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サルマン家のパーティー
私はあなたの部下ですか?
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結婚して、数か月が経った。季節は木枯らし吹く冬に入ったが、夫が結婚直後から半年不在していたのを除けば、夫婦生活は不在の期間よりも短い。
夫のアドルファスとは縁談がきっかけで結婚したが、以前からの知人でもあった。そのため、人柄を元から知っていた部分はあったけれども、結婚してみると別の一面が見えて来た。寝相と髪の寝ぐせがすさまじいところや、プライベートでは愛想笑いを見せないところ、女性の気持ちに少々鈍感なところ。
私たちに男女の愛めいたものが生まれているかはよくわからないけれども、共同生活をする上で互いへの気遣いは日々育っているような気はしている。夫は私が「早く帰ってきてください」と言ったのが功を奏したのか、以前よりも早い時間帯に帰宅するようになったし、私自身も夫が帰宅する前提でいるために家を居心地よく整えることに一層注意を払うようになった。
いまだに私たちは寝室を別にしているが、それもまたタイミングが合えば一緒になるだろうし、気分が盛り上がれば肉体的に繋がることもあり得ると思う。女側から誘うのは気恥ずかしいからしないけれども、いずれそういう場面もやってくるのかもしれない。そこはまあ、おいおいそうしていくということで。私たちには私たちのペースがあるのだから。
さて、はじまりは我が家の執事が進言によるものだった。彼は夫が出勤した後に「奥様、少しご相談が」とひそやかな口調で言い出すものだから、「なになに」と片耳を差し出す次第になったというわけだ。
「こちらのお宅では催し物の御予定はございませんか?」
「催し物……パーティーということ? 特に聞いていないけれど」
「いえ、そうではなく」
執事はいきなり無口になり、私の返答を待っている。いや、「当然わかっておりますよね」と言いたげな顔をしないで。
「ごめんなさい。ちょっと意図が掴めなかった」
「さようですか」
執事はにこりと笑んでいってしまったが、残された私には当然疑問だけが残された。そんなわけでもったいぶらないで教えてくれそうな人を探すことにした。
私たち夫婦は四階建てかつ小さな庭付きの一軒家に住んでいる。これは結婚を機に夫の実家から譲り受けたもので、元は貴族の別宅として利用されていたこともあり、それなりの大きさを誇る。もちろんそんな家を管理するにも使用人が必要になってくる。
我が家の場合は人数が少ない。洗濯と掃除はほとんど通いの使用人で済ませているし、御者はその都度、贔屓にしている人に頼んだり、辻馬車や乗り合い馬車を利用している。住み込みで働いているのは執事と家政婦とコックだけ。執事にしても家令と従僕の役割を兼ねているし、家政婦も侍女とメイド、コックは庭師も兼ねている。このような使用人構成は夫のような貴族出身の官吏ならばごく一般的な形態だと思う。
私が向かったのは半地下にある家政婦室。眼鏡をかけた年配の婦人がそろばん片手に家計簿をつけているのを見ながら、開いたドアをノックしてみせた。
「ごめんなさい、イザベル。ちょっと話したいことがあるの」
「構いませんが」
立ち上がった家政婦は「はあ」と肩を下ろすように息を吐いた。
「何か御用でございましょうか」
執事の言動のことを説明すると、「奥様はリチャードの発言がわからなくて困っていらっしゃるのですね」と念押しするように言われて「うん。そう」と家庭教師に怒鳴られた少女の気分で頷く。
彼女はてきぱきとした話し方もそのままに、
「旦那様から何もお聞きになっていらっしゃらないのですか?」
「何を?」
「リチャードとわたくし、昨夜のうちに旦那様から相談を受けましたの。月末に旦那様と奥様のそれぞれの御実家を招いてパーティーをなさりたいと」
初耳である。夫が帰ってきたらお話し合い案件だなと思いながら夜を待った。
その晩に限って夫は遅くに帰宅した。例の「ただいまのちゅう」をややおざなりに済ませてしまうと、「どういうことでしょう?」と問い詰める。
「また勝手にそんなことを約束なされたのですか? 決める前に一言相談してください!」
「約束はまだしていない。今日中には君にも話そうと思っていたよ。彼らには我が家でパーティーをすることが可能かどうか尋ねていただけだ。拗ねるなよ」
