沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ

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第17章 再会の湖畔

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 薄靄の朝だった。
 湖面を白い霧が覆い、光の粒がゆっくりと水の上を流れていく。
 別邸の庭にはまだ雪が残っていたが、その下からは小さな青い芽が顔を出していた。
 春が近い――それが、唯一の確かなしるしだった。

 シャルロッテはベランダに出て、冷たい風を吸い込む。
 頬に当たる空気は冷たく、けれど痛くはない。
 あの日、屋敷を出てから一週間。
 彼からの連絡はなかった。
 それでも、どこかで心は落ち着いていた。

 ――信じる。
 あの言葉だけを胸に、日々を積み重ねてきた。

 湖畔の道を歩き、白樺の並木を抜ける。
 氷の割れ目から水の音がする。
 その音が、不思議と懐かしかった。
 幼いころ、彼と散歩したあの音と同じだから。

 「……もう一度、会えるかしら」
 小さく呟いた瞬間、遠くで車輪の音がした。
 雪を踏む鈍い響き。
 ゆっくりと近づいてくるその音に、胸の鼓動が合わさっていく。

 風が、薔薇色のスカーフを揺らした。
 シャルロッテは振り向く。
 霧の向こう、黒の馬車が止まっていた。

 扉が開き、
 そこから降り立つ姿。
 ――カリウス。

 その瞬間、世界が静止した。
 雪が舞う。
 彼は、以前よりも少しやつれたように見えた。
 けれどその瞳には、迷いのない光があった。

 「……探した」
 その声が、霧を震わせる。
 「あなたが、来てくれるって……わかってました」
 「君はいつもそうだ。僕の沈黙を、先に読んでしまう」

 彼が一歩近づくたび、胸が震えた。
 「会見を見たわ。あなたの言葉、嬉しかった。
  でも――あの沈黙の意味、まだ聞かせてほしいの」

 彼は少しだけ目を伏せ、そして笑った。
 「……僕は、父の残した事業の債務を隠していた。
  家を守るため、君を危険な商談から遠ざけようとした。
  “マリアンヌとの密会”と書かれた場所も、実際は財務交渉の席だった。
  彼女は取引相手の代表で、――それでも、君を混乱させたのは僕の責任だ」

 シャルロッテは唇を震わせながら首を振る。
 「どうして言ってくれなかったの」
 「守りたかった。君を噂の矢面に立たせないために」
 「でも、沈黙は守るためじゃなく、壊すための距離になってしまうのよ」
 「……わかってる。だから、やっと話しに来た」

 彼の手が伸びる。
 氷のように冷たい風の中で、指先だけが確かな温度を持っていた。
 「指輪、まだつけているんだな」
 「ええ。少し傷がついちゃったけど……」
 「その傷がいい。君と僕の時間が、ちゃんと刻まれている」

 彼はそっと、彼女の手を包んだ。
 そのまま手の甲に唇を触れる。
 「……ロッテ。ずっと言えなかった言葉がある」
 「――ええ」
 「帰ってきてほしい。僕の妻として、いや、僕の隣で生きてほしい」

 涙が頬を伝う。
 答えは、もう最初から決まっていた。
 「わたし、あなたを待つのが得意なんです。
  でも、もう“待つだけの妻”ではいたくありません。
  これからは、あなたの隣で歩きます」

 カリウスが微笑む。
 「……“姫君”、よく待ったな」
 「“旦那さま”、遅いです」

 二人の笑い声が、凍った湖に柔らかく響く。
 彼が腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
 胸の中で、すべての沈黙が溶けていく。

 「約束のカップ、まだ覚えてる?」
 「もちろん。割れても直せる、だろう?」
 「ええ。……わたしたちも同じよ」

 空の雲が流れ、淡い陽が差した。
 霧がほどけ、湖面に光が跳ね返る。
 彼の瞳の中で、その光がきらりと揺れた。

 ――沈黙の指輪は、壊れなかった。
 ただ、少しだけ形を変えて、
 今、ふたりの絆として息をしている。

 春の風が薔薇の庭を渡り、
 やがて新しい朝が訪れる。

 それは、長い沈黙の終わりを告げる
 最初の再会の朝だった。
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