2 / 27
第2章|つまらない妃
しおりを挟む祝宴の熱は、甘い香と笑い声に混じって広がっていた。
金のシャンデリアが揺れるたび、光の粒が床に降り、群衆の衣装の刺繍や宝石を瞬かせる。誰もが楽しげで、誰もが満たされているように見える。
リーシャだけが、少しだけ外側に立っていた。
国王の隣はセレス。
王妃の位置は、その少し後ろ。
――たった一歩。されど、王宮では永遠の距離。
リーシャは唇の端を上げ、静かに杯を持つ。
笑うこと。崩れないこと。隙を見せないこと。
そのすべてが、王妃という役目だと叩き込まれてきた。
(……大丈夫。私は、王妃)
心の中で唱えるたび、声が薄くなる。
自分の中の“個人”が、すり減っていく音がする。
「王妃陛下、まことに……」
侯爵夫人が寄ってくる。香水が濃い。甘く、重い。
「噂以上のご美貌ですわ。……陛下も、さぞ誇らしいことでしょう」
褒め言葉なのに、針が混じっている。
リーシャは微笑みを崩さないまま、軽く首を傾けた。
「恐れ入ります。皆様の祝福こそ、私の誇りです」
自分の声が、遠く感じる。
その間にも、視線は絶え間なく刺さる。
“美しい妃”を眺める目。
“隣に立てない妃”を笑う目。
“国王が選ばなかった妃”を測る目。
リーシャは、ひとつずつ、気づかないふりをしていく。
そのとき、少し離れた場所から、男たちの低い笑い声が聞こえた。
杯が触れ合う乾いた音。絹の袖が擦れる音。
そして――国王の声。
広間の喧騒に紛れ、輪郭を失ったはずの言葉が、なぜかリーシャの耳だけに届いた。
「……ああ。妃か。……つまらない妃だ」
一瞬、世界が止まった。
シャンデリアの光が、急に白くなる。
音楽が遠のき、笑い声が薄紙の向こうへ消える。
杯の中の琥珀色が、揺れたまま固まる。
(……いま、なんと)
聞き間違いだと、思いたかった。
けれど、続く言葉が、逃げ道を塞いだ。
「国のためだ。余計な期待を持たせるな。――あれは“王妃”でいい」
宰相グレゴールの声。穏やかな、説得の声。
その穏やかさが、余計に残酷だった。
国王は、短く息を吐いた。
「……分かっている」
分かっている。
それは、何を。
――つまらない妃であることを?
――私が、飾りであることを?
――私が、隣に立てないことを?
リーシャの手袋の中で、指先が冷えた。
血が引くのが分かる。心臓だけが、妙に熱い。
(……泣くな)
泣いたら、終わる。
泣いた瞬間、王宮は「可哀想な妃」を作り、面白がり、明日には飽きて捨てる。
リーシャは、息を吸った。
肺が痛いくらい、ゆっくりと。
そして、微笑んだ。
唇の端だけを上げる、練習してきた“王妃の微笑”。
(つまらない……妃)
言葉が胸の内側に落ちた瞬間、
そこから冷たい水が一気に満ちていくように、感情が沈んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと静かなもの――諦めに似た、何か。
リーシャは視線を上げた。
国王は、男たちの輪の中心にいる。
黒の礼装。金の刺繍。動かない背筋。
誰よりも遠く、誰よりも近いはずの人。
その隣には、セレスがいる。
柔らかな微笑で杯を傾け、会話の間に自然に身を寄せる。
まるで、最初から“そこが彼女の席”だったように。
リーシャは、気づいてしまう。
自分がこの広間で一番孤独なのは、隣に立てないからではない。
――国王が、私を“人”として見ていないからだ。
王妃。
飾り。
国のための道具。
その言葉の並びが、頭の中で整列する。
(なら、私も……“王妃”だけになる)
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
期待しない。望まない。求めない。
それは、心を守るための唯一の方法に見えた。
リーシャは静かに杯を置き、広間の端へ歩く。
人波の隙間を縫うように――誰にもぶつからない距離で。
完璧に、丁寧に。
壁際の柱の陰に入ると、音楽の響きが少し柔らかくなった。
蝋燭の香が濃くなり、外の冷気が薄く感じられる。
そこに、侍女長アグネスが立っていた。
背筋が真っ直ぐで、表情が硬い。
彼女は視線だけでリーシャの頬を確認し、声を落とした。
「……お顔が、少し青いです」
リーシャは微笑む。
微笑のまま、答える。
「平気よ。ここは、暖かいもの」
アグネスは何も言わない。
その沈黙が、逆に“分かっている”と言っているようで、リーシャは喉の奥がきゅっと縮む。
(……聞いてしまった、なんて言えない)
言えば、噂になる。
そして噂は、必ずリーシャを傷つける形で育つ。
リーシャは視線を落とし、ドレスの刺繍に触れる。
青い宝石が、灯りを受けて冷たく光った。
そのとき、背後で声がした。
「王妃陛下」
振り返ると、セレスが立っている。
柔らかな瞳、慈しむような微笑。
まるで、心配して来たかのような顔。
「お疲れではありませんか? 慣れないお立場で……」
優しさの形をした言葉。
けれどリーシャは、わずかな違和感を感じた。
――この人は、私が傷ついていることを“知っている”。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
リーシャは、さらに微笑を深くする。
「ありがとうございます。お気遣いなく。私は王妃として務めます」
セレスは微笑を崩さない。
けれど、その瞳の奥に一瞬だけ、光が走った。
満足。あるいは確認。
「……さすがです。陛下も、きっと安心なさいます」
陛下も。
その言い方が、リーシャの胸を刺す。
(陛下は、私を“安心”で見るの?)
