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橋の上のふたり
アドルファスの忘れ物
しおりを挟む眠る前まではよかったのだ。
近ごろ、ロマンス小説に理解を示し始めたアドルファスが、私の読んだ小説の話を聞いてくれるようになったから。
その夜も、一人用がけのソファーで小難しい本をめくりつつ、私の話に耳を傾ける。
「君はよほど、その小説が好きなんだね。先週も、先々週も同じ小説の話をしていたよ」
やや呆れを含んだ視線が向けられる。だって、と私は小説の表紙を見せながら力説した。
「何度でも読み返したくなるんです。ヒロインの気分になって何度でも浸れるってすてきではありませんか。この本、一番のお気に入りなんです」
「毎回、同じ話に付き合わされる僕はとことん我慢強いと思うよ」
「でも、アドルファスもこれを読んでいたでしょう?」
アドルファスに貸した数冊の中にしっかりと入れたのを覚えている。ベッドサイドに置かれたそれが、栞が挟まれ、だんだんと後ろの頁に向かっていったのも知っている。彼はちゃんと熟読したのだ。
「いろんなすれ違いがあったカップルが、最後は黄昏時の石橋の上で再会するんです。そのシーンが素敵すぎるんです。やっと誤解がとけて、幸せになれるんだという確信に満ちていて……。そんな中、相手の男性から初めて「愛している」という言葉をもらうんです。本当にときめいてしまってしかたがないんですよ……!」
「なんだ、君も愛の言葉がほしいのか」
唇の形が皮肉さを帯びる。アドルファスは、あいかわらず斜に構えたような態度を取る。それでも私には構わなかった。彼がどう思おうと、私の憧れは色あせない。
「大丈夫ですよ、私、ちゃんとわかっていますから」
アドルファスは簡単に愛だのなんだのを口にしない。それでこそアドルファス。わが夫なのである。それなりに大事にしてくれているのはわかるので多くは求めまい。
すると、なぜだか夫は不機嫌そうに「フン」と鼻を鳴らす。
「マティルダ」
彼は読んでいた本を脇のテーブルに置き、座ったまま両腕を広げた。
なんとなくわかるその合図に、私はいまだにどきどきしてしまう。
彼の前まで来ると、アドルファスは私の手を引いて、自分の膝の上に座らせた。
「……重くないですか?」
照れ隠しに言うと、彼は「いや」と私の手を掴んだり、鼻を優しくつまんだりした。
「キスしたい」
「はい……」
目を閉じて、顔を少し寄せると、下から近づいてくる唇に陶然とした。
なんだって、アドルファスのキスは抗えないのだろう。普段は不愛想の塊のような人なのに、たまに砂糖菓子みたいに甘ったるくて困る。
そこから先は……なしくずしだ。詳細は控える。
ともかく、同じベッドで横になっていたのだが、夢見が最悪だった。
独身時代の夢である。何度も期待し、玉砕してきた数々の出逢いと別れを永遠と繰り返す夢だ。あの頃の苦い思い出がまざまざと蘇ってくる。
ああ、私は何度も、これぞと思った男性の婚約パーティーに出席していた。幸せなカップルを見せつけられ、そのたびに胸が締め付けられた。私は、いつも……いつまでもひとりだったから。
――本当に、いつかは、私も……ああなれる?
泣きたい気持ちになった夜もあったけれど、涙は出なかった。焦燥を理性で押さえつけていたし、気にしないようにしていた。
独身時代の、みじめな自分。自分が惨めだと自覚していたのがなおさら痛々しかった。
「ひどい夢……」
目を覚ましてから思わず呟く。なにげなく寝がえりを打った時、違和感に気付く。
隣で寝ていたアドルファスがいない。もしやと思い、床の上やベッドの下を見ても結果は同じだった。いくら寝相が悪くとも部屋の外まで転がっていくはずがない。
アドルファスと同じ時間に起き、彼が出勤するのを見送るのが私の日課だ。一緒に寝るようになって以来、こんなことは初めてだった。
「奥様、おはようございます」
いつもの起床の時間となり、家政婦がノックをしてから入ってきた。私はたまらず彼女に尋ねていた。
「イザベル。あの……アドルファスがいなくて」
「はい。今日はもうお出かけになりましたよ。何でもお仕事のご都合とかで。……もしや奥様、旦那様からは……?」
「何も聞いていないわ」
「まさか……」
「ええ、そのまさかなの……」
ため息を吐きだしながら答え、家政婦に手伝ってもらいながら身支度を整える。食堂に行くと、新しい執事がそそっかしくテーブルの上に飾ってあった花瓶の水をぶちまけたところだった。
「ジョン……」
「申し訳ありません……!」
イザベルが額に手を当てている。呆れているのだ。
最近、やっと新しい執事が決まったのだが、たまにこうしたささいな失敗をする。普段は落ち着き払った雰囲気の男なのだが、不意打ちに弱い。おおかた、掃除を入念にしていたところ、私たちが入ってきたものだから動揺したのだろう。こうした失敗を、古参のイザベルは出来の悪い弟に対するように接していた。
