つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第9章|届かない贈り物

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王宮の朝は、いつも正しく始まる。
鐘が鳴り、扉が開き、侍女が湯を運び、衣が整えられ、髪が結われる。
正しさは秩序であり、秩序は鎖でもある。

リーシャは鏡の前で手袋を整えた。
王弟アドリアンから届いた白い手袋。指先が温まるほど、胸の奥が痛んだ。

(優しさは、罪になる)

昨夜、侍女頭カミーユの視線を浴びた瞬間に分かった。
この手袋は、噂になる。
そして噂は“真実”になる。

リーシャは微笑んだ。
王妃としての微笑。
胸の奥が空洞でも、口元だけは崩さない。

「王妃陛下」

侍女が慎重に言った。
慎重な声には、いつも“嫌な知らせ”が混じる。

「……贈り物が届いております」

リーシャの心臓が、一度だけ跳ねた。
期待は毒だと分かっているのに、身体は先に反応する。

(国王から?)

昨日の回廊で、国王の視線が手袋に落ちた。
あの瞬間、氷が軋むような音がした。
怒りか嫉妬か、それとも――言えない後悔か。

もし、後悔があるのなら。
もし、国王が何かを言えないだけなのなら。

リーシャは、その“もし”を必死に殺しながら言った。

「……どなたから」

侍女が答える前に、侍女長アグネスが入ってきた。
彼女は礼をし、声を落とす。

「差出人の札がありません」

札がない。
王宮でそれは、あり得ない。

贈り物は名を持つ。
名は責任を持つ。
責任は権力の証だ。

札がない贈り物は、責任を持たない。
責任を持たない者が贈るものは、たいてい毒だ。

リーシャは胸の奥がひやりとするのを感じた。

「……それでも、届けたのね」

アグネスは頷く。

「王妃陛下の御前に、という指示だけが」

指示だけ。
宰相の声が脳裏をよぎる。

――秩序のため。
――妃へ肩入れは危険。

リーシャは梱包を見た。
上質な紙。細い紐。結び目が丁寧。
“上の者”の手だ。雑ではない。だが――どこか冷たい。

(国王……?)

期待がまた頭をもたげる。
リーシャは息を吸い、箱に触れた。

開けると、そこには――淡い青の宝石がはめられた髪飾りがあった。
繊細な細工。王妃にふさわしい品。
けれど、どこか違和感がある。

宝石の色が、リーシャがいつも身につける“青”より少しだけ淡い。
そして――金具の内側に刻まれた印が、王家の紋ではない。

(……違う)

この王宮で、“違う”は命取りだ。

リーシャは笑みを消さずに、アグネスへ視線を送る。

「調べて」

アグネスは小さく頷いた。
彼女の動きがいつもより速い。危険を察知している。

そこへまた、侍女が別の箱を運んできた。
今度は札がある。きちんと、堂々と。

「王弟殿下より……です」

リーシャの胸が、すとんと沈んだ。

――届く。
――王弟からのものは、堂々と届く。

王からは、札がない。
あるいは“王のものに見せかけた別人のもの”が届く。

それだけで、物語が完成する。

「陛下は、私に何も贈らない」
「殿下は、私を気遣う」

王宮はこの二行が大好きだ。
短い方が噂になりやすい。

リーシャは王弟の箱を開けた。
中には、同じ白の手袋がもう一組。
先日の手袋より少しだけ厚く、指先の内側に柔らかな毛皮が仕込まれている。

添えられた小さな札。
たった一行だけ。

――冷えますから。どうか、無理をしないで。

胸が痛い。
優しさが痛い。
優しさは、この王宮では凶器になる。

「王妃陛下……」

侍女が困ったように呟く。
誰もが分かっている。これがどう見えるか。

リーシャは手袋を静かに持ち上げた。
白い革が光を受け、清らかに見える。
清らかなほど、噂が汚れる。

(これで、また“王弟と王妃”が完成する)

そして、国王の耳に入る。
宰相が報告する。
王太后が眉をひそめる。
セレスが優しく微笑む。

「誤解されますよ、王妃様」と。

リーシャは、もう一度だけ自分に言い聞かせた。

(期待しない)

期待しなければ、傷つかない。
期待しなければ、泣かない。
期待しなければ――隣に立てなくても平気だ。

そう思おうとした瞬間、扉が開いた。

「王妃陛下」

サシャだった。
密偵の礼。感情のない目。

リーシャは微笑む。

「何かしら」

サシャの視線が、一瞬だけ手袋に落ちた。
そしてすぐに、戻る。

「陛下へ報告が必要です。……贈り物の件も」

“贈り物の件も”
つまり今この瞬間、王へ運ばれる物語の梱包が始まった。

リーシャは手袋を机に置き、指先を揃えた。

「どうぞ、正確に報告して」

声が自分でも驚くほど冷たい。

「王弟殿下は、王家として王妃を立ててくださった。
そして――私は、受け取った」

サシャは微動だにしない。
だが、その沈黙が逆に“都合よく編集する”と告げているようで、リーシャは胸が痛んだ。

サシャが去ると、部屋は静かになった。
静かすぎて、耳鳴りがした。

リーシャは窓辺へ行き、庭を見下ろした。
白薔薇が風に揺れている。
その香りはここまで届かないのに、胸の奥で匂いがした。

(王からの贈り物は、届かない)

届かないのは、品物ではない。
言葉だ。
温度だ。
手を伸ばす意志だ。

リーシャは、白い手袋をそっと嵌めた。
指先が温まる。
温まるほど、涙が出そうになる。

その時、背後でアグネスが小さく言った。

「……王妃陛下。髪飾りは、宰相府の印が混じっています」

リーシャは、息を呑んだ。

宰相。
王ではない。
つまり、“王からの贈り物”に見せかけた何か。

リーシャは、ゆっくりと微笑んだ。
美しい微笑。
誰も気づかないように。

(そういうこと)

王が冷たい証拠は、作られる。
王弟が優しい証拠は、届かせる。

その差が、私を折るための装置。

リーシャは胸の奥で、静かに言った。

(今日から、隣に立たない)

隣に立たないのは、罰ではない。
自分を守るための選択だ。

けれど――

自分を守る選択をするたび、
王宮は私を“つまらない妃”に作り替えていく。

それが、いちばん怖かった。


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