先生

藤谷 郁

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永遠

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自宅に着いた頃、家族は皆寝ていた。

私は階段をそーっと上がり自分の部屋に入った。

疲れた身体を休める前に、携帯電話をバッグから取り出し、もう一度確かめる。着信履歴にある島先生の名前。

「先生」

じっと見つめるが、時計を見て首を垂れた。電話をかけていい時間ではない。

「ごめんなさい」

電話をぎゅうっと胸に抱いて、枕の下に入れた。

カーディガンもワンピースも脱ぐと、下着姿でベッドに横になり瞼を閉じる。すぐにウトウトして、夢の世界へと導かれた。

だが半分起きている。

起きているはずなのに、ここはどこだろうと、辺りを見回す。

ここは――


誰もいない、海。

遥かに広がる、太平洋。

じりじりと焼けるように熱い砂浜に、私は独りで立っている。

真夏の太陽に抱きしめられ、これは夢だと思っている。

潮騒が聞こえる。

寄せては返す波の音。子守唄のように……


いつしか私は深い眠りに落ちていた。



翌朝。

早起きした私はまずシャワーを浴び、昨日の水着や何かを洗濯して、朝食を急いで食べた。

早朝からばたばたと動き回る私を、寝起きの母親がぼんやり見ていたが、「もう一度寝るわ」と、寝室に引っ込んでしまった。

父親は釣りにでも出掛けたのか姿が見えない。

家の中はシンとしている。


部屋に戻ると窓を開けて、空を見た。今日も快晴。明るくまぶしい世界が広がっている。

配送センターの方角を眺めると、しばらく窓辺に佇む。

頬に触れる風は、微かに秋の匂いがした。

「松山さん……」 

いつまでも、どこまでも、空は続いている。私も彼も、独りぼっちじゃない。

窓を閉めると、出掛ける準備を始めた。
 


喫茶店『クロッキー』の扉を開くと、音楽が流れてきた。

「あ、展覧会の絵だ」

自然に笑みがこぼれる。

この前座ったテーブル席に進んで紙袋とバッグを脇に置いて座った。午前7時30分。早い時間だが、お客さんが結構入っている。

「いらっしゃいませ~」

マスターの奥さんが、あれあれといった顔でオーダーを取りにきた。

「先生はまだだけど……もしかして、待ち合わせ?」

「いえ、約束はしてなくて」

「あらまあ、そうなの!」

彼女は目を丸くする。そして、天井を指さして手招きした。

「それなら、こっちがいいわよ。こっちこっち」

奥さんは一階のテーブル席の間を抜けて、階段を上がった。

二階席に着くと、「ここがグッドよ」と、奥まった位置にある窓際の席に私を座らせた。

「うふふ。先生のお気に入りの場所よ」

「えっ、そうなんですか」

「一人で来る時はね、ここに座ってる」

私はきょろきょろと見回し、窓の外に目を留める。楓の緑が風に揺れている。枝を透かした遠くには、朝の町並みが白っぽく広がっていた。

「昔はこんなに建物が多くなかったし、風景も変わったけど、楓だけは相変わらずでしょ。先生はここでコーヒーを飲むと落ち着くみたいで、だから今でも……」

なぜかいたずらっぽく笑う。

「いけない、仕事しなくちゃね。さて、何にしましょうか」

私は不思議に思いつつ、カフェオレを頼んだ。


二階席には数人のお客さんしかおらず、とても静かだ。

「先生のお気に入り……か」

テーブルの横に観葉植物が置かれているため、個室のような空間である。

「うん。落ち着くかもしれない」

窓の外を見ていると、足音が近付いてきた。

奥さんがカフェオレを運んで来たのだ。そう思って顔を向けた私は、驚きのあまり息を呑む。

彼もびっくりして立ち止まり、そのまま動けなくなった。

「先生……」

「……」