安心とは、心があるから生まれるものだ。
けれど今の国王の言葉は、リーシャに心があることを、許していない。
リーシャは、ふと気づく。
自分が今、怒りも涙も出ないのは――
心が冷えたからではなく、熱を出す場所を奪われたからだと。
広間の中心で、国王が笑った。
ほんの短い笑い声。
宰相たちが合わせるように笑う。
その輪の中に、リーシャの席はない。
リーシャは、その光景を一度だけ見つめた。
見つめてから、目を伏せる。
そして、胸の内で宣言する。
(私は今日から、王の隣に立たない)
――あなたが望んだ通りに。
その宣言は、祈りのように静かだった。
けれど、同時に刃でもあった。
刃は、最初は自分を傷つける。
けれど、いつか――誰かの手を、切る。
リーシャは微笑を保ったまま、再び広間へ戻った。
戻る足取りは優雅で、欠点がない。
誰も気づかない。
王妃の心が、今夜ひとつ、確かに死んだことに。
248
あなたにおすすめの小説
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
貴方が私を嫌う理由
柴田はつみ
恋愛
リリー――本名リリアーヌは、夫であるカイル侯爵から公然と冷遇されていた。
その関係はすでに修復不能なほどに歪み、夫婦としての実態は完全に失われている。
カイルは、彼女の類まれな美貌と、完璧すぎる立ち居振る舞いを「傲慢さの表れ」と決めつけ、意図的に距離を取った。リリーが何を語ろうとも、その声が届くことはない。
――けれど、リリーの心が向いているのは、夫ではなかった。
幼馴染であり、次期公爵であるクリス。
二人は人目を忍び、密やかな逢瀬を重ねてきた。その愛情に、疑いの余地はなかった。少なくとも、リリーはそう信じていた。
長年にわたり、リリーはカイル侯爵家が抱える深刻な財政難を、誰にも気づかれぬよう支え続けていた。
実家の財力を水面下で用い、侯爵家の体裁と存続を守る――それはすべて、未来のクリスを守るためだった。
もし自分が、破綻した結婚を理由に離縁や醜聞を残せば。
クリスが公爵位を継ぐその時、彼の足を引く「過去」になってしまう。
だからリリーは、耐えた。
未亡人という立場に甘んじる未来すら覚悟しながら、沈黙を選んだ。
しかし、その献身は――最も愛する相手に、歪んだ形で届いてしまう。
クリスは、彼女の行動を別の意味で受け取っていた。
リリーが社交の場でカイルと並び、毅然とした態度を崩さぬ姿を見て、彼は思ってしまったのだ。
――それは、形式的な夫婦関係を「完璧に保つ」ための努力。
――愛する夫を守るための、健気な妻の姿なのだと。
真実を知らぬまま、クリスの胸に芽生えたのは、理解ではなく――諦めだった。
「私も新婚旅行に一緒に行きたい」彼を溺愛する幼馴染がお願いしてきた。彼は喜ぶが二人は喧嘩になり別れを選択する。
佐藤 美奈
恋愛
イリス公爵令嬢とハリー王子は、お互いに惹かれ合い相思相愛になる。
「私と結婚していただけますか?」とハリーはプロポーズし、イリスはそれを受け入れた。
関係者を招待した結婚披露パーティーが開かれて、会場でエレナというハリーの幼馴染の子爵令嬢と出会う。
「新婚旅行に私も一緒に行きたい」エレナは結婚した二人の間に図々しく踏み込んでくる。エレナの厚かましいお願いに、イリスは怒るより驚き呆れていた。
「僕は構わないよ。エレナも一緒に行こう」ハリーは信じられないことを言い出す。エレナが同行することに乗り気になり、花嫁のイリスの面目をつぶし感情を傷つける。
とんでもない男と結婚したことが分かったイリスは、言葉を失うほかなく立ち尽くしていた。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
私のことを愛していなかった貴方へ
矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。
でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。
でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。
だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。
夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。
*設定はゆるいです。
初恋にケリをつけたい
志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」
そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。
「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」
初恋とケリをつけたい男女の話。
☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる