婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第18章|アデルの優しさ

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 慈善行事の帰り道、空気は冷たいのに、セシリアの頬だけが熱かった。

 寒さのせいではない。
 屈辱の熱だ。

 聖女候補リディアの涙。
 枢機卿バルドの“悔い改め”という鎖。
 そして、民衆の囁き――「罪人」「聖女様が可哀想」。

 王女ミレイユが間に入ってくれた。
 それでも刺さった言葉は抜けない。
 抜けないまま、皮膚の下でじくじく痛む。

 セシリアは箱を抱え、王宮の裏門をくぐった。
 夕暮れの光が長く伸び、石床に影が落ちる。
 侍女たちは小走りで解散し、各自の担当へ戻っていく。
 誰も振り返らない。
 誰も「大丈夫?」とは言わない。

 それが王宮の優しさの形――なのかもしれない。

(……泣かない)

 セシリアは唇を噛んで歩いた。
 泣いたら、今日の屈辱が“正しい”ことになってしまう。
 泣いたら、自分が“罪人”の顔になる。

 そう思っているのに、目の奥が熱い。
 視界の端が滲む。

 曲がり角を曲がった瞬間、足がふっと軽くなる――と思った。

 違う。
 軽くなったのではなく、力が抜けたのだ。

 膝がわずかに揺れる。
 箱が腕から滑りそうになる。

(……まずい)

 次の瞬間、箱の縁が確かに支えられた。

 誰かの手。
 大きい手。
 温度のある手。

「……持ちます」

 低い声。
 落ち着いた声。

 セシリアは反射的に振り返った。

 アデルだった。

 夕暮れの光が彼の髪を柔らかく染め、鎧の金具が淡く光る。
 いつも通りの穏やかな眼差し。
 その眼差しが、今はいつもより真剣で、少しだけ心配の色を含んでいた。

「アデル様……」

 セシリアは慌てて箱を抱え直そうとした。
 けれど腕に力が入らない。
 指先が震える。

 アデルは箱を持ち上げるわけではなく、ただ“落ちないように”支えたまま言う。

「無理しないで。顔色が悪い」

 その一言で、セシリアの喉が詰まった。

 心配される。
 それだけで、崩れそうになる。

「……大丈夫です」

 言おうとした声が掠れた。
 掠れた瞬間、胸の奥の堰が揺れた。

 アデルは息を吐き、セシリアの歩幅に合わせて横に並ぶ。
 箱は彼が支えたまま。
 でも彼は“奪わない”。
 セシリアの仕事を、セシリアの誇りを、奪わない距離。

「……送ります。どこまで戻る?」

 セシリアは一瞬だけ迷った。

 噂。
 イヴの言葉。
 “騎士に色目”。
 近づけば噂が育つ。

(迷惑をかけないって決めたのに)

