御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません！──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

第6章 千尋の元カレ

①

夕暮れのオフィス街。

出張帰りの私は、いつものように早足で駅へ向かっていた。

「……千尋。」

懐かしすぎて、鼓膜が震えた気がした。

一瞬、足が止まる。背筋にぞわっとした感覚。

振り返ると、そこにいたのは――悠太だった。

「千尋、無視するのか？」

そう言って、彼が私の腕をそっと掴む。

「悠太……」

10年付き合って、結婚だけはしてくれなかった人。

泣いて、泣いて、最後は私から手を離した――あの人。

「偶然だな。こんなとこで会うなんて。」

彼は変わらない笑顔を浮かべていた。

でも私の中の何かが、もう前と違っていた。

「……元気そうだね。」

精一杯、平静を装って答えた私。

でも、心はざわついていた。

「千尋も、元気そうでよかった。」

そう言って微笑む悠太の顔は、昔と何ひとつ変わらなかった。

いや、少しだけ大人びたような――でも私の記憶にあるままの、優しい笑顔。

その笑みに、胸の奥がふわりとほどける。

10年、私の傍にあった、いちばん安心できる場所だった。

「どう？仕事は？」

「あ、うん。相変わらず順調かな。」

気づけば、昔みたいな口調で返していた。

仕事がうまくいかないとき、終電で帰ってきた時、愚痴ばっかり言ってた。

「会社辞めたら？」って真顔で言われて、本気でムカついたこともあった。

でも、あの時は、全部聞いてくれてたな……って思い出してしまう。

「悠太は？」

「俺？……しばらく海外に行ってたんだ。ロンドンのプロジェクト任されててさ。で、最近日本支社に戻ったばかり。」

「そっか……じゃあ、またここで働いてるんだね。」

うん、と頷く彼の笑顔が、まぶしくて。

──あのとき結婚していたら、私はこの再会にこんなに胸をざわつかせていなかったかもしれない。

今さら後悔しても、もう遅いのに。

「……結婚したんだって？」

その言葉に、私は思わず顔を上げた。

やっぱり、知ってたんだ。

「誰から聞いたの？」

「ほら、杉山っていただろ？」

「ああ……！」

懐かしい名前に、思わず微笑んだ。

大学時代、私と悠太と杉山君。いつも一緒だった。

私が悠太と付き合い始めた後も、ずっと変わらず、気さくで、何でも話せる友人だった。

「日本に戻ってきた時に、杉山と飲んで。その時に聞いた。」

「……そう。」

わざわざ、自分の口から知らせるほどのことじゃないと思っていた。

だから、私からは言わなかった。

でも、本当は——心のどこかで、知られたくなかったのかもしれない。

「交際0日婚だって聞いた。」

私は、小さくうなずいた。

その言葉に、悠太が少しだけ眉をひそめたのを、私は見逃さなかった。

「……大丈夫なの？そんな奴。」

静かな声だった。

でも、確かにそこに含まれていた感情——
心配、疑念、そして……僅かな嫉妬。