つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第2章|つまらない妃

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祝宴の熱は、甘い香と笑い声に混じって広がっていた。
金のシャンデリアが揺れるたび、光の粒が床に降り、群衆の衣装の刺繍や宝石を瞬かせる。誰もが楽しげで、誰もが満たされているように見える。

リーシャだけが、少しだけ外側に立っていた。

国王の隣はセレス。
王妃の位置は、その少し後ろ。
――たった一歩。されど、王宮では永遠の距離。

リーシャは唇の端を上げ、静かに杯を持つ。
笑うこと。崩れないこと。隙を見せないこと。
そのすべてが、王妃という役目だと叩き込まれてきた。

(……大丈夫。私は、王妃)

心の中で唱えるたび、声が薄くなる。
自分の中の“個人”が、すり減っていく音がする。

「王妃陛下、まことに……」

侯爵夫人が寄ってくる。香水が濃い。甘く、重い。
「噂以上のご美貌ですわ。……陛下も、さぞ誇らしいことでしょう」

褒め言葉なのに、針が混じっている。
リーシャは微笑みを崩さないまま、軽く首を傾けた。

「恐れ入ります。皆様の祝福こそ、私の誇りです」

自分の声が、遠く感じる。
その間にも、視線は絶え間なく刺さる。
“美しい妃”を眺める目。
“隣に立てない妃”を笑う目。
“国王が選ばなかった妃”を測る目。

リーシャは、ひとつずつ、気づかないふりをしていく。

そのとき、少し離れた場所から、男たちの低い笑い声が聞こえた。
杯が触れ合う乾いた音。絹の袖が擦れる音。
そして――国王の声。

広間の喧騒に紛れ、輪郭を失ったはずの言葉が、なぜかリーシャの耳だけに届いた。

「……ああ。妃か。……つまらない妃だ」

一瞬、世界が止まった。

シャンデリアの光が、急に白くなる。
音楽が遠のき、笑い声が薄紙の向こうへ消える。
杯の中の琥珀色が、揺れたまま固まる。

(……いま、なんと)

聞き間違いだと、思いたかった。
けれど、続く言葉が、逃げ道を塞いだ。

「国のためだ。余計な期待を持たせるな。――あれは“王妃”でいい」

宰相グレゴールの声。穏やかな、説得の声。
その穏やかさが、余計に残酷だった。

国王は、短く息を吐いた。

「……分かっている」

分かっている。
それは、何を。

――つまらない妃であることを?
――私が、飾りであることを?
――私が、隣に立てないことを?

リーシャの手袋の中で、指先が冷えた。
血が引くのが分かる。心臓だけが、妙に熱い。

(……泣くな)

泣いたら、終わる。
泣いた瞬間、王宮は「可哀想な妃」を作り、面白がり、明日には飽きて捨てる。

リーシャは、息を吸った。
肺が痛いくらい、ゆっくりと。

そして、微笑んだ。
唇の端だけを上げる、練習してきた“王妃の微笑”。

(つまらない……妃)

言葉が胸の内側に落ちた瞬間、
そこから冷たい水が一気に満ちていくように、感情が沈んだ。

怒りではない。
悲しみでもない。
もっと静かなもの――諦めに似た、何か。

リーシャは視線を上げた。
国王は、男たちの輪の中心にいる。
黒の礼装。金の刺繍。動かない背筋。
誰よりも遠く、誰よりも近いはずの人。

その隣には、セレスがいる。
柔らかな微笑で杯を傾け、会話の間に自然に身を寄せる。
まるで、最初から“そこが彼女の席”だったように。

リーシャは、気づいてしまう。
自分がこの広間で一番孤独なのは、隣に立てないからではない。

――国王が、私を“人”として見ていないからだ。

王妃。
飾り。
国のための道具。

その言葉の並びが、頭の中で整列する。

(なら、私も……“王妃”だけになる)

そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
期待しない。望まない。求めない。
それは、心を守るための唯一の方法に見えた。

リーシャは静かに杯を置き、広間の端へ歩く。
人波の隙間を縫うように――誰にもぶつからない距離で。
完璧に、丁寧に。

壁際の柱の陰に入ると、音楽の響きが少し柔らかくなった。
蝋燭の香が濃くなり、外の冷気が薄く感じられる。

そこに、侍女長アグネスが立っていた。
背筋が真っ直ぐで、表情が硬い。
彼女は視線だけでリーシャの頬を確認し、声を落とした。

「……お顔が、少し青いです」

リーシャは微笑む。
微笑のまま、答える。

「平気よ。ここは、暖かいもの」

アグネスは何も言わない。
その沈黙が、逆に“分かっている”と言っているようで、リーシャは喉の奥がきゅっと縮む。

(……聞いてしまった、なんて言えない)

言えば、噂になる。
そして噂は、必ずリーシャを傷つける形で育つ。

リーシャは視線を落とし、ドレスの刺繍に触れる。
青い宝石が、灯りを受けて冷たく光った。

そのとき、背後で声がした。

「王妃陛下」

振り返ると、セレスが立っている。
柔らかな瞳、慈しむような微笑。
まるで、心配して来たかのような顔。

「お疲れではありませんか? 慣れないお立場で……」

優しさの形をした言葉。
けれどリーシャは、わずかな違和感を感じた。

――この人は、私が傷ついていることを“知っている”。

そう思った瞬間、背筋が冷えた。

リーシャは、さらに微笑を深くする。

「ありがとうございます。お気遣いなく。私は王妃として務めます」

セレスは微笑を崩さない。
けれど、その瞳の奥に一瞬だけ、光が走った。
満足。あるいは確認。

「……さすがです。陛下も、きっと安心なさいます」

陛下も。
その言い方が、リーシャの胸を刺す。

(陛下は、私を“安心”で見るの?)

安心とは、心があるから生まれるものだ。
けれど今の国王の言葉は、リーシャに心があることを、許していない。

リーシャは、ふと気づく。
自分が今、怒りも涙も出ないのは――
心が冷えたからではなく、熱を出す場所を奪われたからだと。

広間の中心で、国王が笑った。
ほんの短い笑い声。
宰相たちが合わせるように笑う。
その輪の中に、リーシャの席はない。

リーシャは、その光景を一度だけ見つめた。
見つめてから、目を伏せる。

そして、胸の内で宣言する。

(私は今日から、王の隣に立たない)

――あなたが望んだ通りに。

その宣言は、祈りのように静かだった。
けれど、同時に刃でもあった。

刃は、最初は自分を傷つける。
けれど、いつか――誰かの手を、切る。

リーシャは微笑を保ったまま、再び広間へ戻った。
戻る足取りは優雅で、欠点がない。

誰も気づかない。
王妃の心が、今夜ひとつ、確かに死んだことに。
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