夫は執事に上着を渡しながらへりくつをこねている。
そうですか、と一旦は引いた。が、納得したわけではない。
「生活も落ち着いてきたし、互いの家に礼を兼ねたパーティーをしてもいいんじゃないかと思ってね。家のことをはじめ、いろいろと援助してもらっているから」
「アドルファス。ご存知だと思いますが、パーティーをするとなったら昼間に出勤されるあなたより、私の方が動かなくてはならないのですよ? 気を遣うことも多いですし……」
「なに、内輪での小さな集まりだよ。カジュアルにいけばいい。相談相手ならリチャードやイザベルがいる。ベテランだから君の相談には乗ってくれるはずだ」
「はい……」
夫はたいしたことのないように思っているだろうが、実際はとんでもない宿題を背負わされた。女主人役として人を招く立場になったことがない。今までは全部招かれる側。主催者の好意に甘えさせてもらっていたけれども、彼らのような細やかな気遣いは普段の私から無縁のもので困ってしまう。たとえ身内しかおらずとも、母や姉はそのあたりにはとても厳しい人だ。すべて完璧にこなしてみせなければ納得しない。
思わずため息が出てしまった。
「考えてみれば伯爵家の次男の家でも社交界に出るような方をお招きすることはありますよね。あなたの仕事の関係の方もそうですし」
「ないとは言わないよ。兄の家よりは少ないが。……お招きしてはどうだろう?」
一応、私に訊ねる形を取ったから折れることにした。私だってパーティーの趣旨は理解できている。やらないよりはやった方がいい。私の母をはじめ、互いの両親に散々気を揉ませているのは自覚している。仕方がありませんね、と承諾した。パーティーはもう三週間後に迫っている。
次の日の午前中に自室の本棚をひっくり返し、嫁入り道具のマナーブックを発掘した。娘時代に母から持たされたもので当時はそれなりに手に取っていたが最近は開くこともなく棚の奥に眠っていた。
「本を参考にすることはあっても実践はできないものでございます」
「う……」
本をめくる私に家政婦は落ち着き払って進言した。彼女の一言には長年の経験に裏打ちされた説得力がある。現に、マナーブックというものには「淑女として振る舞うための心構え」が書いてあるだけで「パーティーのホスト役がやらなければならないこと」は述べられていない。
そっと本を棚に戻した。
「そうね。まずは自分なりにやらなくてはならないことを整理してみる」
彼女も忙しいだろうに、私に付き合って書き物机に向かう私の脇に立ち、私の作る「パーティーに必要なことリスト」の作成に協力した。
「……招待客を選ぶこと。招待カードを送ること。当日の段取りに、料理に飲み物に、テーブルに飾る花。席順に食器に……」
「ドレスコードはいかがいたしますか?」
「忘れていた。招待カードであらかじめお知らせしておかないといけないのよね?」
「ええ。カードはとても大切なものです。お相手の名前に、日時と場所、ドレスコード……場合によっては貸馬車の利用や知人同士で乗り合わせて来ていただくことも指定しておく必要がございますわ」
彼女は何を遠回しに言っているのだろうと思ったけれど、何のことはなかった。単にうちが狭いから何台も馬車を止めておく余裕がないというだけだった。
「さらにはカードのレタリングやデザインは、送り主のセンスを問われます。失礼ながら奥様がお持ちのカードを拝見させていただいても?」
淑女のたしなみとして、急な誘いもできるように招待カードはいつでも手元に持っておくことになっている。以前から使っているカードを渡したところ、「独身用のものですから作り直さねばなりませんね」と言われた。滅多に使わないものだから気づかなかったが、旧姓のままだった。このまま送ってしまおうと思っていたぐらいだから危なかった。
「今回は人数も限られるから、手書きにする。何か適当なカードはストックしていない?」
「リチャードが持っておりますわ」
招待カードは数週間前に余裕を持って送るのが鉄則だ。できるだけ早く出した方がいいという彼女の助言ももっともなので、さっそく銀食器を磨いている執事へ話しかけに行く。
承諾した彼は自室の無骨な書き物机の引き出しから白紙の招待カードを持ち出し、十枚ほど渡した。
「このぐらいありましたら足りますでしょう」
「ありがとう」
彼は穏やかな声音で「なにかご指示はございますか?」と尋ねてくる。一瞬、意味を取り損ねて戸惑う。
「特に……ないけれど」
そう躊躇いながら答えたのがいけなかったのかもしれない。執事は含んだような笑みを浮かべる。
「さようでございますか」
それは私の知る限りはじめて見た笑い方で、私の何かが辛抱強かった彼の機嫌を損ねたのだと直感した。
「どうしたの、リチャード。いつものあなたらしくない」
「……」
執事は黙りこくった。
「奥様。わたくしは変わっておりません」
悲惨だった。以降のやりとりはぜんぶ間に透明な膜が張ったようによそよそしくなり、会話はしても用件だけ終わればまた仕事に戻ってしまう。親しみの欠片もなくなってしまった。
私はこの家の女主人で、彼はうちの執事。間に入って仕事をこなしていく形になった家政婦も気の毒だけれど、この状態はやっぱりよくない。
「相談があります。ちょっとこっちに来てください」
次の日の夜。
「ただいまのちゅう」をしようと伸ばした手をそのまま引っ張り、夫を自分の部屋に連れていく。
「どうした?」
後ろ手に扉を閉めた私の正面で、夫は不思議そうな声音を出した。
「……リチャードが」
「うん」
夫はおとなしく私の言うことを聞いていた。執事に冷たい態度を取られ、いろいろなことがやりにくいこと。私の何が彼を怒らせたのか、またその解決方法はあるのか。
「今回のことで気づかされました。半年以上もリチャードとやってきたのに、リチャード自身のことは何も知らなかったんです。彼は自分のことを全然話さない人だから。今、彼が何を思って私を拒絶しているのかまったく見当もつかなくて」
夫の沈黙は長かった。
「イザベルには心当たりを聞いてみた? あの二人は夫婦だろう」
「彼女もよくわからないと」
彼らは私たち夫婦が結婚する際に雇い入れることになった二人だった。決めたのは夫側の両親と夫だと聞いている。二人は以前に同じ屋敷で執事と女中をしていたが、結婚を機に新しい職場を探していたという。二人揃っての転職にはうちの募集はうってつけだった。
『私とリチャードは互いの老後を看合うために結婚しましたからね』
いつかイザベルがさっぱりとした口調で言いきっていたのを思い出した。互いに興味がないから、心当たりもわからない? ……そういうことはないよね?
「困ったね。彼は優秀な人だからそんな態度を表に出すとは思えなかったのだが」
「ええ、私もそう思っていました」
「何か事情があるのかもしれないね。彼も僕の方が言いやすいこともあるだろうし、後でさりげなく尋ねておこう」
「ありがとうございます」
夫が頼りになる言葉をくれたのでほっとした。だから気づかなかった。彼がはじめて入る私の部屋の内部に関心を持っていたことを。
「ところで……」
「はい?」
夫はおもむろに私の本棚へ足を向ける。あ、あ、そこには……!
彼はロマンス小説ばかり並んだ本棚を上から下まで眺める。そうして言った。ふうん、と。……その「ふうん」ってなに⁉
茫然としていた私だけれども、さすがに本の中身を見られて自分の性癖を夫に晒すという恥ずかしさにはいたたまれない。一冊手に取ってめくろうとする夫の手を押さえた。
「いいじゃないか、見ても。興味がある」
「だ、だめです……! こういうものは乙女の機密事項ですから、男性側は見て見ぬふりをしてください!」
「別に機密事項でも何でもないだろう。君が以前からこういう俗っぽい小説が好きなのは予想していたし、君からこういう小説の話を一方的に聞かされた覚えもある。どういうものだろうと思っていたんだよ」
彼は私を馬鹿にするでもなく、純粋な知的好奇心からそう言っているように見えた。
「おすすめはなに?」
迷った挙句、冒険を軸としたロマンス小説を二冊ほど差し出した。濃密な性描写はない分、男性でも読みやすいと思う。本を人にすすめるのは初めてではないが、いつになく選別は慎重になるし、どんな反応を示すのかが気になってわくわくもした。
「ありがとう。借りるよ。読み終わったら返しにいく」
「……心臓が止まるかと思いました」
まさかアドルファスに自分の本を貸し出すことになるとは。
彼は喉の奥で笑う。
「僕こそ帰宅直後に君の部屋に引っ張られるとは思わなかったよ。大胆だね」
執事の聞こえないところで話をするにはそうするしかなかったのだ。とはいえ、淑女らしくないのもたしか。さっと彼から視線を外す。
「問題解決のためには必要なことでした」
「そうだね。合理的な判断だった。不満を溜めて我慢できなくなるよりは、逐一報告してくれる方が僕の手間も省ける」
合理的。報告。手間。……私は、あなたの部下ですか?
残念な気持ちになって夫を眺める。やはり小説的なときめきとはほど遠い人だと思うが、歯が浮くような美辞麗句が出てくる方がおかしいので諦めることにした。
夫のアドルファスとは縁談がきっかけで結婚したが、以前からの知人でもあった。そのため、人柄を元から知っていた部分はあったけれども、結婚してみると別の一面が見えて来た。寝相と髪の寝ぐせがすさまじいところや、プライベートでは愛想笑いを見せないところ、女性の気持ちに少々鈍感なところ。
私たちに男女の愛めいたものが生まれているかはよくわからないけれども、共同生活をする上で互いへの気遣いは日々育っているような気はしている。夫は私が「早く帰ってきてください」と言ったのが功を奏したのか、以前よりも早い時間帯に帰宅するようになったし、私自身も夫が帰宅する前提でいるために家を居心地よく整えることに一層注意を払うようになった。
いまだに私たちは寝室を別にしているが、それもまたタイミングが合えば一緒になるだろうし、気分が盛り上がれば肉体的に繋がることもあり得ると思う。女側から誘うのは気恥ずかしいからしないけれども、いずれそういう場面もやってくるのかもしれない。そこはまあ、おいおいそうしていくということで。私たちには私たちのペースがあるのだから。
さて、はじまりは我が家の執事が進言によるものだった。彼は夫が出勤した後に「奥様、少しご相談が」とひそやかな口調で言い出すものだから、「なになに」と片耳を差し出す次第になったというわけだ。
「こちらのお宅では催し物の御予定はございませんか?」
「催し物……パーティーということ? 特に聞いていないけれど」
「いえ、そうではなく」
執事はいきなり無口になり、私の返答を待っている。いや、「当然わかっておりますよね」と言いたげな顔をしないで。
「ごめんなさい。ちょっと意図が掴めなかった」
「さようですか」
執事はにこりと笑んでいってしまったが、残された私には当然疑問だけが残された。そんなわけでもったいぶらないで教えてくれそうな人を探すことにした。
私たち夫婦は四階建てかつ小さな庭付きの一軒家に住んでいる。これは結婚を機に夫の実家から譲り受けたもので、元は貴族の別宅として利用されていたこともあり、それなりの大きさを誇る。もちろんそんな家を管理するにも使用人が必要になってくる。
我が家の場合は人数が少ない。洗濯と掃除はほとんど通いの使用人で済ませているし、御者はその都度、贔屓にしている人に頼んだり、辻馬車や乗り合い馬車を利用している。住み込みで働いているのは執事と家政婦とコックだけ。執事にしても家令と従僕の役割を兼ねているし、家政婦も侍女とメイド、コックは庭師も兼ねている。このような使用人構成は夫のような貴族出身の官吏ならばごく一般的な形態だと思う。
私が向かったのは半地下にある家政婦室。眼鏡をかけた年配の婦人がそろばん片手に家計簿をつけているのを見ながら、開いたドアをノックしてみせた。
「ごめんなさい、イザベル。ちょっと話したいことがあるの」
「構いませんが」
立ち上がった家政婦は「はあ」と肩を下ろすように息を吐いた。
「何か御用でございましょうか」
執事の言動のことを説明すると、「奥様はリチャードの発言がわからなくて困っていらっしゃるのですね」と念押しするように言われて「うん。そう」と家庭教師に怒鳴られた少女の気分で頷く。
彼女はてきぱきとした話し方もそのままに、
「旦那様から何もお聞きになっていらっしゃらないのですか?」
「何を?」
「リチャードとわたくし、昨夜のうちに旦那様から相談を受けましたの。月末に旦那様と奥様のそれぞれの御実家を招いてパーティーをなさりたいと」
初耳である。夫が帰ってきたらお話し合い案件だなと思いながら夜を待った。
その晩に限って夫は遅くに帰宅した。例の「ただいまのちゅう」をややおざなりに済ませてしまうと、「どういうことでしょう?」と問い詰める。
「また勝手にそんなことを約束なされたのですか? 決める前に一言相談してください!」
「約束はまだしていない。今日中には君にも話そうと思っていたよ。彼らには我が家でパーティーをすることが可能かどうか尋ねていただけだ。拗ねるなよ」
夫は執事に上着を渡しながらへりくつをこねている。
そうですか、と一旦は引いた。が、納得したわけではない。
「生活も落ち着いてきたし、互いの家に礼を兼ねたパーティーをしてもいいんじゃないかと思ってね。家のことをはじめ、いろいろと援助してもらっているから」
「アドルファス。ご存知だと思いますが、パーティーをするとなったら昼間に出勤されるあなたより、私の方が動かなくてはならないのですよ? 気を遣うことも多いですし……」
「なに、内輪での小さな集まりだよ。カジュアルにいけばいい。相談相手ならリチャードやイザベルがいる。ベテランだから君の相談には乗ってくれるはずだ」
「はい……」
夫はたいしたことのないように思っているだろうが、実際はとんでもない宿題を背負わされた。女主人役として人を招く立場になったことがない。今までは全部招かれる側。主催者の好意に甘えさせてもらっていたけれども、彼らのような細やかな気遣いは普段の私から無縁のもので困ってしまう。たとえ身内しかおらずとも、母や姉はそのあたりにはとても厳しい人だ。すべて完璧にこなしてみせなければ納得しない。
思わずため息が出てしまった。
「考えてみれば伯爵家の次男の家でも社交界に出るような方をお招きすることはありますよね。あなたの仕事の関係の方もそうですし」
「ないとは言わないよ。兄の家よりは少ないが。……お招きしてはどうだろう?」
一応、私に訊ねる形を取ったから折れることにした。私だってパーティーの趣旨は理解できている。やらないよりはやった方がいい。私の母をはじめ、互いの両親に散々気を揉ませているのは自覚している。仕方がありませんね、と承諾した。パーティーはもう三週間後に迫っている。
次の日の午前中に自室の本棚をひっくり返し、嫁入り道具のマナーブックを発掘した。娘時代に母から持たされたもので当時はそれなりに手に取っていたが最近は開くこともなく棚の奥に眠っていた。
「本を参考にすることはあっても実践はできないものでございます」
「う……」
本をめくる私に家政婦は落ち着き払って進言した。彼女の一言には長年の経験に裏打ちされた説得力がある。現に、マナーブックというものには「淑女として振る舞うための心構え」が書いてあるだけで「パーティーのホスト役がやらなければならないこと」は述べられていない。
そっと本を棚に戻した。
「そうね。まずは自分なりにやらなくてはならないことを整理してみる」
彼女も忙しいだろうに、私に付き合って書き物机に向かう私の脇に立ち、私の作る「パーティーに必要なことリスト」の作成に協力した。
「……招待客を選ぶこと。招待カードを送ること。当日の段取りに、料理に飲み物に、テーブルに飾る花。席順に食器に……」
「ドレスコードはいかがいたしますか?」
「忘れていた。招待カードであらかじめお知らせしておかないといけないのよね?」
「ええ。カードはとても大切なものです。お相手の名前に、日時と場所、ドレスコード……場合によっては貸馬車の利用や知人同士で乗り合わせて来ていただくことも指定しておく必要がございますわ」
彼女は何を遠回しに言っているのだろうと思ったけれど、何のことはなかった。単にうちが狭いから何台も馬車を止めておく余裕がないというだけだった。
「さらにはカードのレタリングやデザインは、送り主のセンスを問われます。失礼ながら奥様がお持ちのカードを拝見させていただいても?」
淑女のたしなみとして、急な誘いもできるように招待カードはいつでも手元に持っておくことになっている。以前から使っているカードを渡したところ、「独身用のものですから作り直さねばなりませんね」と言われた。滅多に使わないものだから気づかなかったが、旧姓のままだった。このまま送ってしまおうと思っていたぐらいだから危なかった。
「今回は人数も限られるから、手書きにする。何か適当なカードはストックしていない?」
「リチャードが持っておりますわ」
招待カードは数週間前に余裕を持って送るのが鉄則だ。できるだけ早く出した方がいいという彼女の助言ももっともなので、さっそく銀食器を磨いている執事へ話しかけに行く。
承諾した彼は自室の無骨な書き物机の引き出しから白紙の招待カードを持ち出し、十枚ほど渡した。
「このぐらいありましたら足りますでしょう」
「ありがとう」
彼は穏やかな声音で「なにかご指示はございますか?」と尋ねてくる。一瞬、意味を取り損ねて戸惑う。
「特に……ないけれど」
そう躊躇いながら答えたのがいけなかったのかもしれない。執事は含んだような笑みを浮かべる。
「さようでございますか」
それは私の知る限りはじめて見た笑い方で、私の何かが辛抱強かった彼の機嫌を損ねたのだと直感した。
「どうしたの、リチャード。いつものあなたらしくない」
「……」
執事は黙りこくった。
「奥様。わたくしは変わっておりません」
悲惨だった。以降のやりとりはぜんぶ間に透明な膜が張ったようによそよそしくなり、会話はしても用件だけ終わればまた仕事に戻ってしまう。親しみの欠片もなくなってしまった。
私はこの家の女主人で、彼はうちの執事。間に入って仕事をこなしていく形になった家政婦も気の毒だけれど、この状態はやっぱりよくない。
「相談があります。ちょっとこっちに来てください」
次の日の夜。
「ただいまのちゅう」をしようと伸ばした手をそのまま引っ張り、夫を自分の部屋に連れていく。
「どうした?」
後ろ手に扉を閉めた私の正面で、夫は不思議そうな声音を出した。
「……リチャードが」
「うん」
夫はおとなしく私の言うことを聞いていた。執事に冷たい態度を取られ、いろいろなことがやりにくいこと。私の何が彼を怒らせたのか、またその解決方法はあるのか。
「今回のことで気づかされました。半年以上もリチャードとやってきたのに、リチャード自身のことは何も知らなかったんです。彼は自分のことを全然話さない人だから。今、彼が何を思って私を拒絶しているのかまったく見当もつかなくて」
夫の沈黙は長かった。
「イザベルには心当たりを聞いてみた? あの二人は夫婦だろう」
「彼女もよくわからないと」
彼らは私たち夫婦が結婚する際に雇い入れることになった二人だった。決めたのは夫側の両親と夫だと聞いている。二人は以前に同じ屋敷で執事と女中をしていたが、結婚を機に新しい職場を探していたという。二人揃っての転職にはうちの募集はうってつけだった。
『私とリチャードは互いの老後を看合うために結婚しましたからね』
いつかイザベルがさっぱりとした口調で言いきっていたのを思い出した。互いに興味がないから、心当たりもわからない? ……そういうことはないよね?
「困ったね。彼は優秀な人だからそんな態度を表に出すとは思えなかったのだが」
「ええ、私もそう思っていました」
「何か事情があるのかもしれないね。彼も僕の方が言いやすいこともあるだろうし、後でさりげなく尋ねておこう」
「ありがとうございます」
夫が頼りになる言葉をくれたのでほっとした。だから気づかなかった。彼がはじめて入る私の部屋の内部に関心を持っていたことを。
「ところで……」
「はい?」
夫はおもむろに私の本棚へ足を向ける。あ、あ、そこには……!
彼はロマンス小説ばかり並んだ本棚を上から下まで眺める。そうして言った。ふうん、と。……その「ふうん」ってなに⁉
茫然としていた私だけれども、さすがに本の中身を見られて自分の性癖を夫に晒すという恥ずかしさにはいたたまれない。一冊手に取ってめくろうとする夫の手を押さえた。
「いいじゃないか、見ても。興味がある」
「だ、だめです……! こういうものは乙女の機密事項ですから、男性側は見て見ぬふりをしてください!」
「別に機密事項でも何でもないだろう。君が以前からこういう俗っぽい小説が好きなのは予想していたし、君からこういう小説の話を一方的に聞かされた覚えもある。どういうものだろうと思っていたんだよ」
彼は私を馬鹿にするでもなく、純粋な知的好奇心からそう言っているように見えた。
「おすすめはなに?」
迷った挙句、冒険を軸としたロマンス小説を二冊ほど差し出した。濃密な性描写はない分、男性でも読みやすいと思う。本を人にすすめるのは初めてではないが、いつになく選別は慎重になるし、どんな反応を示すのかが気になってわくわくもした。
「ありがとう。借りるよ。読み終わったら返しにいく」
「……心臓が止まるかと思いました」
まさかアドルファスに自分の本を貸し出すことになるとは。
彼は喉の奥で笑う。
「僕こそ帰宅直後に君の部屋に引っ張られるとは思わなかったよ。大胆だね」
執事の聞こえないところで話をするにはそうするしかなかったのだ。とはいえ、淑女らしくないのもたしか。さっと彼から視線を外す。
「問題解決のためには必要なことでした」
「そうだね。合理的な判断だった。不満を溜めて我慢できなくなるよりは、逐一報告してくれる方が僕の手間も省ける」
合理的。報告。手間。……私は、あなたの部下ですか?
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