婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第17章|偽聖女の“慈善”

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 慈善は、香りがする。

 焼き立てのパン。温いスープ。干した薬草。柔らかな布。
 そしてそれ以上に強い、善意の匂い――“誰かに見せるための善意”の匂い。

 王宮の正門前、特設の配給所には朝から人が集まっていた。
 孤児、病人、貧しい母親、戦で家を失った者。
 列は長く、息は白い。冬の終わりの風が冷たく肌を刺す。

 その前に、白い外套を纏ったリディアが立っている。

 聖女候補。
 可憐な微笑。涙を滲ませる瞳。祈るように胸に手を当てる仕草。
 彼女が立つだけで、周囲の空気が「救われるべき物語」に整っていく。

 セシリアは少し離れた位置で、配膳用の箱を抱えたまま立っていた。
 侍女服の布地が風に冷える。胸元の名札が、金属の冷たさを肌へ伝える。

 今日は“慈善行事”の随行。
 王女ミレイユの区域から、王宮としての支援物資が出る。侍女が運搬と配布の補助を行う。
 その中に、セシリアも入れられていた。

 理由は分かる。

(……見せしめ)

 侍女長マルタは何も言わなかった。
 だが王宮は、わざわざこの場所にセシリアを立たせた。
 噂の中心にいる侍女を、聖女候補の“光”の隣へ。
 影をより濃く見せるために。

 セシリアは唇を噛んだ。
 冷たい空気より、視線の方が痛い。

 列の民衆が、リディアを見て手を伸ばす。

「ありがとうございます、聖女様……!」

「どうか、どうか、お祈りを……!」

 リディアは一人一人に目を向け、優しく頷き、時に膝を折って握った手にそっと触れる。
 触れられた者は泣く。
 周囲は感動する。
 物語が完成する。

 枢機卿バルドがその横に立ち、声を朗々と響かせる。

「聖女候補リディア殿の慈悲深き御心に感謝を! 王宮と教会は、苦しむ民を決して見捨てぬ!」

 拍手が起きる。
 ため息のような歓声。
 祈りの言葉。

 ――その光の端に、セシリアがいる。

 誰も彼女に拍手をしない。
 誰も彼女に感謝を言わない。
 ただ、視線が刺さる。

「あの侍女……あれが……」

「聖女様を虐げた女だって……」

「罰が当たればいいのに」

 囁きが、刃になる。

 セシリアは箱の縁を握りしめ、指先の痛みで心を繋ぎとめた。

(私は、仕事をしているだけ)

 仕事。
 その言葉だけが、唯一の盾。

 配給の合間、セシリアは水を運び、空になった籠を回収し、布を整えた。
 淡々と動けば、誰も話しかけない。
 誰も触れない。
 まるで、透明な存在。

 それが今は救いでもあり、屈辱でもある。

 ふと、王女ミレイユの姿が見えた。

 彼女は少し離れた場所で全体を見渡し、視線を鋭く動かしている。
 善意の演出の裏側。
 配給の動線。
 警備の隙。
 人々の空気。

 “王族として”現実を読む目。

 ミレイユは一瞬だけセシリアを見た。
 その目に同情はない。
 ただ、何かを計る光がある。

(……王女殿下は、何を見ているの)

 セシリアが考える暇もなく、場が小さくざわめいた。

 リディアが、わざとらしく声を上げたのだ。

「……あの、そちらの箱……重そうです。大丈夫ですか?」

 向けられた視線の先は――セシリア。

 セシリアの喉が固まる。

(狙ってる)

