婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第14章|噂の種

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 噂は、声の形をしていない。

 誰かが言った言葉が、誰かの表情になり、誰かの視線に混ざり、気づけば空気そのものになる。
 王宮の裏側は忙しい。だからこそ、噂は早い。忙しさの隙間を縫って、軽く、鋭く、心を刺す。

 中庭で笑った日の午後――セシリアは、胸が少しだけ軽かった。

 笑っていいと言われたわけじゃない。
 救われたわけでもない。
 ただ、ほんの数秒、痛みが薄れた。

 その「薄れた」が、どれだけ貴重だったか。
 セシリアは知らないふりをして、仕事に戻った。

 洗い物の布を絞り、銀器を磨き、廊下の角で礼をして、指示通りに動く。
 働く音の中に自分を沈めれば、胸の奥の痛みは少しだけ遠のく。

 ――ところが、夕方の控室で、空気が変わっていた。

 いつもなら布の擦れる音と、短い雑談があるだけの部屋。
 今日は、誰も笑わない。
 誰もが、何かを“確認”するようにセシリアを見ている。

(……また、何か)

 胃が冷たくなる。

 セシリアは盆を台に置き、黙って水差しを取りに行こうとした。
 その背中へ、薄い声が落ちた。

「ねえ、見た?」

 同期侍女イヴの声だった。
 甘い声。なのに、その甘さが毒の匂いを含んでいる。

「中庭でさ。護衛騎士が、あの新人と……」

 控室の空気が、ざわりと揺れる。
 誰かが息を呑む。
 誰かが薄く笑う。

 セシリアは背中の筋を固くした。

(……私のことだ)

 振り返らない。
 振り返ったら、噂の中心に立ってしまう。

 セシリアはあくまで“仕事”の顔で、水差しに手を伸ばした。
 手が少し震えるのを、見せない。

 イヴは続ける。

「優しくしてもらってたよね。籠も持ってもらって、花も教えてもらって。……ねえ、あれってさ」

 声が少しだけ弾む。

「色目、じゃない?」

 言葉が落ちた瞬間、控室が静まり返った。
 静まり返ってから、すぐにざわめきが起こる。
 笑い声はない。けれど、視線が笑っている。

 セシリアの喉が、ひゅっと鳴った。

(……違う)

 違う。
 アデルは、ただ優しかった。
 助けてくれただけだ。守ってくれただけだ。

 でも、否定の言葉は――燃料になる。

 “色目を使って否定した”と切り取られる。
 “罪人なのに騎士を誑かす”という物語に組み込まれる。

 セシリアは、水差しを持ったまま、何も言わなかった。

 その沈黙を、イヴは勝ち誇ったように受け取る。

「ほら、やっぱり。だって普通、騎士が侍女にあんなに親しくする? ねえ、リネット」

 名指しされたリネットが、びくりと肩を震わせた。
 リネットは中立でいたい。誰にも嫌われたくない。
 その弱さが、噂の格好の餌になる。

「わ、私は……」

 言い淀むリネットの顔色が変わる。
 “違う”と言いたいのに、言えない。

 セシリアは胸が痛んだ。
 リネットを責められない。
 自分だって同じだった。伯爵家の中で、声を上げられなかった。

 そこへ、フローラの声が入った。

「イヴ。やめなさい」

 いつも柔らかなフローラの声が、今日は硬い。
 それだけで、控室の空気が少しだけ締まる。

 イヴは肩をすくめた。

「やめろって言われても。みんな気になるでしょ。王宮って、そういうところだもの」

 正論の形をした嫌味。
 フローラは唇を噛んだ。

「騎士が侍女を助けた。それだけ。そこに何か意味を足すのは、あなたの悪意よ」

 イヴは笑った。
 その笑いは、声のない笑いだ。

「悪意じゃないよ。忠告。だってさ――あの子、あれで元は“伯爵令嬢”なんでしょ?」

 控室が、凍った。

 セシリアの指先から血の気が引く。

(……誰が言ったの)

 姓は伏せた。
 過去を詮索するなとマルタは言った。
 それでも噂は回る。王宮の噂は、背中に耳がついている。

 イヴはわざとらしく唇を尖らせる。

「ごめん、言っちゃいけなかった? でもみんな知ってるよ。婚約破棄されたって。聖女候補様をいじめたって」

 その言葉が刃になり、セシリアの胸に刺さる。

 喉が熱い。
 吐き気がする。
 でも、ここで崩れたら終わる。

 セシリアは水差しを台に置き、ゆっくりと振り返った。

 灰青の瞳が、控室の空気を真っ直ぐ見る。
 泣きそうな自分を、奥へ押し込める。

「……私が何者でも、今は侍女です」

 声は小さい。
 けれど、芯があった。

「仕事をします。それ以外のことは――」

 言い終える前に、イヴが口を挟む。

「仕事ね。うん、そう。仕事。……だからこそ、騎士様に“特別扱い”されるのは困るよね?」

 特別扱い。
 その言葉が、セシリアの胸を刺す。

(特別扱いなんて、してもらってない)

 でも、アデルの優しさは確かに“特別”に見えたのかもしれない。
 王宮では、優しさは誤解されやすい。

 イヴは続ける。

「ほら、偽聖女……じゃない、聖女候補様も、あなたが怖いって言ってたし。騎士様にまで近づいたら、さすがに――」

 言葉が狙っている方向が見える。
 リディア側に媚びたい。自分の立場を作りたい。
 セシリアを叩くことで、相対的に自分の“清廉さ”を上げる。

 その時、控室の扉が開いた。

 侍女長マルタが入ってきた。

 瞬間、空気が引き締まる。
 噂が一斉に口を閉じる。

 マルタは控室全体を一度だけ見回し、低い声で言った。

「……手が止まっている。業務に戻れ」

 誰も逆らえない。
 侍女たちは慌てて散り、布を持ち、盆を持ち、仕事へ戻っていく。

 イヴだけが最後に残り、わざとらしく微笑んだ。

「はい、侍女長。……でも、忠告は必要だと思ったので」

 マルタはイヴを見た。
 視線は冷たく、感情がない。

「忠告が必要なのは、あなたの口の軽さだ」

 イヴの笑みが一瞬だけ固まる。
 だがすぐに取り繕い、頭を下げて去っていった。

 控室に残ったのは、セシリアとマルタと、フローラだけになった。

 マルタがセシリアを見た。

 責める目ではない。
 守る目でもない。
 ただ、現実を見る目。

「……噂は止まらない。止められるのは、火が大きくなる前だけだ」

 セシリアは唇を噛んだ。
 血の味がする。

「……私、何をしたらいいですか」

 声が震えた。
 自分で驚くほど、助けを求める声になってしまった。

 マルタは短く言った。

「余計な接触を避けろ。――特に騎士」

 セシリアの胸が痛む。

(アデル様に近づくな、ってこと……?)

 違う。
 近づいたのは、向こうだ。
 助けてくれただけだ。

 でも“接触”という事実だけが、噂を育てる。

 フローラが悔しそうに言った。

「でも、それじゃ……セシリアが可哀想」

 マルタはフローラを一度だけ見て、静かに言った。

「可哀想かどうかで王宮は動かない。動くのは“利益”と“危険”だ」

 そしてセシリアに視線を戻す。

「あなたは今、危険だ。噂が増えれば増えるほど、あなたに何かが起きた時に“起きて当然”になる」

 その言葉が、背筋に冷たいものを落とした。

(……殺されても、当然)

 昨夜、舞踏会で味わった空気が蘇る。
 断罪の空気。
 娯楽の空気。

 セシリアは小さく頷いた。

「……分かりました」

 分かった、と言うしかない。

 マルタはそれ以上何も言わず、去っていく。
 扉が閉まる。

 セシリアは控室に一人取り残されたような気分になった。
 フローラがそっと近づき、肩に手を置く。

「……大丈夫。あなたは間違ってない」

 その優しさが、逆に胸を締めつけた。

 間違ってないのに、守れない。
 間違ってないのに、孤立する。

 セシリアは目を伏せた。

 そして、心の奥で静かに決めた。

(……騎士様に、迷惑をかけない)

 自分のせいで誰かが傷つくのは嫌だ。
 助けてくれた人が、噂の火に巻き込まれるのは嫌だ。

 ――だから、距離を取る。

 その決意が、次のすれ違いの導火線になることを、セシリアはまだ知らない。
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