つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第3章|今日から、隣に立たない

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祝宴の音楽は、甘く、しつこい。
弦が撫でる旋律に合わせて、人々の笑い声が膨らみ、杯の音が弾ける。けれどリーシャの耳には、そのどれもが薄い膜の向こうにあるようだった。

――つまらない妃だ。

あの一言が、まだ胸の奥で冷えている。
凍ったまま、溶けない。溶かす熱が、どこにもない。

リーシャは、広間の端で静かに息を整えた。
姿勢は崩さない。肩の高さも、顎の角度も、呼吸の深さも。
“王妃”の型を保つことだけが、今の自分を支える柱だった。

(……泣かない)

泣いた瞬間、ここは“物語”になる。
「美しい妃が泣いた夜」として、噂は花びらみたいに散り、明日には腐る。

リーシャは視線を上げる。
広間の中心――国王レオニスは、男たちの輪の中にいる。
宰相グレゴールが笑って何かを語り、周囲が合わせて笑う。
その輪の外側に、セレスがいる。自然に、当たり前のように、国王の一歩隣へ出入りする。

(隣……)

王妃の席。
そのはずだった場所に、誰かの体温が居座っている。

リーシャは、指先を手袋の上から軽く握った。
爪が立つほど強く握らない。痛みを感じたら、涙が出るかもしれないから。

「王妃陛下」

不意に、背後から声がした。
低く、はっきりした声。飾りのない声。

振り返ると、侍女長アグネスがいた。
目は厳しい。表情は硬い。けれど、その硬さは敵意ではなく、むしろ――支えるための緊張に見えた。

「お部屋へお戻りになりますか」

リーシャは一瞬迷った。
“戻る”という言葉が、まるで逃げの合図に聞こえたからだ。

「いいえ。……まだ、務めがあるわ」

そう言って微笑んだ自分の口元が、どこか別人のように感じられる。

アグネスは小さく頷き、声を落とした。

「陛下の御前で、決してお顔を曇らせないでください」

それは忠告というより、命令に近かった。
けれどリーシャは反発できない。王宮では忠告と命令の境界が曖昧だ。曖昧であるほど、従うしかない。

「分かっているわ」

リーシャは微笑みのまま答える。
その微笑みが自分を守る盾であり、同時に自分の喉を締める鎖でもあることを知りながら。

アグネスは、ほんのわずか視線を逸らした。
その瞬間、彼女の表情に“人”が滲んだ気がした。

「……陛下は」

言いかけて、止める。
その途切れが、リーシャの胸を強く締めた。

(言えないのね。ここでは、誰も)

真実を言うことは、危険だ。
優しさを言うことも、危険だ。
“正しさ”だけが許される世界で、心はいつも罪になる。

リーシャは小さく息を吐き、アグネスに背を向けるように広間の壁際を歩き出した。
歩きながら、視線はあえて国王を追わない。追えば、期待が生まれる。期待は、今の自分にとって毒だ。

――つまらない妃。

あの言葉は、国王の口から落ちた。
だからこそ、余計に残酷だ。
臣下が言う侮辱なら、怒りで跳ね返せる。けれど国王の言葉は、王妃の存在そのものを“国の都合”に変える。

(私は……)

この先、国王が優しくなることを望むのか。
隣に立たせてほしいと願うのか。
あるいは、愛されたいと――夢を見るのか。

夢。
王宮で夢を見るのは、最も愚かな自殺だ。

リーシャは、静かに決めた。

(今日から、隣に立たない)

私が望まれない席なら。
私が“つまらない”と切り捨てられる場所なら。
――そこに立つことで、心を削り続けるのはやめる。

リーシャは、自分の中でその決意を言葉にした瞬間、胸の奥に薄い膜が張るのを感じた。
痛みが直接届かなくなる膜。
守ってくれる代わりに、温度も奪う膜。

そのとき、背後からまた声がした。

「王妃陛下」

今度は、柔らかい声。
甘い香のように滑り込む声。

セレスだった。

彼女は近づく距離が絶妙だった。
近すぎず、遠すぎず。王妃に“礼”を保ちながら、それでも会話の主導権は握る距離。

「お辛そうに見えました。慣れない儀礼に……」

“辛そう”と口にすることで、リーシャの弱さを確定させる。
優しさの形をした、目印の杭。

リーシャは微笑む。
今の自分に残された唯一の武器で。

「ご心配なく。私は王妃ですもの」

セレスは瞬きを一つ。
そして、少しだけ唇を上げた。

「さすがです。……陛下も安心なさいます」

陛下も。
その言い方が、リーシャの心に針を落とす。

(私は、陛下を安心させるための存在……)

嬉しいはずがない。
けれど怒ることもできない。
怒れば“誇り高い冷たい妃”という噂に、彼女自身が答え合わせをしてしまうから。

リーシャは一歩下がり、礼を深くする。

「ありがたく存じます。――セレス様」

名前を呼ぶと、セレスの瞳が僅かに光った。
勝利ではない。満足でもない。
“予定通り”という光。

セレスは柔らかい声で続ける。

「陛下はお忙しいお方。国のために、時に――心にもない言葉を仰ることもあります」

心にもない言葉。
それは慰めに聞こえるのに、同時に“逃げ道”でもあった。

(心にもない、なら……どうして私に言うの)

リーシャの胸の奥で、小さな疑念が芽を出す。
だが、その芽はすぐに踏みつけた。疑念を育てれば、何かを望んでしまうから。

リーシャは微笑みを崩さないまま、ゆっくりと言う。

「陛下のお言葉は、陛下の御意志です」

その一言で、セレスの顔から柔らかさがほんの一瞬消えた。
微笑みは残る。けれど目だけが冷たくなる。

そしてすぐに、何事もなかったように戻る。

「……ええ。王妃陛下は、強い方です」

強い。
その評価が、呪いだとリーシャは知っている。
強いと言われる者は、守られない。
強いと言われる者は、泣く権利を奪われる。

リーシャは礼を保ち、背筋を伸ばした。

「失礼いたします」

セレスの返答を待たずに、リーシャは歩き出す。
逃げではない。撤退でもない。
王妃の所作として、“会話を終える権利”を行使しただけ。

歩くたび、ドレスの裾がさざ波のように揺れる。
宝石が光り、刺繍が瞬き、周囲は「美しい」と囁く。

だがその美しさは、今のリーシャにとって棘だった。
美しいほど、泣けない。
美しいほど、孤独が映える。

広間の端に、鏡があった。
金の枠。磨き抜かれたガラス。
そこに映るのは――微笑む王妃。

青い宝石を胸に、白い肌を灯りに晒し、完璧な角度で立つ女。

(……これが、私?)

リーシャは鏡の中の自分を見つめ、目だけで笑う。
笑みは崩さず、心だけを切り離す。

(今日から、隣に立たない)

私は、望まれない席へ自分からは行かない。
その代わり――王妃として、国王にとって“都合のいい飾り”になる。

望まない。求めない。期待しない。
そうすれば、傷つかない。

そう言い聞かせた瞬間、胸の奥で何かが静かに折れた。
音もなく、ただ確かに。

リーシャは微笑を保ったまま、再び広間の中心へ戻る。
国王はまだ笑っている。
宰相はまだ穏やかに語っている。
セレスはまだ隣にいる。

そしてリーシャは、王妃の位置――“一歩後ろ”に立つ。

一歩。
たった一歩。

けれど、その一歩を自分の意志で選んだ瞬間、
リーシャは初めて、少しだけ楽になった。

楽になることが、悲しかった。
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