 でも、足が少し震えていた。
 このまま一人で戻ったら、途中で倒れる気がする。

 セシリアは小さく答えた。

「……侍女区画の手前までで結構です」

「分かった」

 アデルの返事は短い。
 余計な優しさを盛らない。
 だから、セシリアは拒めない。

 二人は並んで歩き始めた。

 夕暮れの回廊は、昼とは違う顔をしている。
 窓の外が赤く染まり、石壁がその色を吸って温かく見える。
 けれど空気は冷たく、風が廊下を抜けていく。

 セシリアの胸は、冷たいのに熱い。
 屈辱の熱がまだ残り、涙が引かない。

 アデルは黙っている。
 黙っているけれど、隣にいるだけで“安心”が増える。
 不思議な感覚だった。

 しばらく歩いて、アデルがふと口を開いた。

「……今日、あの場にいた人たち。言葉が過ぎる」

 セシリアはびくりと肩を震わせた。

 “見ていた”。
 “知っている”。
 その事実が怖い。
 でも同時に、救われる。

「……私は、慣れています」

 口にした瞬間、自分でも苦笑したくなった。
 慣れてなどいない。
 ただ、慣れたふりが上手くなっただけだ。

 アデルは足を止めずに言った。

「慣れなくていい」

 その言葉が、胸を刺した。

 セシリアは歩きながら目を伏せた。
 涙が落ちそうで、見せたくなかった。

「……私、迷惑をかけたくないんです」

 口から出たのは、ずっと胸の奥にあった本音だった。

「噂が……広がって。私のせいで、誰かが……」

 “あなたが”と言いかけて、飲み込む。

 アデルは、わずかに歩幅を落とした。
 セシリアに合わせるために。
 それだけの動きが、優しい。

「迷惑なら、俺が断る」

 あまりにも自然な言葉。

 セシリアは息を呑んだ。

「でも……騎士様の立場が」

「立場で人を見捨てるなら、最初から剣を握らない」

 アデルの声は穏やかなのに、芯が強い。
 それが護衛騎士の矜持なのだと分かる。

 セシリアの目の奥が熱くなる。

 泣くな。
 泣いたら、依存になる。
 泣いたら、迷惑になる。

 そう思っているのに、涙が滲む。

 アデルがそれに気づいたのか、少しだけ声を低くした。

「……セシリアさん。今、ひとつだけ言っていい?」

 セシリアは頷く。
 頷いた瞬間、涙が頬を伝った。

「あなたが悪いから、ああ言われたんじゃない」

 セシリアの胸が、痛いほど締まる。

「……王宮は、誰かを悪役にして安心する。悪役がいれば、みんな自分を正しい側に置ける。だから、言葉がキツくなる」

 アデルの言葉は冷静だった。
 慰めではなく、現実の説明。

 それが逆に救いだった。
 誰かが自分の痛みに名前をつけてくれるだけで、少し呼吸ができる。

 セシリアは小さく息を吐いた。

「……ありがとうございます」

 声が震える。
 それでも言えた。

 その時、風が抜けた。

 セシリアの髪を揺らし、頬の涙を冷やし、胸元の名札を小さく鳴らす。
 金属音が、なぜか心臓の鼓動みたいに聞こえた。

 名札――仕事の名。
 伯爵令嬢の名を捨てた証。

 セシリアは名札に触れ、指先で押さえた。
 冷たい金属。
 その冷たさが、今は安心に繋がっている。

 侍女区画の手前に差し掛かった時、セシリアの足がまた小さく揺れた。
 疲れが遅れてくる。
 屈辱の後に、身体が正直に崩れようとする。

「……っ」

 声にならない呻きが漏れた瞬間、アデルの手がセシリアの肘に触れた。

 強くない。
 でも確かに支える力。

 その“触れた”瞬間――

 セシリアの胸の痛みが、ふっと薄れた。

 嘘みたいに。
 さっきまで刺さっていた言葉の棘が、一本抜けるみたいに。

(……なに、これ)

 驚いて顔を上げると、アデルも少し驚いた顔をしていた。
 自分の手が、何かを起こしたとは知らない顔。

 セシリアは呼吸をした。

 息が、入る。
 胸の奥に空気が届く。

 ただ“支えられた”だけなのに。
 ただ“触れた”だけなのに。
 どうしてこんなに落ち着くのか。

 まるで、身体が――この温度を知っているみたいだった。

 セシリアは慌てて一歩離れようとして、止まった。

(……嫌じゃない)

 嫌じゃないどころか、もっと触れていたいと思ってしまう。
 その思いが怖い。

 噂が育つ。
 迷惑になる。
 自分のせいで彼が傷つく。

 セシリアは震える声で言った。

「……大丈夫です。もう、歩けます」

 アデルは頷き、手を離した。
 離し方まで丁寧だった。
 必要以上に触れない。
 必要なだけ支える。

「無理をしないで。今日は、早く休んで」

「はい」

 セシリアは小さく頭を下げた。
 泣いた顔を見せないように。

 アデルは少し迷ってから、最後に言った。

「……明日も、花は咲くよ」

 中庭の“白い星”のことだ。
 その言葉に、セシリアの胸が温かくなる。

 アデルが去っていく背中を見送りながら、セシリアは自分の指先を見た。
 さっき触れられた場所が、まだ温かい気がする。

 胸の奥の空白が、ほんの少しだけ痛まない。
 その代わり、別の怖さが生まれた。

 ――この温度に、慣れてしまったらどうなるのだろう。

 セシリアは名札を握りしめ、侍女区画の扉を押した。

 今夜は、泣かないで眠れるかもしれない。
 そう思った瞬間、胸の奥で小さな音がした。

 喜びではない。
 警鐘だ。

 “守るための距離”が、別の人によって縮まってしまう。

 その事実を、王宮のどこかの高い場所から見ている琥珀の瞳があることを――
 セシリアはまだ知らない。
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