歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第6章

出石へ

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 その日以来、綾之助は知八と会っていない。
 あの後、知八は「そうか」と一言言って部屋を出ていった。
 翌日知八の部屋へ行ってみると、すでにチェックアウトした後だった。帰りの新幹線も、綾之助の隣席は空のままだった。


 大阪に帰れば、綾之助は目の回るような忙しさだった。今まであんなによく会っていたのが嘘のように全く知八には会わなかった。いつも知八が忙しい合間を縫って綾之助に会いに来ていたのだということに、今更ながら綾之助は気づいた。
 知八に謝らなければならない。そう思いながらも、つい煩わしさから先延ばしにしているうち、月も半ばを過ぎ、次の舞台が近づいてくる。
 次の舞台は兵庫県出石市にある出石館である。古い芝居小屋で、客席は全て桟敷という雰囲気のある小屋だ。ここでは毎年一週間、歌舞伎の興行がある。
 今回の座頭は蓮十郎である。演目は新作で、出石出身で会津藩士となった川崎尚之助を軸に会津の悲劇を描く。川崎尚之助は近年の研究で再評価されたご当地ゆかりの新しいヒーローだ。この内容で興行を打てば話題になるし、出石の人はたくさん見物に来てくれるだろうが、新作は新しく覚えなければならないことばかりで、演じる側の準備はなかなか大変だった。
 東京でのミュージカルを終えて蓮十郎が大阪に戻ってくると、すぐに竹田座にある稽古場でお稽古が始まった。
 主人公尚之助を蓮十郎、その妻八重を知八、八重の兄覚馬を綾之助が演じる。
 慣れない立役が付いて、それだけでも綾之助は大変だった。平稽古の時点ですでにセリフはちゃんと入っていたのだが、それでもうまく芝居の流れに乗れない。兄妹役の知八とはカラむシーンが多いのだが、あんなことのあとでは知八に馴れ馴れしくするのにためらいがあって、それが芝居にも出る。
 まだ、知八に謝ってもいない。それなのに、芝居では妹八重を叱りつけるシーンがある。
「綾はお兄さんの役やねんから、もっと強う出なあかんで」
 ためらいの出る綾之助の演技に、知八はそんなアドバイスをしてくれた。稽古中、知八は普通だった。演技にも綾之助への感情が出ることはない。
 この人はすごい。ほんまにプロなんや。 
 今までずっと子供扱いしてきた自分が恥ずかしかった。自分の方がよっぽど役者として未熟だ。
 もっと、しっかりしなければ。綾之助は必死だった。

 稽古帰りに、知八に声を掛けて謝らせてもらおうと綾之助は思っていた。しかし、知八は稽古が終わったら、すっと帰ってしまい全く声をかけられない。稽古中も、演技の間は綾之助と寄り添っていても、それが終わればすっと離れていき、綾之助と距離をとっている。
 もう、うちとはプライベートでは口を聞きたないということなんかな。それでも、仕事はちゃんとやってくれはるんや。それだけでもありがたいと思わんと。
 稽古は連日深夜に及んだ。稽古中以外もずっと今度の芝居のことばかり考えていた。ちゃんとやらなければ。迷惑はかけられない。仕事でだけは、知八を失望させたくなかった。


  
 出石へはみんなでバスに乗っていった。いつもなら絶対に綾之助の隣に座ってあれこれ話しかけるはずの知八が綾之助に一言も話しかけないので、周りの人間もなんとなく、知八と綾之助の間に何かあったのだろうということを察したようだ。
 どうやら、綾之助が知八を怒らせたらしい。
 そんな噂が飛び交って、あからさまではないけれど、誰もが少し綾之助から距離を取る。今度幹部に上がるとはいっても、名門の御曹司の機嫌を損ねては、扱いはこんなものである。
 自分が悪いんやからしゃあない。でも、だからこそ、演技は完璧にやらな。綾之助の頭の中は舞台のことでいっぱいだった。宿の人が用意してくれた出石そばも喉を通らなかった。

 綾之助の事情とは関係なく、芝居の幕は開く。
 出石館は初日から満員御礼。チケットは入手困難で、蓮十郎の後援会ですら必要枚数を用意できなかったほどだ。
 初日の舞台に出勤するため、宿から出石館へ向かう道を歩いていたとき、綾之助は目眩を感じた。立っていられなくなって、道の端にしゃがみ込む。昨日あまり眠れてないからかな。今日舞台が終わったら早めに休まなあかん。しばらくじっとしていたら治まったので、そのまま出石館へ向かった。
 楽屋で衣装をつけているときに、また立ちくらんだ。さすがにこう立て続けでは不安になるが、舞台に穴は開けられない。ともかく、今日の舞台が終わったらすぐに休もう。そう思って舞台に出た。
 舞台は大盛況だった。新作はセリフも分かりやすいので、客の受けが良かった。よい雰囲気で舞台は進み、板についている間は体の不調は全く感じなかった。
 幕切れ、万雷の拍手を浴びながら絵面の見栄をして、幕引きが定式幕を引いたのを見届け、終わった、と思ったところで綾之助の記憶は途切れた。
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