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第二部
すれ違う心Ⅲ
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空が夕焼けに染まり始める頃、四阿で夕食を楽しみました。いつもよりも早い時間ではありますが、遅くならないように時間を合わせて下さったのでしょう。レイ様とおしゃべりしながら、ゆっくりと食べ進めても時間は来てしまうもの。
あとはデザートを残すのみとなりました。
目の前に紅茶とブルーベリーのタルトが置かれました。
これを食べてしまうと終わってしまうのね。香りのよい紅茶にナパージュされたブルーベリーたっぷりのタルト。おいしそうだけれど、これで最後かと思うと手が止まってしまう。
「どうしたの? もうお腹いっぱい?」
じっと動かない私に不思議そうに聞かれました。レイ様には私の気持ちはわからないでしょう。
見つめる瞳にドキドキしていることも少し低音の柔らかい声に聞き惚れていることも、子供のような好奇心をのぞかせる時も、私に向ける優しい笑顔も、レイ様の何もかもが好きな事をレイ様は知らないでしょう。
「とてもきれいなケーキだったので、つい見入ってしまいました」
嘘ではありません。宮のお抱えパティシエだけあって見事なお菓子です。シェフもそうですが、できれば弟子入りしたいくらいです。
「ローラが褒めていると知ったらパティシエも喜ぶよ」
「シェフの皆さんにもお礼を伝えて頂けたら、とても美味しい料理の数々でしたから。胃に負担をかけないようなメニューを考えて下さったのでしょう? ありがとうございました」
素材選びもそうですが、私の料理には極力油を抜いて消化に良い調理方法でした。できるなら、厨房に行ってお礼を述べたいくらいですが、それはいくらなんでも図々しいお願いでしょう。最後かもしれないと思うとすべてを目に焼き付けておきたい気持ちになります。
「そこまでわかるんだね。料理人冥利に尽きるだろうな。シェフ達も感激すると思う」
「喜んでくださると嬉しいわ」
最後の晩餐。笑顔で終わりたい。瞳が涙で滲むのを抑えました。
「そういえば、俺にお菓子を作ってくれる約束がまだだったよね?」
ブルーベリータルトの甘酸っぱい美味しさを堪能していた時です。思い出したように尋ねられてびっくりしました。まだ有効だったのですか?
約束した日から数週間経っていますから、もうないものと忘れていらっしゃるだろうと思っていました。
「そうですが……」
「ローラの体調が万全になってからでいいんだ。作って欲しい。どう?」
「……」
「ダメ?」
小首をかしげて上目遣いでこちらの出方を窺うような表情にきゅんと胸が締めつけられる。時折見せる弱気な態度にときめいてしまう。
「ダメではないですけれど、私でいいのですか?」
つい、聞いてしまいます。これ以上、そばにいてもいいのかしら? レイ様にご迷惑ではないのかしら?
自分から身を引くのも大事な事。ふと浮かんできた言葉に心が凍ります。
「ローラがいいんだ。ローラが作ったお菓子が食べたい」
レイ様は優しい方だから、そういってくださるのね。
「ありがとうございます。いつか機会があれば……」
ちょっと言葉を濁してみたら、伝わるかしら。
「うん。楽しみにしてる。まずは体の回復優先でいいからね」
私はこくんと頷きました。
伝わらなかったみたい。でも、私の体調を慮って下さるレイ様。優しすぎるわ。
このまま、体調不良のせいにしてうやむやにしてしまうのもいいのかもしれない。なんて狡いことを考えてしまう。レイ様だって会わなくなれば、私のことなどすぐに忘れてしまうでしょう。
「おいで」
いつの間にか隣に座っていたレイ様が手を広げていました。
「おいで」
広げられた胸の中に吸い込まれそうになりましたが、思いとどまりました。今までだったら何も考えず飛び込んでいたかもしれません。なぜそんなことが出来たのか、自分の行動の無謀さに羞恥心がこみ上げてきました。
「いつもなら、来てくれるのにどうしたの?」
様子がおかしいと頭を捻るレイ様と自覚した思いに戸惑う私。
業を煮やしたのかレイ様は自分から近づくと私を抱きしめました。シトラスの香りに包まれて腕の中に閉じ込められて、そんな行為に喜ぶ私がいる。振りほどけない私がいる。
「こうしていないと逃げられそうだから。話があると言っていたよね。覚えてる?」
あの時は手をしっかりと握られていたわ。逃げないようにって。
「はい」
鼓膜を震わす声が心の奥を刺激して切なく疼きます。
「逃げませんよ。大丈夫です。ですから……」
離してください。とは言えませんでした。
レイ様の温もりが大好きだから。レイ様の腕の中はこんなにも心地よいものだと知っているから。今だけだからと狡い気持ちを隠して。
「ローラの逃げませんは信用できない」
「それは……」
逃げたのは一度だけで、この前は逃げようとは思ったけれど、我慢したわ。
「ふっ」
レイ様が微かに吹き出したのがわかりました。耳元で息がかかるのは心臓に悪いわ。こそばゆさに身を捩ってしまいます。
「ほら、そんなに動いたら抱きしめられないよ。じっとしてて」
クスクスと笑いが漏れて甘い声が降ってきます。耳元で囁かれると何かがせりあがってくるような未知の感覚が私を襲いました。でもそれは嫌な感覚ではなくて、むしろ心地よいような気がして、不思議な気持ちになります。
「うん。いい子だね」
言う通りにピタリと動きを止めた私をご褒美とばかりに頭を何度か撫でるレイ様。小さい子供のような扱いにホッとするような寂しいような……
そろそろ夕闇が近づいてきました。刻々と時間は過ぎていきます。
「ローラ」
甘美な雰囲気に酔っていた私の耳元でシリアスな声に現実に引き戻されました。
「俺はローラが好きだ。愛している。だから、俺と結婚してほしい」
「……」
い、今。何を言われたのか。
好き? 結婚? 微かに耳を掠めていった言葉。
すぐには理解できなくて……
「ローラ?」
返事もできなくて固まってしまった私から身を離したレイ様。ゆっくりと交わる視線。
「あの……よく、聞こえなくて……」
きっと、聞き間違い。そんなこと、結婚って……
「もう一度言うから、よく聞いてて」
私は頷くと聞き逃してはいけないとレイ様をジッと見つめました。
「俺はローラ、君を愛している。俺と結婚してくれないか。俺の妃になった欲しいんだ」
私の手を取るとレイ様の顔が近づいてきて、指先にチュッと口づけを落とされました。冷たくなった指先がほんのりと熱を帯びます。
聞き間違えではなかったのね。
愛している。結婚。現実味のない言葉。
突然のプロポーズにどう返事をしたらいいのか。レイ様への思いと結婚はイコールなのか、軽々しく受けていいものなのか。瞬時に駆け巡る色々な思考。
私の返事を待つレイ様の不安そうに揺れる瞳から目を逸らして俯きました。
傷物令嬢……分不相応……
みっともない……
次々に浮かんでくるのは、ビビアン様の言葉の数々。
『レイニー殿下もお気の毒ね。ガーデンパーティーで知り合ったばかりに、こんな地味で冴えない令嬢の相手をしなければならないなんて。いい加減、うんざりしていらっしゃるのではないかしらねぇ』
『解放して差し上げたらいかがかしら』
わかっている。わかっているわ。自分のことなど痛いほどわかっている。
「返事を聞かせてほしい」
レイ様の真摯な眼差し。快活に笑う表情。私を呼ぶ声。抱きしめられた時の温もり。
私に与えられたすべてのものが愛おしい。
「申し訳ありません。お受けできません」
自分の思いを断ち切るようにきっぱりと答えました。
レイ様の瞳が驚愕に見開かれて失望に染まっていく。悲哀に満ちた顔に心が痛む。
レイ様にはもっと相応しい方がいるわ。私でなくてもいい、私なんかよりもっと相応しい方がいる。気の迷いよ。レイ様は勘違いしていらっしゃるのよ、きっと。だから、すぐに目が覚めるわ。私のようなつまらない娘よりもお似合いの令嬢がすぐに見つかるわ。
「なぜ? ローラは俺の事をどう思っている? 正直に答えて」
掴まれた肩に力がこもります。今、目を逸らしてはいけない。
「お優しい方だと思っております」
「それだけ?」
私はこれ以上は言葉を紡げず、こくりと頷きました。心は泣いているのに、こんなに冷静に返事ができるのはどうしてなのでしょう。
血の気を失った冷たい指先を握りしめて気丈にふるまわなければ。泣いてはいけない。
「そろそろ、離して頂いてもよろしいでしょうか」
自分でも驚くぐらいの冷淡な声音。
青褪めた悲愴な表情のレイ様を見るのはつらい。何が正解なのかはわからない、本当にこれでよかったのかなんてわからない。けれど、一度口にした言葉は取り消せない。
肩を掴んでいた手から力が抜けて、あっさりとレイ様から解放されました。なくなった温もりに寂しさを覚える自分がおかしくて、私から手を離したのに。