水色のシャツに白のデニムパンツ。爽やかな服装とは裏腹に冴えない顔をして、ちぐはぐな印象。

初めて見る、素の姿だと思った。

「先生」

もう一度呼ぶと、彼は打たれたように背筋を伸ばし、いつもどおりのしゃんとした姿勢になった。

だけど、その場から動けず立ち止まっている。

「びっくりした?」

「うわっ!」

背後から急に声を掛けられ、先生は大きな声を上げた。

カフェオレを運んできた奥さんだ。彼の反応を見て、嬉しそうに笑っている。

「……酷いな。言ってくれたらいいのに」

私の向かい側に腰掛けると、先生は奥さんを軽く睨んだ。ここに私がいるのを知らされず、上がってきたのだ。 先生のあんな顔を見るのは初めてで、私はつい微笑んでしまう。

「ゴメンゴメン。でも、会えて良かったじゃないの、ね」

「……」

先生は何も返せず、苦笑した。

「すぐにいつもの持ってくるわね~」

軽やかな足音が遠ざかると、二階席はもとどおり静かになった。

先生と私はあらたまったように向かい合い、視線を一度絡めたが、どちらともなくすぐに逸らした。

何だか、ものすごく久しぶりのような気がして照れくさかった。 


コーヒーが運ばれてくると、先生はカップに視線を置いて、しばらく黙っていた。私は私で、そんな彼に何を言えばいいのか分からず、カフェオレに目を落とす。

だけど、私には言わねばならない――いや、謝らねばならないことがある。

顔を上げて先生を見た。すると、呼応するように彼も目を合わせる。

「先生、私……」

「いいんだ」

まるで予測したように早口で遮る。そして、彼らしい穏やかな微笑みを浮かべて……

「お帰り、薫」

怒りもせず、責めてもいない。心からの安堵が伝わる、再会の言葉だった。


先生はコーヒーを含むと、目を伏せた。

謝罪も言いわけも必要ないのだ。でも私は、きちんと座り直す。うやむやにすれば、しこりになるような気がした。

それに、気付かない振りはできない。この人は、ずっと待っていてくれたのだ。

「ごめんなさい、電話に出なくて。途中で気がついたけれど、折り返しもできなくて」

先生のカップを持つ手が、ぴくりと動く。

「ごめんなさい」

「……」

先生が飲みかけのコーヒーをゆっくりと置く。私を正面から捉える瞳には、強い光が輝き始めていた。

「やっぱり、君はいいね。正直で誠実」

彼はテーブルの上に身を乗り出し、思いもよらぬことを訊ねた。

「僕の家に来るつもりだった?」

私は言葉が出ず、だけど素直に頷く。

その通り。今朝、こうしてクロッキーに来たのは、先生のもとに戻るため。その前にちゃんと落ち着きたくて、一人でコーヒーを飲もうとしたのだ。

私はふと、傍らに置いた紙袋を意識する。先生へのお土産だ。

「君に電話をかけたのは、たいした用事じゃない。気にしなくていいんだ。こうして今、僕の前にいる。戻ってくれたのが何より嬉しい。これは本当の気持ちだよ。だけど……」

言いかけると、口をつぐむ。テーブルの上で組まれた先生の手を、何気なく見やった。親指の関節に、赤い絵の具が付いている。

「薫……笑わないでほしい」

強い光を宿した瞳。だけど迷いも感じられる。こんなにも真剣な彼を、どうして笑えるだろう。

「心配してたんだ。昨夜も眠れなくて……夜通し、アトリエで……」

先生は言いながら、関節の赤色を擦った。

「僕は、どうかしている」


音楽が終わり、カップや皿を重ねる音だけが店内に響く。

先生はいたたまれないように立ち上がると、窓に目を投げた。楓の葉が、誘うように揺れている。

夏の青空が、ますます眩しく輝いていた。

まるで、あの海のように。

「行こう」

低い声。

うっすらと伸びた髭。

男性の望みがそこにあった。

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