先生

藤谷 郁

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惜別

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圧倒的な力の差に、私はやがて抵抗をあきらめ、涙に濡れた顔を横に向けた。暴漢は私に覆いかぶさり、見下ろしている。

信じられない。

こんなことになるなんて。

屈辱と惨めさにまみれ、私は乱れたワンピースから剥き出しになった脚を、それでも必死に閉じた。身体を震わせ、しゃくり上げながら。

「薫」

暴漢が名を呼んだ。

私は目を閉じた。見たくなかった。

「薫」

もう一度呼んだ。

もっときつく瞼を閉じる。涙がぽろぽろと、シートの上に落ちた。

暫くそのままでいたが、やがて手首を押さえつける指から力が抜け、同時にため息が聞こえた。

黒い影は私から離れると、もう一度呼んだ。

「か・お・る」

「……」

松山さんの声。

目を開けると、闇に慣れたのか、ぼんやりと状況がわかった。

恐ろしい暴漢は消え、代わりに、私がよく知る松山さんが見下ろしていた。

「本当にお前って女は……。しょうがねえな、全く」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃの私を見詰め、松山さんが笑っている。

「大騒ぎして。どこへ行こうってんだよ、こんな真っ暗な中」

「……」

「いきなり走り出すから、びっくりしたぜ」

彼の穏やかな口ぶりに、視界が滲んだ。

「ひっ、酷いよ……」

しゃくり上げながら抗議する。涙が溢れて、止めようがなかった。

手の甲で目茶苦茶に拭う。小さな子どものように、なりふり構わず。もう、恰好をつける余裕なんて、どこにもなかった。

「薫」

松山さんは笑いをおさめると、もう一度呼んだ。優しい声に、余計、涙腺を刺激される。

「悪かった。乱暴だったな」

私を抱き起こすと、涙を拭いてくれた。

松山さんに襲われ、松山さんに泣かされ、松山さんになだめられている。変てこな状況についていけず、責めるように彼を睨む。
 
「あんまりお前が揺さぶるから……理性がぶっ飛んだ」

「……」

「押さえ込んだつもりが、やっぱ駄目だったよ」

静かな川べりに、秋の虫が鳴いている。

夏の終わりの、優しい音色だ。
  
「あそこまで言うつもりはなかった」

松山さんは後部座席に私と並んで座ると、こちらを見ないまま話をした。

「揺さぶられて、本音が出ちまった。絶対に、言うまいと思ってたのに」

激しい口調が蘇る。あれは本当の気持ちだった――


――俺のものになれよ。先生を捨てて、一生俺だけの女になるんだ。


「だけど、薫が先生と上手くいけばいいと考えてた……それもホントだぜ」

私は頷いた。それも彼の本心だと信じられる。

「お前をただの友達だと、割り切ったふりをして、きれいにさよならするつもりだった」

(さよなら?)

ゆっくりと、彼を見る。彼もこちらを向くと、静かに告げた。

「俺、引っ越すんだ」

「引越す……?」

「ああ。ずっと前から誘われてたけど、迷って決められなかった」

ある予感がする。その予感が当たらないのを願いながら、私はただ聞くしか無かった。

「郷田先生……中学で世話になった担任の先生ね。あの人が北海道の釧路にある牧場の一人息子でさ、5年前に教師をやめて後を継いでるんだ」

「ごうだ……先生」

中学時代、親身になって世話をしてくれたという先生だ。島先生に似ているという……

「うん。そろそろ町を出ろって言われた。いいかげん、母ちゃんの呪縛から解放されろって」

「あ……」

松山さんは、家出したお母さんをずっと待っているのだとマスターが言った。大学や社会人ラグビーの勧誘も退けて、母親が戻るのを待っていると。

「タンクローリーの運転手をやらないかって、仕事も探してくれてさ。何なら一緒に暮らしてもいいとか、しょっちゅう連絡くれて。何であんなに世話焼くんだか。卒業して何年も経つのにな、参るよ」

そう言いながら嬉しそうにするので、釣られて微笑む。

でも、すぐ真顔に戻った。

つまりこういうことだ。

郷田先生の誘いで松山さんは地元を離れ、その先生のいる北海道へ引っ越す。引っ越すのだと、この人は言った。

「そんな……全然知らなかったよ」

「そりゃそうだろ。今日決めたんだから」

彼はクスリと笑う。

「お前に相談してから決めようと思ってたんだ」

「松山さん」

やっと分かった。この事だったのだ。私に聞いてほしいというのは、こんなにも大切な話だったのだ。

「でも、今日決めたって、どうして。私、何も答えてないよ」

「だってお前、俺だったら絶対に海に行くだろうなって、そう言ったろ」

(海に……?)

あっと思い出す。昼間の、イルカショーでの会話だ。

「窮屈だけど安全な水族館のプールで過ごすか、それとも、天敵から身を守るのも、餌を確保するのも自力だが、思い切り泳ぐことの出来る海に生きるか。お前は答えた。俺がイルカなら海だと」

体が震える。そんな重要なことだとは、思いも寄らなかった。

「私、そんなつもりじゃなかった……そんな」

「何言ってる。お前は鈍感で男心には疎いくせに分かってるんだ。俺の本質と、どう生きるのが俺らしく幸せなのか」

「……」

「俺の強面を怖がりもせず、壁もなく、親しげに話しかけてくるヘンな女」

彼は笑い、私の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

この人は、遠くへ行こうとしている。私の言葉でそれを決めたのだ。

「俺はお前のおかげで、お袋の呪縛から解放された。お前はお袋とまるで違う。臆病で、泣き虫で、意気地なしで。だけど俺を守ろうなんて、本気で言ってくれる。そんなお前に心底から惚れた。お袋みたいな女じゃない、星野薫っていうひとりの女に惚れることができたんだ」

「松山さん」

「感謝してる。本当に、感謝してるんだお前には」

「でも私は、私は何もできなかった。あなたのために何もできない」

こんな時だって泣くことしか出来ない。こんな私なのに。

「お前みたいな女がこの世にいてくれた。何も出来なくていいんだ。それだけで、俺は救われる」


行かないで――


そう言ってしまいたい。でも、それを口にすれば、この人を苦しめるだけ。

だけど、この寂しさをどうすればいいの。

「突然すぎるよっ」

「突然でいいんだ。もたもたしてると未練がましくなるだろ」

涙が零れる。この人を苦しめるだけと分かっているのに。

「一途でいろよ。俺の惚れた一途な薫でいろ。約束だ」

温かな眼差しに包まれたまま、頷く。もう止めることはできないのだ。

「……さよなら、薫」

最初で最後の口付けが、右の頬に押された。

微かに、ミントの香りがした。
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