために噂を使う。
 噂は刃だ。
 刃は、守りをすり抜ける。

 そして、その刃が――“護衛騎士”へ向く。

 レイヴンは机の上の書類を一枚、裏返した。
 それだけの動きで、感情を隠す。
 王太子としての作法。

「アデルか」

 名前を呼んだ瞬間、胸がまた焼けた。
 自分でも分かる。
 今のこれは、理性ではない。

 ガイルが頷く。

「はい。真面目な男です。侍女の荷が崩れそうになったのを支えただけでしょう。……ですが噂が育てば、本人の任務にも影響が出ます」

 影響。
 それは、“安全区域”の穴にもなる。

(……セシリアの周りに穴は作れない)

 レイヴンは立ち上がった。
 椅子が僅かに鳴る。
 部屋の空気がさらに硬くなる。

「アデルを呼べ」

 ガイルが一瞬だけ、迷う顔をした。
 殿下が“ただの警告”では済まない気配を察したのだろう。

「殿下――」

「呼べ」

 低い声で切られる。
 ガイルはそれ以上言わず、一礼して退室した。

 レイヴンは窓際に立ったまま、拳を握った。
 指の関節が白い。

 守るため。
 守るためだ、と繰り返す。

 アデルが近づけば、噂が増える。
 噂が増えれば、セシリアが狙われる。
 狙われれば、死ぬ。

 それだけだ。
 それだけの理由だ。

 ――なのに、胸が焼けるのはなぜだ。

 扉が開いた。

「王太子殿下。護衛騎士アデル、参上いたしました」

 アデルが入室し、膝を折る。
 真っ直ぐな姿勢。迷いのない礼。
 若いが、鍛えられた身体と芯の強さがある。

 レイヴンは彼を見下ろした。

 冷たい王太子の目で。
 それができる自分に、少しだけ救われる。

「立て」

「は」

 アデルが立ち上がる。
 目は真っ直ぐ。王太子を恐れていないわけではない。
 恐れを礼儀で包んでいる。

 レイヴンは言った。

「侍女セシリアに、必要以上に近づくな」

 空気が張る。

 アデルの目が一瞬だけ揺れた。
 だがすぐに落ち着いた声で答える。

「……殿下。私は職務として、通路の安全を――」

「職務?」

 レイヴンの声が、冷たく刃を帯びた。

「職務と言えば、何でも許されると思うな」

 言いながら、自分の言葉が刺さる。
 ――自分も職務と言って、彼女を捨てた。

 レイヴンはそれを胸の奥へ押し込み、続けた。

「彼女は噂の中心にいる。お前が近づけば、餌になる。餌になれば、刃が飛ぶ」

 アデルは一拍置いた。
 王太子の言葉が、“侍女の保護”を意図していると理解したのだろう。
 だが同時に、納得しきれない何かもある。

「……承知いたしました。ですが、殿下。侍女は守る対象です。特に、危険な噂が出ているなら尚更――」

 正論だ。
 護衛として正しい。
 だからこそ、レイヴンの苛立ちが増す。

(守る対象?)

 守る対象を守れなかったのは誰だ。
 自分だ。

 レイヴンは低く言った。

「守る対象は選ぶ。彼女は――俺が守る」

 言い切った瞬間、ガイルが小さく息を呑むのが分かった。
 アデルの目もわずかに広がる。

 自分が何を言ったか、レイヴンにも分かっていた。

 俺が守る。
 それは告白に近い。
 王太子の口から出るべき言葉ではない。

 レイヴンはすぐに言い直すように続けた。

「……王宮として守る。余計な接触は不要だ」

 取り繕った。
 取り繕ったけれど、言葉は戻らない。

 アデルは静かに頭を下げた。

「かしこまりました。必要以上に近づくことは控えます。――ただ」

 アデルが顔を上げる。

「彼女が困っている時、倒れそうな時、危険な時……それでも私は、見過ごすべきでしょうか」

 レイヴンの胸が、ぎり、と鳴った。

(見過ごせるわけがない)

 だが、見過ごすしかない場面がある。
 近づけば、思い出させる。
 触れれば、封印が揺れる。
 封印が揺れれば、彼女は狙われる。

 レイヴンは唇を結んだ。
 言葉にできない真実が喉元で暴れる。

 王太子の仮面のまま、言う。

「その時は、近衛に報告しろ。お前の手で抱えるな」

 アデルの眉がわずかに寄る。
 それは、護衛としては不自然な命令だ。

 だが、王太子の命令は絶対。

「……承知いたしました」

 レイヴンはアデルを見つめた。

 この男が悪いわけではない。
 優しいのも、正しいのも、罪ではない。

 ――罪なのは、自分だ。

 それでも、止めなければならない。

 レイヴンは低く、最後の釘を刺した。

「彼女に笑いかけるな」

 言った瞬間、部屋の空気が凍った。

 ガイルが視線を伏せる。
 アデルが僅かに目を見開く。

 レイヴン自身も、言ってしまったことを理解する。

 今のは“保護”ではない。
 “私情”だ。

 嫉妬だ。

 レイヴンはすぐに冷たく付け足した。

「……噂が育つ」

 理由を添えれば、命令は正当化される。
 自分の醜さも、見えにくくなる。

 アデルは数秒沈黙し、それから深く頭を下げた。

「……承知いたしました。殿下の命に従います」

 アデルが退室する。
 扉が閉まる。

 静けさが戻る。

 レイヴンは、机の端に手をついた。
 息が苦しい。
 胸が焼ける。

 ガイルが低い声で言った。

「殿下……」

「言うな」

 レイヴンは即座に遮った。
 言われなくても分かっている。

 自分は今、王太子としてではなく――
 ただ一人の男として、醜い欲を持っている。

 守るために捨てたはずなのに。
 忘れられたのに。
 他の男に笑うのが許せない。

 レイヴンは窓の外を見た。

 中庭の花が、風に揺れている。
 その下で、彼女が笑った。

 その笑みを、二度と見たくないわけじゃない。
 見たい。
 見たいからこそ、誰にも渡したくない。

 ――矛盾が、胸を裂く。

 レイヴンは、喉の奥で小さく呟いた。

「……セシリア」

 名前は痛い。
 名前は熱い。
 忘れられてなお、心臓を握る。

 彼の嫉妬はまだ芽だ。
 けれどその芽は、確実に根を伸ばし始めていた。
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