恋をし恋ひば~今更な新婚生活の顛末記~

川上桃園

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昔、好きだった人

仲直りの……

 姉の夫である義兄が姉を迎えに来ると、狙いすましたように夫もやってきた。

「お義姉さんとよく話せた?」
「ええ、まあ。姉がいて助かりました。ここには知人が少なかったので。あなたの方はいかがですか」
「ぼちぼちだよ。久しぶりに会った友人とも話せたし、新しい知人もできたから収穫はあった。興味深い話もできたよ。最近流行っている投資や事業家の話とかね。今は好景気だからみんな顔色がいい」
「へえ」

 お金の話はよくわからないけれども、夫の顔が心なしかつやつやしているから楽しかったのは伝わった。

「あとはブレトン子爵夫妻にご挨拶だけして帰ろう」
「わかりました」

 帰りの挨拶も済ませ、夫妻に手配してもらった貸馬車を屋敷前の馬車止まりの下で待っていた。同じように馬車を待っている夫婦が三組いたが、先に馬車に乗り込んでいったので、最後に二人で残された。

「……少し遅れているようですね」
「そういうこともあるよ。しばらく待とう」

 彼は車止まりから見える広大な芝生の敷地を眺めながら何気ない調子で話を切り出してきた。

「僕が思うに、マシュー・カーランドに近づくのは君にとってよくないことだと思う。今の彼の評判はよくないから、近づけただけで君の損になる」
「御覧になっていたのですか?」
「僕だってさすがに妻を放り出したままにはしておかないよ。君のところに戻ろうとしたら、君の傍にマシュー・カーランドがいた」
「ああ、そうですか」
「君は昔、彼が好きだっただろう?」
「え?」

 なぜそれを。
 彼は芝生を眺めたままで感情はうかがえない。

「僕とはじめて会った頃のマティルダは彼をとても熱心に見ていたからね。彼に夢中だった令嬢はたくさんいたから、君の淡い恋心はそのうち木っ端微塵に砕け散るんだろうなと内心で思っていたよ。君は基本顔に出やすいから、その次の相手も、次の次の相手もだいたいすぐにわかった」
「よ、よく覚えていますね……」

 穴があったら入りたいとはこのことだ。夫に今までの恋愛戦歴(しかも連敗ばかりの)を丸裸にされて気まずく思わない妻なんていない。

「自分でも不思議だが、君に関してはこういう変なところばかり覚えているよ。君はいつも釣り合いの悪い相手ばかりを好きになる」
「……いいではありませんか。だって本当に素敵に見えたんです」

 カーランド子爵は社交界に出た私には高嶺の花で、私の青春時代を象徴するような人だった。純粋な乙女だった私がはじめて憧れて好きになってしまった。

「ただ、前とは感じ方が変わりました。私自身が結婚したからもあるでしょうけれど、あの方自身も変わってしまったようです」

 曰く言い難いけれど、子爵の態度に「欲」が垣間見えた。以前、夫の長期の不在で不倫と浮気の誘いを遠回しにされた時、男たちの顔にそれが出ていた。私を都合よく弄ぼうとする自分勝手さを思えば今でも腹が立つ。使い捨ての玩具にされるのはごめんだ。

「悪人でも時には改心することはありますが、逆もまたあるんですね。どんなに良い人でもずっと良い人のままだとは限りません。時が経って、環境が変われば人も変わってしまう……」

 美形の子爵と美人伯爵令嬢のカップルはお似合いだと社交界では噂になったし、私も悔しいが釣り合いも取れているから納得した。だが、その後にこうなるなんてだれも思わない。

「僕からしたら不思議なことでもないよ。金で繋がった結婚だから、金が無くなれば破綻するのは当然だろう。おおかた、妻の実家からの援助を期待していたのだろうが、思うように行かなかった。そうなれば金で買った妻はいらない」
「それでは奥様が気の毒です」

 どんなに悲しんでいるだろうと思うと胸が痛む。彼女の悲しみは他人事(ひとごと)とは思わない。私とアドルファスの関係は道半ばで、まだはっきりとした形を持っていないからどんな可能性だってあり得るだろう。

「男を見る目がなかったんだ。仕方がない。結婚を持ちかけたのも伯爵家の方なのだから」
「だから気の毒なんですよ。好きな人に裏切られたのだから。あそこの奥様は子爵を好きで、両親に無理を言って結婚したんだと聞いていたから」

 当時は金目当ての結婚よりも、片思いを成就させた末の結婚ということで世間にも騒がれたのだ。

「世の中はうまくいかないものですね」

 やがて最後の馬車がやってきた。二人で向かい合わせに乗り込んだ時、「少し待ってもらえないか!」と外から声がかかる。締めかかった扉が開いて、馬車の中を男が覗き込む。私を見つけると白い歯を見せてにこりと笑ってみせた。

「申し訳ありませんが、馬車が捕まらなくて困っていたのです。市街地まで乗せていただいても?」

 私は困惑してしまって、夫を窺った。
 馬車に新たに乗り込もうとしてきたのはマシュー・カーランド子爵。さきほどまで話していた相手が急に現れてしまうとは思いも寄らなかった。
 夫は落ち着き払った様子で御者に告げた。

「早く出発してもらえないだろうか?」

 子爵の後方で御者が指示待ち顔で頭を掻いていたのだが、夫が続いて「そこの方は馬車を使われないから。あとは頼む」と言うと御者席に戻ったようだ。

「次の馬車を待っていてください。この馬車は私たち夫婦が呼んだものですから。……僕の妻が困っている」

 夫は子爵をむりやり押し出して、ぱたんと扉を閉めた。肩を竦める子爵を一人残して馬車は走り始める。

「アドルファス」
「ん?」

 アドルファスは馬車の窓枠に肘をついた状態で私に焦げ茶色の目を向ける。

「ありがとうございます」
「うん」

 やや間があって、彼はかすれかけの声で囁いた。

「あれでよかったのだろう?」
「はい。助かりました」

 夫は理解しがたいような顔のまま腕を組んだ。

「……女という生き物がわからないよ。君は子爵が好きだったのに、今はその妻の方に同情して、昔のことを忘れたように平然としている」
「昔のことなんて。いわゆる片思いだけで終わったことですし、今は同じ妻という立場にありますから奥様に肩入れしてしまうだけです。子爵も私のことを覚えていませんでしたし。でも……残念ではありますね。好きだった人だから、今も素敵な人でいてほしかったです」
「今は好きではないと?」
「当たり前ですよ。私は貞淑な妻を心がけておりますので。あなたに浮気をしないでと言っている口で他の男性を近づけるわけがありません」
「ふうん。君もわかっているんだね」
「当然です。あなたは私が浮気すると思われていたのですか?」
「まさか。話しているのを見ても、マティルダは乗り気でなかっただろう? そのあたりは……まあ、信用しているよ」

 信用。嬉しい言葉に私は笑みを隠しきれなかった。とてもいいことを聞いてしまった。普段、あまり言いそうにないこの人から「信用している」という発言を引き出せたのは大いなる進歩である。

「でしょう? 信用してください」
「ところで、マティルダ。君は?」
「はい?」
「僕を信用しているか?」

 にわかに緊張した。この質問には慎重に応えなければいけないと察したのだ。

「僕ばかりが信用しているのは不公平だ。君も相応の努力をするべきだ。お互いのために」

 夫の真剣な目を受けながら、頷いた。

「もちろん努力しています。だって夫婦になったのですから、お互いのために心を砕かなければいけません。……私は、アドルファスと平等な立場でいたい。いてもいなくてもいい相手や下に見る相手として考えられるのは嫌です。ましてや……子どもを産むための道具みたいに、一方的に決められるのはもっと嫌です」

 この人は理解してくれるだろうか。彼が勝手に「子作り」を言い渡した時、多少なりとも気持ちに寄り添ってくれているようだった夫に突然、突き放されたような気がして傷ついた。
 世間では妻は夫にただ従っていればいい、家庭で道徳的な母であれ、と不文律のように教えられているけれど、小さな頃からおかしいなと思っていた。従っているだけでいいなら使用人を雇えばよいのだから。おそらく私の考え方は異端で、同調してくれる人は少ない。けれどこの数か月で夫と暮らしているうちに、彼ならば私を理解してくれるのではないかと希望を抱いていた。夫は私の本心を打ち明けても馬鹿にしないで受け入れてくれる?

「あぁ、そういうこと」

 アドルファスはしばらく逡巡する素振りを見せ、話しかけたそうに唇がわずかに開いては閉じるという動作を二度、三度と繰り返してからやっとのことで、

「マティルダ。僕は焦っていたんだよ」

 夫は言葉を選びながらもこんな話をしてくれた。

「世の中には僕たちのように縁談で結婚した夫婦もたくさんいるだろう。恋愛結婚よりも多い。結婚してからというもの、そういう夫婦の話を聞くようになった。聞く限り、僕たちのような形を取っている夫婦はいなかったよ。彼らは普通に初めて会ったばかりでも初夜を迎え、ごく普通の新婚生活を営み始める。半年間家を空けてから生活を始めた僕たちは明らかに異常な進み方をしているだろう? 順序がまるで違っている。だからこれでいいのかと、迷った」
「そうでしたか……」

 世間の風など感じたことのないような夫から告白された悩みは思いがけないものだった。今の形を暗黙のうちに主導していたのは彼の方であったし、「ただいまのちゅう」を始めたのも彼だったから、それで彼が満足していると思い込んでいた。

「意外でした」
「僕だってそう思う。こんな悩みを持つのは人生で初めてだよ。君がいると今までのペースが狂わされる。これまでやったことのないことを強いられているよ」
「それは私だって同じですよ。毎日毎日、仕事に出かけられて、夜になる頃には時計ばかり気にしてしまいます。さ、さみしいな、とか、思ってしまっているんですよ⁉ それなのにあなたは毎日毎日、同じような時間に帰ってきては平然な顔でキスを強要してきて! そのぐらい思ってもらわなきゃ困ります!」
「そうか」

 彼は喉の奥で笑った。

「話すだけで楽になったよ。考えてみれば夫婦の形はそれぞれ違うんだからこれが僕たちのペースでいいのかもしれない」
「そうですよ。別に世間様に合わせる必要なんてどこにあるのですか。これが私たちの形だと胸を張っていればいいんです」

 私はちょっと拗ねたい気持ちになりながら言った。違いないね、と彼は笑みを絶やさない。愛想混じりでない、素の笑い方だった。

「さて、だ。仲直りができそうなんだけれども、どうする?」
「どうする、とは?」
「仲直りの印で、キスでもする? 『仲直りのちゅう』で」

 顔の筋肉が引きつったのがわかった。とんだ飛び道具に慄く私に、彼は正面から身体を寄せてくる。

「……ちなみに部位をお伺いしても?」
「とっておきなんだから唇に決まっているだろう。君は慣れているのだから何も問題はないはずだ」

 いえ、「慣れている」というのが誤解です。
 一難去ってまた一難。一方的な子作りコースから逃れられたものの、『仲直りのちゅう』という難題がふってきた。
 くそう、女は度胸だ。

「わかりました。いつでもどうぞ」

 覚悟を決めてぎゅっと目を瞑った。どんとこい。

「いい返事だね。今のは……少しそそられた」

 かすれた声が近づいてくる。夫の呼気を感じた。自分の心臓がどっくんどっくん早鐘を打ち始める。実際、している最中は何とも思わないのに、その直前が一番緊張するし、恥ずかしい。もういいから早くしてほしい。
 いよいよ唇と唇が合わさろうとした時。ふいに馬車がごっとん、と揺れた。

「おっと!」

 馬車で中腰になっていたらしい彼が私の方へ倒れ込んだ。目を開けると、ほとんど夫に抱きしめられる形になっている。

「旦那様、道路に少し大きな石があったようで車輪が乗りあがってしまったようでして……」

 開いた扉から顔を出した懐かしき我が家の執事が「お邪魔しました」とそのまま扉を閉めた。
 気づかないうちに家に到着していたことに愕然とする。夫は私の肩口に顔を沈めたまま笑い出す。

「狙いすましたようなものすごいタイミングだ。ふっ、ふふふ」
「アドルファス。私たち、完全に誤解されていますよ。あぁ、もう……!」
「あながち誤解じゃないし、彼だって心得ているよ。……続きをする?」
「いえ。今のことで覚悟の壁がぼろぼろに崩れ落ちました」
「そうか」

 彼は身体を起こし、馬車を降りた。
 私も降りたところで気が付いた。玄関先の照明がすでに灯っている。外は夕暮れが押し迫っていた。オレンジ色の空に鱗の形をした雲が点々とある。東側はもうすでに群青色だ。なんだか、とてもきれいで、隣の夫に「空がきれいですね」というと「たしかに」と答えが返ってきた。
 彼は空を見上げていて、私から見えるのは横顔だけ。最近見慣れてきた凡庸な普通の顔が、まるでスポットライトが当たったように眩しく輝いて見えた。

「あれ……?」

 瞬きをしたらあっという間に消えてしまったそれ。びっくりしたけれど、気のせいだと思い直す。

「冷えてきましたね。中に入りましょう」
「ああ。マティルダ、今日の夜はどうしようか。珍しく時間がありそうだが」
「そうですね……アドルファスはいつもどうしていますか?」
「本を読む、チェスをする、ワインを呑む……いろいろあるけれども特に決まっていないね」

 それを聞いて、いいアイディアを思いつく。

「そういえばリチャードが今年一番のいいワインを仕入れてきたそうですから、味見してみましょう。美味しかったら家に来るお客様に自信を持って振る舞えますし、お得です」
「じゃあ、厨房には簡単につまめるものを用意してもらおう。チーズやサラミ、クラッカー……」
「ハムも用意してもらいましょう。たしか食べかけのパウンドケーキも保存してあったはずですし、それも食べてしまいましょう」
「そうだな、全部まとめて図書室に運んでもらおう。あそこにはソファーもテーブルもある」
「今晩は夜更かしになりそうですね」
「疲れたらソファーで寝ればいいよ」
「アドルファスは起きたらまた床にいそうですね」
「違いない」

 バタン。玄関と外を繋ぐ樫の扉が後方で閉じた。今日の夜は長くなりそうだ。
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