『慣れるうちに失敗も少なくなっていくでしょう……たぶん』とは採用を決めた彼女の評である。前任のリチャードのような慇懃・完璧・華麗の三拍子はそろわないけれども、成長を見込んでの採用である。ちなみに前職は軍人。怪我をして退役し、あちこちの屋敷を執事見習いとして渡り歩いてきたらしい。アドルファスは執事の採用を私とイザベルにすべて任せており、ジョンと面談した時も特に何も言わなかった。
ジョンはふきんでテーブルを拭き、花瓶を片付け、ついでに落ちていた塵を拾い、「あ、こんなところにカードが落ちていますね」などと言いながらすぐさまポケットにねじ込んだ。
「奥様、朝から失礼いたしました……」
「いえ、次からは気をつけて」
冷静になったジョンに椅子を引かれて、食堂の席についた。ひとりで朝食を摂る時間中も、胸がなんとなくもやもやとして、不在となった向かいの席をつい恨みがましく見てしまう。
アドルファスは、つい私に言い忘れただけだと自分に言い聞かせていた。
食後に新聞の記事をめくっていると、給仕を終えたジョンが「あの、奥様……」と遠慮がちに声をかけてきた。手には見覚えのある革の書類バッグ。
「こちら、書類が入っているようなのですが……もしかして、お忘れになられたのでしょうか……?」
「え……?」
執事に見せられたバッグを受け取り、バッグに入った茶封筒を少しだけ開けて、表題を見る。中身は機密かもしれないので詳しくは見なかったが、表題には今日の日付も書き加えられていた。会議の資料ではないだろうか。
「大事なものでしたら、わたくし、旦那様にお渡しして参りますが」
「そうね……。いえ、私が自分で持っていくわ」
もしかしたら不要なものかもしれないと思いつつ、そう言っていた。
今朝はまだ彼を見ていないからだろうか。少しでいいからアドルファスの顔を見たくなってしまった。君が見たのはただの夢だと断言してほしかった。
自室で帳簿をつけていたイザベルに、アドルファスの忘れ物の件を告げると、難しい顔になる。
「奥様のような女性はあまり一人で外出するのは感心しないものですよ。侍女かメイドのひとりは連れていくべきです」
「キャロルはお子さんに熱が出てお休みだし、イザベルも今日は人手が足りなくていそがしいでしょう? ジョンはまだこの辺りに慣れていないでしょうし。私が行くのが一番いいわ。今日は何の予定もいれていないもの」
キャロルは通いのメイドである。
「ですが、奥様……」
「たしかに貴族のマナーはあるけれど、私たちは爵位を持っていないのだから、もっと気楽でいいと思うのよ。もちろん、変なところには行かないし、危ないこともしないわ。身の回りには気を付けるから安心して」
奥様、とイザベルは嘆息する。
「もうすでに行くと決めている顔をなさっておられますよ。わたくしが止めても無駄なのでしょう? もう結構ですよ」
やや投げやりながらも承諾はもらえた。
例の書類バッグと日傘、自分用の小さなバッグを比較的動きやすいドレスに結わえ付けて外に出た。
天気は曇り。雨はなし。ややひんやりした午前の空気の中、てくてくと通りまで歩いて、辻馬車を捕まえた。行先は夫の職場である自治省だ。
しばらく馬車に揺られた後、官庁が立ち並ぶ中央街に入る。その中でもひときわいかめしげな灰色の建物の前で下ろされた。
アドルファスは、自治省で会計管理官という役職にいる。会計、と名がつくとおり、会計関係の仕事をしているのだろう。アドルファスとの縁談を持ってきた父は有望株だぞと鼻息荒く力説したが、私にはよくわからない。
開け放たれた鉄扉をくぐりぬけ、吹き抜けのエントランスに入る。正面にいた受付の男性が「自治省に御用ですか」と尋ねてきたので、どぎまぎとしながら、
「夫の……アドルファス・サルマンに渡したいものがあって参りました」
そう告げると、彼はしばらく待つように言い、受付の奥へ消えた。
ややあって、受付の青年が中年の男性を連れて戻ってきた。アドルファスの上司だと名乗った彼は、若いころはさぞや……な渋みのある美丈夫だった。
よろしければ、と来客用の応接室に案内される。
「サルマンの奥様。申し訳ありませんが、アドルファスはここにはいません」
「アドルファスが……?」
明らかに私が動揺したのを悟ったのか、いえいえ、と柔和な笑顔になる元美丈夫。
「今日は元々、会議で出張の予定でして。会議が終わったらそのまま直帰にすると聞いています」
会議の終了時刻を聞けば、いつもの帰宅時間より相当早い。……そんな話、聞いてない。
「ちなみに、彼に渡したいものとは……?」
「……書類です。家に置いてあって、もしかしたら忘れ物かと思って」
言いながら書類バッグを力いっぱい抱きしめた。
アドルファスの上司は優しげな眼をしながら提案した。
「よろしければ、会議の開催場所をお教えしましょうか。今から向かえばちょうど終わるころですので、彼と会えるでしょう」
「はい。ありがとうございます……」
男性は胸ポケットから手帳を出し、さらさらと万年筆で住所をメモした頁をやぶって渡す。