「今まで優しくして頂いてありがとうございました」
悲しみを湛えた瞳で呆然と私を見上げるレイ様に、これ以上はないくらいのカーテシーをしてその場を去りました。
あとはデザートを残すのみとなりました。
目の前に紅茶とブルーベリーのタルトが置かれました。
これを食べてしまうと終わってしまうのね。香りのよい紅茶にナパージュされたブルーベリーたっぷりのタルト。おいしそうだけれど、これで最後かと思うと手が止まってしまう。
「どうしたの? もうお腹いっぱい?」
じっと動かない私に不思議そうに聞かれました。レイ様には私の気持ちはわからないでしょう。
見つめる瞳にドキドキしていることも少し低音の柔らかい声に聞き惚れていることも、子供のような好奇心をのぞかせる時も、私に向ける優しい笑顔も、レイ様の何もかもが好きな事をレイ様は知らないでしょう。
「とてもきれいなケーキだったので、つい見入ってしまいました」
嘘ではありません。宮のお抱えパティシエだけあって見事なお菓子です。シェフもそうですが、できれば弟子入りしたいくらいです。
「ローラが褒めていると知ったらパティシエも喜ぶよ」
「シェフの皆さんにもお礼を伝えて頂けたら、とても美味しい料理の数々でしたから。胃に負担をかけないようなメニューを考えて下さったのでしょう? ありがとうございました」
素材選びもそうですが、私の料理には極力油を抜いて消化に良い調理方法でした。できるなら、厨房に行ってお礼を述べたいくらいですが、それはいくらなんでも図々しいお願いでしょう。最後かもしれないと思うとすべてを目に焼き付けておきたい気持ちになります。
「そこまでわかるんだね。料理人冥利に尽きるだろうな。シェフ達も感激すると思う」
「喜んでくださると嬉しいわ」
最後の晩餐。笑顔で終わりたい。瞳が涙で滲むのを抑えました。
「そういえば、俺にお菓子を作ってくれる約束がまだだったよね?」
ブルーベリータルトの甘酸っぱい美味しさを堪能していた時です。思い出したように尋ねられてびっくりしました。まだ有効だったのですか?
約束した日から数週間経っていますから、もうないものと忘れていらっしゃるだろうと思っていました。
「そうですが……」
「ローラの体調が万全になってからでいいんだ。作って欲しい。どう?」
「……」
「ダメ?」
小首をかしげて上目遣いでこちらの出方を窺うような表情にきゅんと胸が締めつけられる。時折見せる弱気な態度にときめいてしまう。
「ダメではないですけれど、私でいいのですか?」
つい、聞いてしまいます。これ以上、そばにいてもいいのかしら? レイ様にご迷惑ではないのかしら?
自分から身を引くのも大事な事。ふと浮かんできた言葉に心が凍ります。
「ローラがいいんだ。ローラが作ったお菓子が食べたい」
レイ様は優しい方だから、そういってくださるのね。
「ありがとうございます。いつか機会があれば……」
ちょっと言葉を濁してみたら、伝わるかしら。
「うん。楽しみにしてる。まずは体の回復優先でいいからね」
私はこくんと頷きました。
伝わらなかったみたい。でも、私の体調を慮って下さるレイ様。優しすぎるわ。
このまま、体調不良のせいにしてうやむやにしてしまうのもいいのかもしれない。なんて狡いことを考えてしまう。レイ様だって会わなくなれば、私のことなどすぐに忘れてしまうでしょう。
「おいで」
いつの間にか隣に座っていたレイ様が手を広げていました。
「おいで」
広げられた胸の中に吸い込まれそうになりましたが、思いとどまりました。今までだったら何も考えず飛び込んでいたかもしれません。なぜそんなことが出来たのか、自分の行動の無謀さに羞恥心がこみ上げてきました。
「いつもなら、来てくれるのにどうしたの?」
様子がおかしいと頭を捻るレイ様と自覚した思いに戸惑う私。
業を煮やしたのかレイ様は自分から近づくと私を抱きしめました。シトラスの香りに包まれて腕の中に閉じ込められて、そんな行為に喜ぶ私がいる。振りほどけない私がいる。
「こうしていないと逃げられそうだから。話があると言っていたよね。覚えてる?」
あの時は手をしっかりと握られていたわ。逃げないようにって。
「はい」
鼓膜を震わす声が心の奥を刺激して切なく疼きます。
「逃げませんよ。大丈夫です。ですから……」
離してください。とは言えませんでした。
