御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒

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第6章 千尋の元カレ

「どういう意味?」

「いや……」

言いかけて、口をつぐむ悠太。

昔から、怒った時や何かを誤魔化すとき、そうやって目を逸らす癖があった。

「俺が言える立場じゃないのは分かってる。けど……」

そこまで言って、彼は私を真っ直ぐに見た。

「俺は10年かけて、千尋と向き合ってきたつもりだった。だけど、その“0日”に全部、負けたみたいで、正直、悔しい。」

一瞬、言葉が出なかった。

胸の奥がチクリと痛んだ。

……やめてよ。
今さら、そんなこと、言わないでよ。

「そうだ。立ち話もなんだから、どこかで一杯……」

「いい。」

私は、その誘いを静かに断った。

悠太は少しの間、黙ったまま私を見つめていた。

「その交際0日婚が、案外うまくいってるの。」

自分でも驚くほど、トゲのある言い方だった。

あてつけみたいに聞こえたかもしれない。でも、止められなかった。

「やっぱり、決断力のある男って、魅力的よね。」

その瞬間、悠太の表情が曇った。

ああ……やっぱり傷ついたんだ。

だけど、私だって10年前、何度も、何度も、傷ついてきた。

「千尋はさ——」

ぽつりと、彼が口を開いた。

「ロンドンに付いてきてと言ったら、一緒に来てくれた?」

私は、目を見開いた。

……そんなこと、一度も言ってくれなかった。
言われてたら、きっと——

でも、もう答えることも、考えることもできない。

「それを言わなかったのは、悠太でしょう?」

「言わなかったよ。言えるか?仕事も家族も捨てて、俺を選べって。」

悠太の声は低く、悔しさを滲ませていた。

それが、彼なりの優しさだったのかもしれない。

でもそれは、私にとって残酷な沈黙だった。

「……あの頃の千尋にそれを言うのは、酷だよ。」

彼は言い訳のように言った。

たぶん、本当にそう思っていたのだろう。
でも――

「それでも、私は悠太を選びたかった。」

声が震えそうになるのを必死に堪えた。

「仕事も順調だったし、親ともやっと向き合おうとしてた。結婚を考え始めたからこそ、家族を大事にしようと思っていた。その時に、あなたが“来て”って言ってくれたら――私はきっと、全部を捨てても、あなたを選んだと思う。」

悠太は言葉を失っていた。

「悩んだと思う。でも、その先にあなたがいてくれるって信じてたから、私は選びたかったの。」

目を合わせた。
もう何も言わない彼の瞳に、今さらの後悔の色が浮かんでいた。

「“言わなかった”ことが優しさだとしても、私は、あの時言ってほしかった。」

言ってほしかった。

あなただけを見て、飛び込んでほしかった。

それだけが、心にずっと残っていた。

家に帰ると、キッチンからいい香りが漂ってきた。

そっと覗くと、エプロン姿の律さんがフライパンを振っていた。
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