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永遠
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私は動揺した。
だけど、先生がじっと見ているのに気付いて、今度は混乱した。
彼は、クロッキー帳を広げながら私の反応を見ている。
一体どういうことなのか、私は混乱したままの頭で必死で考える。
彼がどうして、私の裸体を描いたのか。
それをなぜ今、見せたのか。
どう反応すれば正解なのか。
考えても無駄だった。
そもそも、どう反応すればいいのかなんて、そんな作為が通じる状況ではない。この人はそんなものを求めていない。直感だけど、きっと当たっている。
私からダイレクトな返答が欲しいのだ。
取り繕いようの無い、微塵の余裕も無い真剣な態度がそれを物語っていた。
(誠実に、応えなくちゃ)
私は先生の手からそっとクロッキー帳を取ると、膝の上に置いた。
あらためて、描画にゆっくりと目を這わせる。
顔、首筋から胸元、乳房、腰のくびれから太腿、ふくらはぎ、足先……ありとあらゆる部位。
クロスハッチの陰影が、体のふくらみを、まるで目の前にするかのように再現している。
先生は記憶だけを頼りに描いたのだ。
こんなにも私は見られていたのかと、今更ながらのぼせそうになる。初めての日、私は殆ど目を閉じて、されるに任せていた。彼の体など観察する余裕は無かった。
震える指先で、最後のページを捲った。
「あっ……」
そこには、微かに開いた口元だけが描かれていた。この輪郭は、間違いなく私の唇だ。
でも、自分では見た事のない形だと思う。私はあの時、こんな風にしていたのだろうか。ため息が聞こえてきそうな、女そのものの――
顔を上げ、先生を見詰めた。
彼の眼差しは不安げに揺れている。
この人はなぜか時々、不安そうな目で私を見る。自信なさげに、睫毛を伏せてしまうことも。
どうしてだろう。どうしてこの人は、こんなに内気になってしまうのだろう。
クロッキー帳を閉じると、私は大切に胸に抱いた。
それは精一杯の答えだった。言葉にしても、この人はきっと信じない。
先生は弾かれたように上体を起こし、何かから解放されたみたいに大きく息をついた。
「先生」
「びっくりするだろう、僕には」
俯く顔は寂しげで、疲れていた。
「こんなことは初めてで、どうにもコントロールが利かない。どうかしてるんだ、本当に。どうなっちまったのか、自分でも分からない。君のことばかり考えてる。特にその……抱いてからは」
「……」
何も返せない。私だって、同じようなものだから。
「無精髭を生やすなんて何年ぶりかな。画学生の頃は酷いもんだったけど……」
そんな先生も素敵ですと、言いたかった。だけど、何も言えなかった。
「僕は小さな男だ」
「そんな……」
「君が、あの松山という男と一緒に海に行くと聞いた時、めまいがしそうだった。猛烈な嫉妬に頭がくらくらして……あんなことは本当に初めてで……いくら君が彼とは友達だと言っても、行かせたくなかったよ」
自分の鈍感さに身が縮こまった。先生がそんなにも嫌がっていたなんて。
約束のキスを思い出す。どんな想いであのキスをくれたのか、やっと心から理解することができた。
この人は私を正直だと言ったが、それは違う。
松山さんに対してもそう。自分の感情を抑えることもせず、ありのままを話してしまう。甘ったれだからだ。その人のために我慢することができない。そんなのはちっとも誠実じゃない。
ただの無神経で、結局子どもなのだ。
「だけど、僕のために友達との約束を反故にするような君なら、がっかりしたと思う。ジレンマだよ」
「ごめんなさい……」
スカートの裾をいじりながら、謝罪した。何もかもを謝りたくて仕方なかった。
「僕がのめり込みすぎなんだ。歯止めが利かなくて、自分でも参ってしまうくらい」
私をまるごと包むように抱き寄せる。
「海に行ってる間も気が気じゃなかった。落ち着かなくて、昼も夜もアトリエに閉じこもって君を描いてた。君の身体や肌を思い出し、再現しようとしてね」
先生はテーブルの上のスケッチブックを取ると、広げて見せた。そこにはパレットのように赤系の色が並べられていた。
「君のばら色がどうしても作れなくて。しっかりと憶えているはずなのに、どうしても再現できないんだ」
親指の関節に付いた赤い絵の具を見つめながら、先生の胸にもたれる。
ドキドキと波打つ鼓動が聞こえる。
「堪らなくなって、思わず電話をかけた。君が出なくてよかった。もし出ていたら……どんな泣きごとを言ったかと思うと、恥ずかしいよ」
先生は私の顔を覗き込む。本当にもういいんだと、そんな穏やかな目で私を包んでいる。
「君を独占したい。僕の傍で、ずっと一緒に生きて欲しい。僕だけの君になって欲しい。もう、あんな思いはたくさんだ。僕の傍にいてくれ。薫……」
静かな口調に熱が帯びる。
クロッキー帳が膝の上から滑り落ち、足元に広がる。
素裸の私が広がる。
「はい」
ようやく応えられた私の唇を、彼は甘い蜜を吸うように、吸い尽すように夢中で貪った。
内気さと情熱が私を蕩かしていく。
「ベッドで……」
囁きとともに私の身体が運ばれる。
初めてよりももっと深く繋がる予感に、慄いた。