レイ様の温もりが大好きだから。レイ様の腕の中はこんなにも心地よいものだと知っているから。今だけだからと狡い気持ちを隠して。
「ローラの逃げませんは信用できない」
「それは……」
逃げたのは一度だけで、この前は逃げようとは思ったけれど、我慢したわ。
「ふっ」
レイ様が微かに吹き出したのがわかりました。耳元で息がかかるのは心臓に悪いわ。こそばゆさに身を捩ってしまいます。
「ほら、そんなに動いたら抱きしめられないよ。じっとしてて」
クスクスと笑いが漏れて甘い声が降ってきます。耳元で囁かれると何かがせりあがってくるような未知の感覚が私を襲いました。でもそれは嫌な感覚ではなくて、むしろ心地よいような気がして、不思議な気持ちになります。
「うん。いい子だね」
言う通りにピタリと動きを止めた私をご褒美とばかりに頭を何度か撫でるレイ様。小さい子供のような扱いにホッとするような寂しいような……
そろそろ夕闇が近づいてきました。刻々と時間は過ぎていきます。
「ローラ」
甘美な雰囲気に酔っていた私の耳元でシリアスな声に現実に引き戻されました。
「俺はローラが好きだ。愛している。だから、俺と結婚してほしい」
「……」
い、今。何を言われたのか。
好き? 結婚? 微かに耳を掠めていった言葉。
すぐには理解できなくて……
「ローラ?」
返事もできなくて固まってしまった私から身を離したレイ様。ゆっくりと交わる視線。
「あの……よく、聞こえなくて……」
きっと、聞き間違い。そんなこと、結婚って……
「もう一度言うから、よく聞いてて」
私は頷くと聞き逃してはいけないとレイ様をジッと見つめました。
「俺はローラ、君を愛している。俺と結婚してくれないか。俺の妃になった欲しいんだ」
私の手を取るとレイ様の顔が近づいてきて、指先にチュッと口づけを落とされました。冷たくなった指先がほんのりと熱を帯びます。
聞き間違えではなかったのね。
愛している。結婚。現実味のない言葉。
突然のプロポーズにどう返事をしたらいいのか。レイ様への思いと結婚はイコールなのか、軽々しく受けていいものなのか。瞬時に駆け巡る色々な思考。
私の返事を待つレイ様の不安そうに揺れる瞳から目を逸らして俯きました。
傷物令嬢……分不相応……
みっともない……
次々に浮かんでくるのは、ビビアン様の言葉の数々。
『レイニー殿下もお気の毒ね。ガーデンパーティーで知り合ったばかりに、こんな地味で冴えない令嬢の相手をしなければならないなんて。いい加減、うんざりしていらっしゃるのではないかしらねぇ』
『解放して差し上げたらいかがかしら』
わかっている。わかっているわ。自分のことなど痛いほどわかっている。
「返事を聞かせてほしい」
レイ様の真摯な眼差し。快活に笑う表情。私を呼ぶ声。抱きしめられた時の温もり。
私に与えられたすべてのものが愛おしい。
「申し訳ありません。お受けできません」
自分の思いを断ち切るようにきっぱりと答えました。
レイ様の瞳が驚愕に見開かれて失望に染まっていく。悲哀に満ちた顔に心が痛む。
レイ様にはもっと相応しい方がいるわ。私でなくてもいい、私なんかよりもっと相応しい方がいる。気の迷いよ。レイ様は勘違いしていらっしゃるのよ、きっと。だから、すぐに目が覚めるわ。私のようなつまらない娘よりもお似合いの令嬢がすぐに見つかるわ。
「なぜ? ローラは俺の事をどう思っている? 正直に答えて」
掴まれた肩に力がこもります。今、目を逸らしてはいけない。
「お優しい方だと思っております」
「それだけ?」
私はこれ以上は言葉を紡げず、こくりと頷きました。心は泣いているのに、こんなに冷静に返事ができるのはどうしてなのでしょう。
血の気を失った冷たい指先を握りしめて気丈にふるまわなければ。泣いてはいけない。
「そろそろ、離して頂いてもよろしいでしょうか」
自分でも驚くぐらいの冷淡な声音。
青褪めた悲愴な表情のレイ様を見るのはつらい。何が正解なのかはわからない、本当にこれでよかったのかなんてわからない。けれど、一度口にした言葉は取り消せない。
肩を掴んでいた手から力が抜けて、あっさりとレイ様から解放されました。なくなった温もりに寂しさを覚える自分がおかしくて、私から手を離したのに。
「今まで優しくして頂いてありがとうございました」
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