つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第I章|隣席の女

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王都の空は、晴れているのに冷たかった。
冬の陽が白く差し、王宮の尖塔を淡い金に染めている。その光は祝福のはずなのに、リーシャの胸の奥では、なぜか“刃”のように感じられた。

馬車の扉が開く。
外気が頬を撫で、息がわずかに白む。

「王妃陛下」

迎えの声がした。丁寧で、型通りで、温度がない。
リーシャはゆっくりと降り立ち、裾を踏まない角度で歩き出す。足元の石畳は磨き抜かれ、彼女の影を薄く映した。

――私は、王妃になる。

それは栄光ではなく、決定事項だった。
公爵令嬢として生まれ、育てられ、教え込まれてきた結末。逃げ道のない一本道。だからこそ、リーシャは背筋を伸ばす。美しく見せることは、彼女に許された唯一の防具だった。

回廊の奥で、鐘が鳴った。
大聖堂の扉が開かれ、香の匂いが流れ出してくる。白檀と、蜜と、そして――白薔薇。

(……私の香り)

胸の奥がひやりとする。
この香は、彼女が昔から好んできた。誰にも媚びない、清く、冷たい花。だが今は、それが“王妃の印”として勝手に貼られ、勝手に消費されていく気がした。

視線が集まる。
列席する貴族たちの目は、祝福の光を装いながらも、値踏みの暗さを隠していない。

「噂通りの……」
「……息をのむほどだ」
「けれど、陛下は――」

囁きが、絹の擦れる音のように耳を掠める。
リーシャは聞こえないふりをして、口元だけをわずかに上げた。

笑う。
それが王妃の仕事の一つだと、教えられてきたから。

やがて、大聖堂の中央。
祭壇へ続く赤い絨毯が、まっすぐ伸びている。蝋燭の炎は揺れ、金箔の装飾が光を乱反射させ、空気そのものが眩しい。

その先に――国王レオニスがいた。

黒に金の刺繍を纏い、玉座の前に立つ姿は、絵画のように整っている。
顔立ちは冷たく、美しい。目は氷のように澄んでいて、覗き込めば底がない。

(この人が、私の夫になる)

胸が、ゆっくりと締めつけられる。
怖いのではない。期待でもない。
ただ、ここから先は“個人”としての自分が消えていく、その予感がした。

そして――リーシャは気づく。

国王の隣。

そこに、すでに女がいる。

白を基調とした衣。控えめなのに、目を引く。
薄い金の髪が、燭台の光を受けて柔らかく揺れている。顔立ちは穏やかで、唇には慈愛の微笑が浮かぶ。けれど、その微笑の奥には、どこか“慣れ”があった。

(……誰)

王の隣に立つ場所は、王妃の席だ。
それが常識で、それが秩序で、それが王宮という世界の骨格だ。

なのに、彼女はそこにいる。
当たり前のように。昔からそうだったかのように。

リーシャの指先が、手袋の内側でわずかに強張った。
けれど歩みは止めない。止めた瞬間、負けになると知っていた。

大聖堂の空気が、ほんの少しざわめく。
そのざわめきは祝福ではない。期待でもない。

「……セレス様だ」
「陛下の、隣は――」
「やはり……」

名前が落ちた瞬間、リーシャの胸の奥で小さな何かが割れる音がした。
セレス。慈悲深いと噂される女性。民に慕われ、宮廷にも出入りする“特別”そして幼馴染。

(王の隣は、私ではないの?)

問いが浮かぶより先に、リーシャの中の“王妃”が即座に答える。
――そんなことを顔に出してはいけない。

リーシャは、息を吸い、微笑を深くした。

「光栄に存じます。国王陛下」

声は澄んでいて、震えも揺れもない。
自分でも驚くほど、完璧だった。

国王レオニスは、ゆっくり視線をこちらに向けた。
目が合う。ほんの一瞬。

その視線は冷たい。
けれど、嫌悪ではない。憐れみでもない。

(……わからない)

わからない、ということが一番怖かった。

国王は何も言わないまま、儀礼の所作で頷いた。
隣のセレスは、リーシャに向けて、柔らかく微笑む。

「王妃陛下。ようこそ。王宮へ」

言葉は丁寧で、優しい。
なのにリーシャは、なぜだか背中が冷えるのを感じた。
その声が“歓迎”ではなく、“確認”に聞こえたからだ。

――あなたが王妃。けれど、隣は私。

そんな意味が、声の裏に貼りついている気がした。

儀式が始まる。
大神官が祝詞を唱え、聖水が銀の器に揺れる。王冠が祭壇の上で光り、宝石が蝋燭の炎を飲み込むように煌めく。

リーシャは跪く。
絨毯が膝の下で柔らかい。だがその柔らかさすら、今は罠のようだ。

国王が手を伸ばす。
王妃の肩に触れるはずの手。
その手が、ほんのわずか、躊躇ったように見えた。

(……違う)

リーシャはすぐに自分の目を疑う。
見たいものを見てはいけない。期待は敗北になる。

王冠が頭上に置かれる。
重さが、ずしりと降りてきた。

その瞬間、貴族席から拍手が起こる。
祝福の声が降り注ぎ、鐘が鳴る。

――王妃リーシャの誕生。

けれどリーシャの目には、拍手の波の向こうに見えるものがあった。
国王の隣に立つセレスの姿。
微笑みながらも、微動だにしない、その余裕。

(私は……どこに立てばいいの)

王妃の席は、すでに温まっている。
誰かの体温が残っている椅子に、今さら座れと言われた気がした。

儀式が終わり、次は祝宴へ移る。
リーシャが立ち上がった時、視界の端で、宰相グレゴールが神官と短く言葉を交わすのが見えた。

宰相は微笑んでいる。
柔らかく、礼儀正しく、誰にも疑われない顔で。

「儀礼に則り、セレス殿は陛下の右に。ここは秩序のためです」

声は小さく、しかし確かな圧がある。
神官は迷うように瞬きをし、そして頷いた。

秩序。
王宮が最も好む言葉。
誰かの都合を、正しさに変える魔法の言葉。

(……そういうこと)

リーシャの胸の奥で、理解が静かに形になる。
これは偶然ではない。
誰かが決め、誰かが並べ、誰かが“王妃の席”を奪った。

リーシャは、ゆっくり息を吐いた。
笑みが消えそうになるのを、唇の端で押し上げる。

大丈夫。
私は王妃。
泣かない。揺れない。崩れない。

祝宴の扉が開く。
黄金の広間、シャンデリア、音楽、香、笑い声。
その中心に、国王が立つ。隣にはセレス。

そして、その少し後ろ――王妃の位置に、リーシャが立つ。

一歩。
たった一歩。

けれど、その一歩が、王宮では永遠の距離になる。

リーシャはその距離を測るように、静かに目を伏せた。
手袋の中で、自分の指が冷たくなっていくのを感じながら。

(……私は、ここから始めるしかない)

誰かが奪った席なら。
私は、私のやり方で、取り返すのではなく――“自分の席”を作る。

そう決めた瞬間、遠くで国王レオニスがふとこちらを見た。
目が合いそうになり、リーシャは微笑んで、視線を外した。

その微笑が、国王の胸に何を残すのか。
リーシャはまだ、知らない。

ただひとつ確かなのは――

この日、王妃の隣は、最初から空いていなかった。


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