だけど、先生がじっと見ているのに気付いて、今度は混乱した。
彼は、クロッキー帳を広げながら私の反応を見ている。
一体どういうことなのか、私は混乱したままの頭で必死で考える。
彼がどうして、私の裸体を描いたのか。
それをなぜ今、見せたのか。
どう反応すれば正解なのか。
考えても無駄だった。
そもそも、どう反応すればいいのかなんて、そんな作為が通じる状況ではない。この人はそんなものを求めていない。直感だけど、きっと当たっている。
私からダイレクトな返答が欲しいのだ。
取り繕いようの無い、微塵の余裕も無い真剣な態度がそれを物語っていた。
(誠実に、応えなくちゃ)
私は先生の手からそっとクロッキー帳を取ると、膝の上に置いた。
あらためて、描画にゆっくりと目を這わせる。
顔、首筋から胸元、乳房、腰のくびれから太腿、ふくらはぎ、足先……ありとあらゆる部位。
クロスハッチの陰影が、体のふくらみを、まるで目の前にするかのように再現している。
先生は記憶だけを頼りに描いたのだ。
こんなにも私は見られていたのかと、今更ながらのぼせそうになる。初めての日、私は殆ど目を閉じて、されるに任せていた。彼の体など観察する余裕は無かった。
震える指先で、最後のページを捲った。
「あっ……」
そこには、微かに開いた口元だけが描かれていた。この輪郭は、間違いなく私の唇だ。
でも、自分では見た事のない形だと思う。私はあの時、こんな風にしていたのだろうか。ため息が聞こえてきそうな、女そのものの――
顔を上げ、先生を見詰めた。
彼の眼差しは不安げに揺れている。
この人はなぜか時々、不安そうな目で私を見る。自信なさげに、睫毛を伏せてしまうことも。
どうしてだろう。どうしてこの人は、こんなに内気になってしまうのだろう。
クロッキー帳を閉じると、私は大切に胸に抱いた。
それは精一杯の答えだった。言葉にしても、この人はきっと信じない。
先生は弾かれたように上体を起こし、何かから解放されたみたいに大きく息をついた。
「先生」
「びっくりするだろう、僕には」
俯く顔は寂しげで、疲れていた。
「こんなことは初めてで、どうにもコントロールが利かない。どうかしてるんだ、本当に。どうなっちまったのか、自分でも分からない。君のことばかり考えてる。特にその……抱いてからは」
「……」
何も返せない。私だって、同じようなものだから。
「無精髭を生やすなんて何年ぶりかな。画学生の頃は酷いもんだったけど……」
そんな先生も素敵ですと、言いたかった。だけど、何も言えなかった。
「僕は小さな男だ」
「そんな……」
「君が、あの松山という男と一緒に海に行くと聞いた時、めまいがしそうだった。猛烈な嫉妬に頭がくらくらして……あんなことは本当に初めてで……いくら君が彼とは友達だと言っても、行かせたくなかったよ」
自分の鈍感さに身が縮こまった。先生がそんなにも嫌がっていたなんて。
約束のキスを思い出す。どんな想いであのキスをくれたのか、やっと心から理解することができた。
この人は私を正直だと言ったが、それは違う。
松山さんに対してもそう。自分の感情を抑えることもせず、ありのままを話してしまう。甘ったれだからだ。その人のために我慢することができない。そんなのはちっとも誠実じゃない。
ただの無神経で、結局子どもなのだ。
「だけど、僕のために友達との約束を反故にするような君なら、がっかりしたと思う。ジレンマだよ」
「ごめんなさい……」
スカートの裾をいじりながら、謝罪した。何もかもを謝りたくて仕方なかった。
「僕がのめり込みすぎなんだ。歯止めが利かなくて、自分でも参ってしまうくらい」
私をまるごと包むように抱き寄せる。
「海に行ってる間も気が気じゃなかった。落ち着かなくて、昼も夜もアトリエに閉じこもって君を描いてた。君の身体や肌を思い出し、再現しようとしてね」
先生はテーブルの上のスケッチブックを取ると、広げて見せた。そこにはパレットのように赤系の色が並べられていた。
「君のばら色がどうしても作れなくて。しっかりと憶えているはずなのに、どうしても再現できないんだ」
親指の関節に付いた赤い絵の具を見つめながら、先生の胸にもたれる。
ドキドキと波打つ鼓動が聞こえる。
「堪らなくなって、思わず電話をかけた。君が出なくてよかった。もし出ていたら……どんな泣きごとを言ったかと思うと、恥ずかしいよ」
先生は私の顔を覗き込む。本当にもういいんだと、そんな穏やかな目で私を包んでいる。
「君を独占したい。僕の傍で、ずっと一緒に生きて欲しい。僕だけの君になって欲しい。もう、あんな思いはたくさんだ。僕の傍にいてくれ。薫……」
静かな口調に熱が帯びる。
クロッキー帳が膝の上から滑り落ち、足元に広がる。
素裸の私が広がる。
「はい」
ようやく応えられた私の唇を、彼は甘い蜜を吸うように、吸い尽すように夢中で貪った。
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「ベッドで……」
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初めてよりももっと深く繋がる予感に、慄いた。
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