4 / 31
Day 3:さよなら、「彼の痕跡」に縋っていた私
しおりを挟む朝。というには少し遅い時間。
窓の外では、雲が重く垂れ込めていた。灰色の空が、部屋の中まで色を奪っていく。
胃が空っぽのまま、キッチンに立った。何かを口にしなければ、と思った。身体が、生きることを諦めてしまいそうだったから。
冷蔵庫のドアに手をかける。
重たい扉を開けると、庫内の白いLEDライトが、薄暗い部屋の中でぱっと世界を照らし出した。
その人工的な光の中に、彼がいた。
◇
正確には、彼の痕跡が、そこら中に散らばっていた。
彼が好きだったクラフトビールの缶。週末の夜に二人で飲むはずだったもの。
彼が必ず買ってくる、少し高いクリームチーズ。
そして、彼の作った手作り味噌の瓶。
ガラス瓶のラベルに、彼の字で書かれた日付が見える。賞味期限は、明日。
私たちの関係のように。
それは、つい数日前までここに彼がいたという、動かぬ証拠。まるで、小さなタイムカプセルのようだ。
私たちの「昨日」が、この冷たい箱の中に閉じ込められている。
◇
味噌瓶を手に取る。ずっしりとした重み。
食べるか、捨てるか。
その二択が、まるで人生の重大な岐路のように思えた。
食べることは、彼の記憶を私の一部として消化すること。
捨てることは、彼の存在を私の日常から完全に消去すること。
どちらも、今の私にはあまりに残酷な選択だった。
冷蔵庫から漏れる冷気に肌が粟立つのも構わず、私はただ、その光の中に立ち尽くしていた。
何分そうしていただろう。モーターの唸りが、胸の鼓動を数える。
やがて、私は味噌瓶を冷蔵庫に戻した。
捨てる勇気が、なかった。
◇
小さな土鍋に水を張り、昆布を入れる。
彼は、出汁の味にだけは妙にこだわりがあった。
彼の作った味噌を溶く。わかめと油揚げを入れる。彼が好きだった味噌汁。
コンロの青い炎が、鍋の底を静かになめている。
湯気が立ち上り、味噌の香りがふわりと部屋に広がった。それは、いつもと何も変わらない、懐かしい匂いだった。
食卓に、お椀を一つだけ置く。
一口、すする。
味は、同じだった。昨日までと同じ、優しい味。
でも、だからこそ、胸が締め付けられた。
美味しい、と感じるほどに、隣の空席が際立って見えた。
食卓に彼がいないという事実だけが、宇宙のように広大で、静かで、冷たい。
◇
食べ終わった後、シンクでお椀を洗いながら、堪えきれずに涙がこぼれた。
蛇口から流れる水の音に紛れて、嗚咽が漏れる。
温かいはずの味噌汁が、身体の芯をこんなにも冷やしてしまうなんて。
冷蔵庫をもう一度開ける。ビールとチーズは、まだそこにいる。
でも、今日はもう、これ以上は無理だった。彼の記憶に、これ以上は触れられない。
そっとドアを閉めると、庫内の光が消え、彼の痕跡は再び静かな闇に包まれた。
捨てるには、まだ少しだけ、早い気がした。
0
あなたにおすすめの小説
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。
今日は同期飲み会だった。
後輩のミスで行けたのは本当に最後。
飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。
彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。
きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。
けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。
でも、あれから変わった私なら……。
******
2021/05/29 公開
******
表紙 いもこは妹pixivID:11163077
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる