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惜別
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恋愛感情は簡単に割り切れるものではない。
分かっていたはずなのに、私は松山さんを、恋愛と切り離して関われる男性だと思い込んでいた。
いや、思い込もうとしていた。
都合よく、これからも今まで通りに付き合っていけると決め付け、彼に甘えていたのだ。
――28にもなってガキみたいに頼りない
激怒されて当然だ。本当に私は、どうしようもない。
今でもよく憶えている。先生に告白して退けられ、泣いていたあの夜、松山さんに言われた言葉。
――男心がまるで分かっちゃいない。
あの頃から、何も変わっていなかったのだ。
「先に乗ってろ」
松山さんは車のキーを私に持たせると、店舗棟に行ってしまった。
すぐに運転する気分ではないのかもしれない。
私はドアを開けると乗り込み、一人でじっと待った。大人しく待つほかない。彼に対して、私にはこれくらいが精一杯。何も出来ない現実をやっと理解できた。
10分が過ぎた。
松山さんは戻ってこない。
苛立っているのだろうか。気持ちが鎮まらなくて、どうしようもないのだろうか……
30分が過ぎた頃、さすがに不安になった。
(何かあったのかな)
心配になって見に行こうとしたが、すれ違いになるといけないので電話をかけることにした。
「えっと、スマホは……あれ」
今日はずっと使わなかったから、バッグに入ったままだ。青いストラップが付いた携帯を取り出し、番号を押そうとした。
「あ……」
着信記録が一件ある。誰だろうと思いながら発信者の名前を確認し、息を呑んだ。
「島先生……知らなかった。いつ?」
着信時刻は14時51分。水族館にいる頃だ。
巨大水槽の前で松山さんといる時、携帯が鳴った気がする。彼の話を邪魔してはいけないと、着信を無視した。あの電話は先生からだったのだ。
「悪い、遅くなった」
突然ドアが開いて、松山さんが入ってきた。
私は異様に驚き、そのはずみで携帯を取り落としてしまう。
「何やってんだ」
「ごめんなさい」
ふと、ミントの香りが鼻を掠めた。
ガムでも噛んでいるのだろうかと思いつつ、彼が拾ってくれた電話を受け取ろうとする。
「えっ……」
松山さんが手を止め、青いストラップを凝視している。
「ど、どうかした?」
「いや」
私は戸惑うが、彼はすぐに返した。
「ありがとう」
受け取ると、ぎゅっと握り締めるようにして持ち、それからバッグに仕舞う。何かもう、本当に自分が情けなくて仕方なかった。
「少し飛ばすか」
デジタル時計の表示を見た松山さんは、ベルトを装着しながら呟く。
「慌てなくていいよ。あと少しだから」
「いいのか」
遅くなってもいいのか……という意味だ。
私はうんうんと頷く。松山さんは「じゃ、そうする」と素直に返事をくれて、パーキングエリアをゆっくりと出発した。
夜の高速道路は現実感が無く、何処を走っているのかよく分からない。
膝に乗せたバッグが重く感じる。先生の電話は何の用事だったのか。着信は一回きりで、留守録もされていない。
急ぎでは無いと思うけれど、膝に重さを感じる。電話に出なかった負い目だろうか。
闇の中を走りながら、漠然とした不安に襲われる。
まるで、このままどこか別の場所に行ってしまいそうな――
だけど、意外なほど早く現実の世界へと抜け出した。
周りが明るくなってきた。ひとつ手前のインターが近付いてきたのだ。あと少しで、いつもの町に着くのだと思い、ようやく緊張を解く。
だけど、松山さんがウインカーを出し、出口へのラインに入った時、はっとした。
インターを間違えたのだろうか。
そっと彼を見るが、ぴくりとも表情を変えない。
彼はゲートを抜けると国道を北へ走った。
北は反対方向だ。
「松山さ……」
「遅くなってもいいんだろ」
有無を言わせぬ強引さで、私の声に被せる。
「今だけ、俺のものだ」
国道を北上するにつれ街灯りも寂しくなっていく。
私の事をずっと守ってくれた松山さんが、今は恐ろしい怪物に見える。
だけど逃げ出す事も出来ず、徐々に暗くなる車窓を見守るしかなかった。
高速を降りて15分ほど走った頃、看板が見えてきた。
宮野川に掛かる橋への表示。松山さんはその方向へと右折した。
地元に帰るには宮野川を渡らなければならない。やはりもう帰るのだと安心したが、彼は橋の手前で堤防を下りた。
「どこに行くの」
やっとのことで発した声は、ぶざまに震えている。でも構っていられない。
「松山さん、帰りたい」
彼は何も答えず、いきなり川に向かって砂利道を走り出した。真っ暗な中、スピードを緩めず進んでいく。
私はバッグを抱きしめ、振動に耐える。
(先生……っ)
島先生の声が耳に反響した。
――危ないことはしないで。
――僕のところに戻ってくるのを、待ってる。
ブレーキがかかり、車が止まった。
バッグを抱えたまま、恐る恐る松山さんを見上げる。暗くて表情はわからない。まるで知らない男性に思える。黒い影は前を向いたままエンジンを止め、ライトも消した。
闇の中、川面がぼんやりと横たわっている。街灯りは堤防に遮られ、真っ暗で、人影もない。
狭いシートの上を、見知らぬ男から目を逸らせないまま後ずさる。
(この人は松山さんじゃない)
手探りでドアを開けると、車を飛び出した。
堤防めがけて走る。砂利を踏み、草を分ける音が背後から聞こえた。追いかけて来るのだ。
(先生! 先生!)
砂利道が途切れると足元はぬかるみ、粘っこい泥がヒールに絡み付く。
何メートルも走らないうちに私は転んだ。すぐに立ち上がり逃げようとするが、かなわなかった。
後ろから伸びた物凄い力に腕を掴まれ、そのまま引きずるように連れ戻された。
「いやっ……いやーっ!」
金切り声を上げるが暴漢の力は緩まず、私は再び車に押し込まれた。
暴漢はひと言も発さない。ただ息荒く、獣のように猛々しい乱暴さで私をシートに押し倒した。
「やめてやめてっ。お願い、やめてー!」
同じ言葉を繰り返し、力いっぱいもがくが、無力を思い知らされるだけだった。
分かっていたはずなのに、私は松山さんを、恋愛と切り離して関われる男性だと思い込んでいた。
いや、思い込もうとしていた。
都合よく、これからも今まで通りに付き合っていけると決め付け、彼に甘えていたのだ。
――28にもなってガキみたいに頼りない
激怒されて当然だ。本当に私は、どうしようもない。
今でもよく憶えている。先生に告白して退けられ、泣いていたあの夜、松山さんに言われた言葉。
――男心がまるで分かっちゃいない。
あの頃から、何も変わっていなかったのだ。
「先に乗ってろ」
松山さんは車のキーを私に持たせると、店舗棟に行ってしまった。
すぐに運転する気分ではないのかもしれない。
私はドアを開けると乗り込み、一人でじっと待った。大人しく待つほかない。彼に対して、私にはこれくらいが精一杯。何も出来ない現実をやっと理解できた。
10分が過ぎた。
松山さんは戻ってこない。
苛立っているのだろうか。気持ちが鎮まらなくて、どうしようもないのだろうか……
30分が過ぎた頃、さすがに不安になった。
(何かあったのかな)
心配になって見に行こうとしたが、すれ違いになるといけないので電話をかけることにした。
「えっと、スマホは……あれ」
今日はずっと使わなかったから、バッグに入ったままだ。青いストラップが付いた携帯を取り出し、番号を押そうとした。
「あ……」
着信記録が一件ある。誰だろうと思いながら発信者の名前を確認し、息を呑んだ。
「島先生……知らなかった。いつ?」
着信時刻は14時51分。水族館にいる頃だ。
巨大水槽の前で松山さんといる時、携帯が鳴った気がする。彼の話を邪魔してはいけないと、着信を無視した。あの電話は先生からだったのだ。
「悪い、遅くなった」
突然ドアが開いて、松山さんが入ってきた。
私は異様に驚き、そのはずみで携帯を取り落としてしまう。
「何やってんだ」
「ごめんなさい」
ふと、ミントの香りが鼻を掠めた。
ガムでも噛んでいるのだろうかと思いつつ、彼が拾ってくれた電話を受け取ろうとする。
「えっ……」
松山さんが手を止め、青いストラップを凝視している。
「ど、どうかした?」
「いや」
私は戸惑うが、彼はすぐに返した。
「ありがとう」
受け取ると、ぎゅっと握り締めるようにして持ち、それからバッグに仕舞う。何かもう、本当に自分が情けなくて仕方なかった。
「少し飛ばすか」
デジタル時計の表示を見た松山さんは、ベルトを装着しながら呟く。
「慌てなくていいよ。あと少しだから」
「いいのか」
遅くなってもいいのか……という意味だ。
私はうんうんと頷く。松山さんは「じゃ、そうする」と素直に返事をくれて、パーキングエリアをゆっくりと出発した。
夜の高速道路は現実感が無く、何処を走っているのかよく分からない。
膝に乗せたバッグが重く感じる。先生の電話は何の用事だったのか。着信は一回きりで、留守録もされていない。
急ぎでは無いと思うけれど、膝に重さを感じる。電話に出なかった負い目だろうか。
闇の中を走りながら、漠然とした不安に襲われる。
まるで、このままどこか別の場所に行ってしまいそうな――
だけど、意外なほど早く現実の世界へと抜け出した。
周りが明るくなってきた。ひとつ手前のインターが近付いてきたのだ。あと少しで、いつもの町に着くのだと思い、ようやく緊張を解く。
だけど、松山さんがウインカーを出し、出口へのラインに入った時、はっとした。
インターを間違えたのだろうか。
そっと彼を見るが、ぴくりとも表情を変えない。
彼はゲートを抜けると国道を北へ走った。
北は反対方向だ。
「松山さ……」
「遅くなってもいいんだろ」
有無を言わせぬ強引さで、私の声に被せる。
「今だけ、俺のものだ」
国道を北上するにつれ街灯りも寂しくなっていく。
私の事をずっと守ってくれた松山さんが、今は恐ろしい怪物に見える。
だけど逃げ出す事も出来ず、徐々に暗くなる車窓を見守るしかなかった。
高速を降りて15分ほど走った頃、看板が見えてきた。
宮野川に掛かる橋への表示。松山さんはその方向へと右折した。
地元に帰るには宮野川を渡らなければならない。やはりもう帰るのだと安心したが、彼は橋の手前で堤防を下りた。
「どこに行くの」
やっとのことで発した声は、ぶざまに震えている。でも構っていられない。
「松山さん、帰りたい」
彼は何も答えず、いきなり川に向かって砂利道を走り出した。真っ暗な中、スピードを緩めず進んでいく。
私はバッグを抱きしめ、振動に耐える。
(先生……っ)
島先生の声が耳に反響した。
――危ないことはしないで。
――僕のところに戻ってくるのを、待ってる。
ブレーキがかかり、車が止まった。
バッグを抱えたまま、恐る恐る松山さんを見上げる。暗くて表情はわからない。まるで知らない男性に思える。黒い影は前を向いたままエンジンを止め、ライトも消した。
闇の中、川面がぼんやりと横たわっている。街灯りは堤防に遮られ、真っ暗で、人影もない。
狭いシートの上を、見知らぬ男から目を逸らせないまま後ずさる。
(この人は松山さんじゃない)
手探りでドアを開けると、車を飛び出した。
堤防めがけて走る。砂利を踏み、草を分ける音が背後から聞こえた。追いかけて来るのだ。
(先生! 先生!)
砂利道が途切れると足元はぬかるみ、粘っこい泥がヒールに絡み付く。
何メートルも走らないうちに私は転んだ。すぐに立ち上がり逃げようとするが、かなわなかった。
後ろから伸びた物凄い力に腕を掴まれ、そのまま引きずるように連れ戻された。
「いやっ……いやーっ!」
金切り声を上げるが暴漢の力は緩まず、私は再び車に押し込まれた。
暴漢はひと言も発さない。ただ息荒く、獣のように猛々しい乱暴さで私をシートに押し倒した。
「やめてやめてっ。お願い、やめてー!」
同じ言葉を繰り返し、力いっぱいもがくが、無力を思い知らされるだけだった。
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