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9.侍女の最期
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降りやまない雨音だけが支配する自宅の中で、アマンダは一人、息を潜めていた。
彼女の家は王都の華やかな貴族街から離れた、ティリス川に近い平民区の端に位置していた。一人住まいには十分すぎる広さ。それはフィーナ付きの侍女という厄介極まりない役目を勤め上げた彼女に、アッシュ王太子が「よくやった」と労いの意味を込めて与えてくれたささやかな『ご褒美』。
しかし今、それは外で猛り狂う自然の脅威に晒されていた。
ゴウゴウと地鳴りのような音を立てて流れるティリス川が巨大な獣のように唸りを上げている。窓ガラスを激しく叩きつける雨粒は無数の小さな石のよう。
「……気味が悪いわね」
――洪水が起きるかもしれない。
これまで経験したことのない得体の知れない恐怖がアマンダの心臓をじわじわと冷たく締め付けていく。
「……だ、大丈夫よ」
アマンダは自分に言い聞かせるように呟いた。
王宮側も大したことはないと仰っていたし。
それに今の王都には『聖女』イリス様がいらっしゃる。
あの方の光の力の前ではこんな陰気な雨雲などすぐに消し飛ばされてしまうに決まっている。
いずれ王太子妃となられるイリス様。
その輝かしい聖女様の専属侍女になれれば自分の地位も安泰――――。
……それに何よりあの『出来損ない』がいなくなったのだ。
セレスティア家に不幸を振りまいていた疫病神。
陰気で、病弱で、見ているだけでこちらの気分まで滅入るようなあのフィーナ・セレスティア。あんな女がいなくなったのだから、王都が不幸に見舞われるはずがない。むしろこれからもっと素晴らしいことが起こるに決まっている。
そうだ、きっとそうだ。
これはあの女が最後に残したくだらない呪いの名残に過ぎない。
すぐに聖女様が浄化してくださる。
そう思い込もうとすればするほど、家の外から聞こえる不気味な川の唸りは大きくなっていくようだった。アマンダは不安を振り払うように、カップに注いだ安物のワインをあおった。
その時だった。
ミシッ! ミシミシミシッ!!
突如、家全体が軋むほどの強い振動に襲われた。
棚の上の食器が音を立てて床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散る。
何が起きたのか理解するより早く、アマンダは玄関のドアの下の隙間から、濁った茶色の水がじわりと侵入してくるのを見た。
「……え?」
最初はほんの僅かな水たまりだった。
それがあっという間に勢いを増して室内へと流れ込んでくる。
「あれ……? あれ、あれあれあれあれ!!」
ドガァァァァァァァァァン!!!!!
凄まじい音と共に玄関の扉が水の圧力に耐えきれず破壊された。濁流が巨大な蛇のように家の中へと崩れ込み、アマンダの足元を一瞬で飲み込んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!」
テーブルの上に駆け上がろうとするが、すでに流れ込んだ水の勢いで足元が滑る。あっという間に水かさは膝まで達し、そして腰まで。まるで意思を持っているかのように、水は彼女の体を捕らえて自由を奪っていく。
「助けて!誰か!助けて!」
木製の椅子がぷかりと浮き上がり、壁に激突してバラバラに砕ける。
家具が次々と濁流の瓦礫と化していく。
「いやだぁぁ!誰かぁぁ、お願いぃぃ!」
逃げ場はなかった。外は死を運ぶ濁流。
家の中も冷たい水で満たされていく監獄。
アマンダは壁際に追いやられ、背中を打ち付けた。
水はすでに胸元まで迫り、呼吸をするたびに肺が圧迫されるのを感じる。
冷たさが骨の芯まで染み渡り、ガタガタと歯の根が合わなかった。
「どうして……どうして私がこんな目に……!イリス様ぁ! 殿下ぁ! 助けてくださいまし!」
彼女の悲鳴は誰にも届かない。
濁流の轟音にかき消され、虚しく水面に響くだけ。
彼らは今頃、安全な王宮で豪華な食事を囲み、下々の民がどうなっているかなど気にも留めていない。
「ああ……ああああああああああああああ!」
狂ったように水を掻き、壁を叩く。
水かさは容赦なく上昇し、ついに彼女の首元まで達した。
冷たい水が口の中に入り込み、ごぼり、と空気を吐き出してしまう。
息ができない。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い
水中に沈んでいく視界は濁った茶色に染まっていた。
もがく自分の手がぼんやりと見える。
かつてフィーナの肌を雑に扱い、その心を傷つけてきた手。
――――走馬灯のようにこれまでの人生が駆け巡った。
フィーナの苦しむ顔を冷ややかに見下ろす自分。
イリスの前で媚びへつらい、その威光を笠に着る自分。
弱い者を虐げ、強い者に擦り寄ることでしか、自分の価値を見出せなかった惨めな人生。
(ああ……そうか……。これが……罰……)
朦朧とする意識の中、最後に誰かの声が聞こえた気がした。
それは、かつて自分がフィーナに何度も投げつけた、冷たくて残酷な言葉――
『自業自得ですわね』
必死の抵抗も虚しく、アマンダの体から力が抜けていく。
