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11.春の闇
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人影は雪江だった。さっき真由子が英語の復習を終えた時、机の時計は十一時を過ぎていた。こんな遅くに、いったい雪江は何をしようとしているのだろうか。急な洗濯物でも干そうとしているのだろうか。しかし真夏ならいざ知らず、こんな夜更けに、しかもたった二人しかしない家に、わざわざ急いで洗濯物を干す必要などあるだろうか。真由子は奇妙に思い、階段を降りた。そして一階の細い廊下の突き当たりにある、庭に通じている扉の近くまできた。
扉は開け放されたままだった。
いつになく真由子は胸騒ぎがし、庭用のサンダルを履こうとして、何度も前につんのめった。足がふるえているのか、あわてればあわてるほどいつものようにサンダルを履くことができない。やっとのことでサンダルを履いて、真由子は庭に出た。
雪江は春の闇に一人、ぼうっと佇んでいるようだった。
「お母さん、何をしているの?」
真由子は雪江の後ろ姿へ声をかけた。
しかし、雪江はまるで真由子の声など耳に入らないのか、黙ったままだった。
「お母さん、ねぇお母さんたら。いったい……」
雪江はゆっくりと振り返った。
しかし春の、おぼろにかすんだ月明かりでは、雪江の表情までは読み取れない。しばらく二人は黙ったままだった。実際には一分もなかったかも知れないが、沈黙している雪江がわけもなくこわくなり、真由子にはとても長く思えた時間だった。
雪江が口を開いた。
「真由ちゃん、おどろかしてごめんなさいね。何でもないのよ。ただちょっとね、庭の白椿の花が気になっただけなの」
「白椿の花が?」
「そうよ、白椿の花がね」
雪江の声はいつもと変わらず、落ち着いており、特に変わった様子はなかった。もしこれが、昼間であれば、真由子も驚かなかっただろう。
しかし雪江の言葉は、真由子にはどうにも不可解だった。なぜ唐突に、しかもこんな夜更けに雪江は白椿の花のことなど言い出すのだろう。いや、そもそも雪江は今まで白椿の花のことなど、一度でも話題にしたことがあっただろうか。真由子が驚きで口も聞けないまま立っていると、雪江は闇の中、静かな声でつぶやいた。
もしこれがひとりごとでなければ、白椿の木、あるいは白椿の木のそばにいる誰かにむけて語りかけているようでもあった。
「とうとう白椿の花が咲いてしまったわね。今になって、こんなにたくさん咲くなんて……でも花が多過ぎるわ。これじゃ白椿の木が苦しそうね。かわいそうに」
雪江の右手には花鋏が握られていた。暗闇の中で花鋏が鈍く光った。
真由子は驚くどころではなくなった。
本当に雪江は白椿の花を切るつもりなのだろうか。いったい何のために。真由子は雪江が正気とは思えなかった。
「お母さん、白椿の花を切るの? それなら朝にしようよ。ね? こんな夜遅くに白椿の花を切るなんて……寒いし、それに辺りは真っ暗じゃないの。やめて」
真由子は雪江の手にとりすがった。
雪江は薄くわらった。
「白椿の花を切るのはね、夜の方がいいのよ。朝は眩しすぎるわ」
「お母さん……」
扉は開け放されたままだった。
いつになく真由子は胸騒ぎがし、庭用のサンダルを履こうとして、何度も前につんのめった。足がふるえているのか、あわてればあわてるほどいつものようにサンダルを履くことができない。やっとのことでサンダルを履いて、真由子は庭に出た。
雪江は春の闇に一人、ぼうっと佇んでいるようだった。
「お母さん、何をしているの?」
真由子は雪江の後ろ姿へ声をかけた。
しかし、雪江はまるで真由子の声など耳に入らないのか、黙ったままだった。
「お母さん、ねぇお母さんたら。いったい……」
雪江はゆっくりと振り返った。
しかし春の、おぼろにかすんだ月明かりでは、雪江の表情までは読み取れない。しばらく二人は黙ったままだった。実際には一分もなかったかも知れないが、沈黙している雪江がわけもなくこわくなり、真由子にはとても長く思えた時間だった。
雪江が口を開いた。
「真由ちゃん、おどろかしてごめんなさいね。何でもないのよ。ただちょっとね、庭の白椿の花が気になっただけなの」
「白椿の花が?」
「そうよ、白椿の花がね」
雪江の声はいつもと変わらず、落ち着いており、特に変わった様子はなかった。もしこれが、昼間であれば、真由子も驚かなかっただろう。
しかし雪江の言葉は、真由子にはどうにも不可解だった。なぜ唐突に、しかもこんな夜更けに雪江は白椿の花のことなど言い出すのだろう。いや、そもそも雪江は今まで白椿の花のことなど、一度でも話題にしたことがあっただろうか。真由子が驚きで口も聞けないまま立っていると、雪江は闇の中、静かな声でつぶやいた。
もしこれがひとりごとでなければ、白椿の木、あるいは白椿の木のそばにいる誰かにむけて語りかけているようでもあった。
「とうとう白椿の花が咲いてしまったわね。今になって、こんなにたくさん咲くなんて……でも花が多過ぎるわ。これじゃ白椿の木が苦しそうね。かわいそうに」
雪江の右手には花鋏が握られていた。暗闇の中で花鋏が鈍く光った。
真由子は驚くどころではなくなった。
本当に雪江は白椿の花を切るつもりなのだろうか。いったい何のために。真由子は雪江が正気とは思えなかった。
「お母さん、白椿の花を切るの? それなら朝にしようよ。ね? こんな夜遅くに白椿の花を切るなんて……寒いし、それに辺りは真っ暗じゃないの。やめて」
真由子は雪江の手にとりすがった。
雪江は薄くわらった。
「白椿の花を切るのはね、夜の方がいいのよ。朝は眩しすぎるわ」
「お母さん……」
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