 リディアは優しさの仮面で近づき、セシリアの箱を見た。
 そして眉を寄せ、困ったように微笑む。

「……侍女の方も、こんなに寒い中でお疲れでしょう。少し休んでください。私が代わりに――」

 言いながら、リディアは箱に手を伸ばした。

 触れられたくない。
 理由は分からない。
 でも本能が拒む。

 セシリアは反射的に一歩引いた。

「……結構です。仕事ですので」

 声は震えないようにした。
 だが、拒絶の形になった瞬間、周囲の空気が変わる。

 リディアの目が潤む。

 ほんの一瞬。
 次の瞬間、涙が落ちる。

「……ごめんなさい。私、また余計なことを……」

 可憐な謝罪。
 でもそこには、見事な誘導がある。

 ――聖女候補の善意を、罪人侍女が拒んだ。

 ざわめきが起きる。
 囁きが増える。

「やっぱり、性格が悪い……」
「聖女様が可哀想……」

 セシリアの胸が痛む。
 違う。
 拒んだのは善意じゃない。演出だ。
 でも、言えない。

 枢機卿バルドが一歩前に出る。
 笑みは柔らかい。目は冷たい。

「セシリア殿。慈善の場でそのような態度は、民の心を乱す。……悔い改めの心があるなら、聖女候補殿に礼を」

 悔い改め。
 言葉が、鎖になる。

 セシリアは息を呑んだ。
 膝を折って頭を下げれば、屈辱は完成する。
 ここで頭を下げた瞬間、彼女は“罪を認めた者”として固定される。

 でも、逆らえば燃える。

 セシリアの指先が冷える。
 視界が少し揺れる。
 祈祷室の頭痛が蘇る。

(……やめて)

 心の中で呟いた時、すっと横から影が差した。

「失礼」

 低い声。
 近衛の声ではない。
 もっと柔らかく、しかし切れ味のある声。

 振り向くと、そこにいたのは王女ミレイユだった。

 彼女は扇を閉じたまま、枢機卿バルドを静かに見た。

「枢機卿。侍女は王宮の任務で動いています。慈善の場で私の侍女を叱責するのは、私の顔に泥を塗る行為よ」

 空気が止まった。

 バルドの笑みが僅かに硬くなる。
 だが枢機卿はすぐに笑みを深め、腰を折った。

「王女殿下。これは僭越ながら、民の心のために――」

「民の心を乱すのは、演出過多の涙よ」

 ミレイユの言葉は、静かで冷たかった。
 慈善の場に、刃を落とす声。

 リディアが息を呑む。
 涙を止めるタイミングを失った顔。

 ミレイユはリディアへ視線を向け、微笑んだ。
 微笑なのに、怖い。

「聖女候補殿。慈善は素晴らしい。けれど“誰かを踏む”慈善なら、王宮は支援を考え直すわ」

 リディアの唇が震える。

「……そんなつもりは……」

「つもりがなくても、人は踏まれるの。特に、弱い立場の者はね」

 その言葉が、セシリアの胸に深く落ちた。

 ミレイユは扇を開き、周囲へ向けて明るい声を作る。

「さあ、配給を続けましょう。列が長いわ。民のために、時間を無駄にしない」

 空気が動き出す。
 ざわめきが「感動」から「作業」へ変わる。
 枢機卿も、表情を整えて引いた。
 リディアもまた、微笑を貼り直した。

 けれど、セシリアの胸はまだ痛い。

 助けられた。
 でも、それがまた新しい火種になるのが分かる。

(王女殿下が私を庇った……)

 庇われた者は、次に狙われる。

 ミレイユはすれ違いざま、セシリアの耳元にだけ小さく言った。

「顔を上げて。あなたは働いている。――罪人の顔をする必要はない」

 セシリアは息を呑み、頷くことしかできなかった。

 その後ろで、イヴがリディアへ駆け寄る気配がした。
 媚びるように、心配するように、涙を拭う布を差し出す気配。

 噂はまた動く。
 今日の出来事は、必ず別の形で語られる。

 セシリアは箱を抱え直し、仕事へ戻った。

 冷たい風が頬を刺す。
 でも、胸の奥に小さな火が残っていた。

 ――私は、屈辱を飲み込んだ。
 でも、飲み込んだまま終わらない。

 その決意が、セシリアの背筋を支えた。

 そして遠くで、リディアの涙が再び光を拾った。

 慈善の名の下に、今日も“物語”は作られていく。
 誰かを救うふりをして、誰かを潰す物語が。


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