最後の息とともに、いくつかの小さな泡だけが暗く冷たい水面へと虚しく昇っていった。
彼女の家は王都の華やかな貴族街から離れた、ティリス川に近い平民区の端に位置していた。一人住まいには十分すぎる広さ。それはフィーナ付きの侍女という厄介極まりない役目を勤め上げた彼女に、アッシュ王太子が「よくやった」と労いの意味を込めて与えてくれたささやかな『ご褒美』。
しかし今、それは外で猛り狂う自然の脅威に晒されていた。
ゴウゴウと地鳴りのような音を立てて流れるティリス川が巨大な獣のように唸りを上げている。窓ガラスを激しく叩きつける雨粒は無数の小さな石のよう。
「……気味が悪いわね」
――洪水が起きるかもしれない。
これまで経験したことのない得体の知れない恐怖がアマンダの心臓をじわじわと冷たく締め付けていく。
「……だ、大丈夫よ」
アマンダは自分に言い聞かせるように呟いた。
王宮側も大したことはないと仰っていたし。
それに今の王都には『聖女』イリス様がいらっしゃる。
あの方の光の力の前ではこんな陰気な雨雲などすぐに消し飛ばされてしまうに決まっている。
いずれ王太子妃となられるイリス様。
その輝かしい聖女様の専属侍女になれれば自分の地位も安泰――――。
……それに何よりあの『出来損ない』がいなくなったのだ。
セレスティア家に不幸を振りまいていた疫病神。
陰気で、病弱で、見ているだけでこちらの気分まで滅入るようなあのフィーナ・セレスティア。あんな女がいなくなったのだから、王都が不幸に見舞われるはずがない。むしろこれからもっと素晴らしいことが起こるに決まっている。
そうだ、きっとそうだ。
これはあの女が最後に残したくだらない呪いの名残に過ぎない。
すぐに聖女様が浄化してくださる。
そう思い込もうとすればするほど、家の外から聞こえる不気味な川の唸りは大きくなっていくようだった。アマンダは不安を振り払うように、カップに注いだ安物のワインをあおった。
その時だった。
ミシッ! ミシミシミシッ!!
突如、家全体が軋むほどの強い振動に襲われた。
棚の上の食器が音を立てて床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散る。
何が起きたのか理解するより早く、アマンダは玄関のドアの下の隙間から、濁った茶色の水がじわりと侵入してくるのを見た。
「……え?」
最初はほんの僅かな水たまりだった。
それがあっという間に勢いを増して室内へと流れ込んでくる。
「あれ……? あれ、あれあれあれあれ!!」
ドガァァァァァァァァァン!!!!!
凄まじい音と共に玄関の扉が水の圧力に耐えきれず破壊された。濁流が巨大な蛇のように家の中へと崩れ込み、アマンダの足元を一瞬で飲み込んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!」
テーブルの上に駆け上がろうとするが、すでに流れ込んだ水の勢いで足元が滑る。あっという間に水かさは膝まで達し、そして腰まで。まるで意思を持っているかのように、水は彼女の体を捕らえて自由を奪っていく。
「助けて!誰か!助けて!」
木製の椅子がぷかりと浮き上がり、壁に激突してバラバラに砕ける。
家具が次々と濁流の瓦礫と化していく。
「いやだぁぁ!誰かぁぁ、お願いぃぃ!」
逃げ場はなかった。外は死を運ぶ濁流。
家の中も冷たい水で満たされていく監獄。
アマンダは壁際に追いやられ、背中を打ち付けた。
水はすでに胸元まで迫り、呼吸をするたびに肺が圧迫されるのを感じる。
冷たさが骨の芯まで染み渡り、ガタガタと歯の根が合わなかった。
「どうして……どうして私がこんな目に……!イリス様ぁ! 殿下ぁ! 助けてくださいまし!」
彼女の悲鳴は誰にも届かない。
濁流の轟音にかき消され、虚しく水面に響くだけ。
彼らは今頃、安全な王宮で豪華な食事を囲み、下々の民がどうなっているかなど気にも留めていない。
「ああ……ああああああああああああああ!」
狂ったように水を掻き、壁を叩く。
水かさは容赦なく上昇し、ついに彼女の首元まで達した。
冷たい水が口の中に入り込み、ごぼり、と空気を吐き出してしまう。
息ができない。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い
水中に沈んでいく視界は濁った茶色に染まっていた。
もがく自分の手がぼんやりと見える。
かつてフィーナの肌を雑に扱い、その心を傷つけてきた手。
――――走馬灯のようにこれまでの人生が駆け巡った。
フィーナの苦しむ顔を冷ややかに見下ろす自分。
イリスの前で媚びへつらい、その威光を笠に着る自分。
弱い者を虐げ、強い者に擦り寄ることでしか、自分の価値を見出せなかった惨めな人生。
(ああ……そうか……。これが……罰……)
朦朧とする意識の中、最後に誰かの声が聞こえた気がした。
それは、かつて自分がフィーナに何度も投げつけた、冷たくて残酷な言葉――
『自業自得ですわね』
必死の抵抗も虚しく、アマンダの体から力が抜けていく。
最後の息とともに、いくつかの小さな泡だけが暗く冷たい水面へと虚しく昇っていった。
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