応接室からエントランスまで見送られながら、
「アドルファスはあなたと結婚して幸せだと思いますよ」
夫の上司はそんなことを言う。
「以前は頭の中が仕事のことしかなかったのに、ちゃんと人間らしくなったんですよ。これは、大いなる進歩ですよ」
「……はい」
ジョークかどうか、意味を取り損ねた。
「彼は、あなたのことを気にしていますよ。あなたが思うよりもずっと。大事な人ができるのはとても幸せなことで、とても人間的なんです。その変化が私にはとても好ましく映っています。きっと、あなたも素敵な女性なのでしょうね」
にこりとした男性に見送られて、自治省の建物を出た。自分のバッグから折り畳んだ紙を取り出し、住所を確認する。
大通りに出て、また辻馬車を捕まえた。御者に行先を告げる。ごとごとと、車輪が動き出す。
職場では逢えなかったけれど、次は大丈夫……。
アドルファスのバッグを抱きしめながら箱の中で丸まっていると、何の前触れもなく、馬車が止まった。すんません、と御者の野太い声が響く。
「この先でちょっとした事故があって、渋滞みたいですわ。ちょっと待ってくださいよ」
「わかりました……」
なかなか馬車は動きださなかった。十分、いや二十分ほど経ってから、「いやあ、お待たせしましたぁ」とあくびをかみ殺した御者の声とともに馬車はふたたび出発した。
会議はもう終わってしまっているかしら……。大きな不安を抱えながらも、目的地に到着する。
そこもまた自治省と同じように品位の高そうな建物だった。馬車を下り、エントランスに入ろうとした時、聞き覚えのある声が内部から響いた気がして、私は慌てて顔を背けて、扉の陰に入った。
数人の男性が一斉に出て来た。ハットにステッキを装備した知的そうな男性たちがにこやかに談笑しながら、扉前の階段を下りていく。会話の内容はよくわからないが、数字がたくさん出て来たので、小難しい話なのだろう。
その男性の中に、わが夫、アドルファスの姿もあった。私の知らないアドルファスの仕事の顔だった。歯切れのよい話し方、笑顔。凛々しい立ち居振る舞い。
――いつもはあまり気にしなかったけれど、外で見るアドルファスは魅力的だわ……。
中身はあれだとしても、外面で寄ってくる女性も多いだろう。その中には、若くて、きれいで、かわいくて、アドルファスのお眼鏡に叶う女性もいるかもしれない。
アドルファスの横顔を思わず盗み見してしまう自分がみっともなく、もう帰ろうかなと思った。けれど、通りで立ち止まっていた男性たちが、アドルファスの肩を次々と叩いていくのを見て、考えを変えた。
「今日は楽しいことがあるから早引けなのだろう、がんばりたまえ!」
「おすすめは百貨店だからな、忘れるなよ!」
大声でアドルファスを励ましている。
今日? 今日、アドルファスには「楽しい」用事があるのだ。一体、なんだろう……。
私の知らないところで、アドルファスが何かしようとしている。ただの女のカンだ。
男性の集団はそこで三々五々に散っていく。
ひとりになったアドルファスも、私に気付くことなく足早に歩いていく。そう、元々、アドルファスは早足で歩く。普段は私に合わせてくれるけれど、最初のころは私から訴えない限り気づかなかったぐらいだ。
私とアドルファスの距離はみるみる離れていき……。とうとう、とある角を曲がったところで人混みに紛れて、見えなくなった。辻馬車でも捕まえたのだろうか。
ここで私は帰ってもよかったのかもしれない。けれども、どうしてもアドルファスの用事が気になってしまう。だって、朝からおかしなことばかり続くものだから。
夫の行き先には、ヒントもあった。「百貨店」だ。有名百貨店はこの都市にはいくつかあるけれど、夫が行くなら……と推理する。
会議の建物から三本の大通りを越えた先にある百貨店「ミューディーズ」。女性向けの化粧品や装飾品の品揃えがよいことで有名な百貨店だ。あそこに行ってみよう。
これでもしもアドルファスを見つけられなかったとしても仕方がない。あそこの近くには女店主が経営する評判のコーヒーハウスがあるから、コーヒーを一杯飲んで帰ろうと決めた。
勇ましく歩き出したはいいものの、自分のしていることが正しくないのはわかっていたから、暗い気持ちになっていた。
やはり私はものわかりのよい妻にはなれそうもない。あいかわらずちょっとしたことですぐ心が揺らぐ。
アドルファスは夫だ。でも、仕事の顔はまるで別人みたいだったから……。
少女のようにむやみやたらに泣いてしまいそうな気持ちを抱えながら「ミューディーズ」に行く。
いつもなら、何を買おうかと心ときめく場所だったけれど、「ミューディーズ」前のおしゃれで洗練されたエントランスと、前に立つドアマンがまるで門番のように立ちはだかっているように思えた。
「マダム。よろしければ中へいかがでしょうか」
入口前でまごまごする私に、ドアマンが礼儀正しく声をかけるも、私はなぜか「いえ、やっぱりやめますわ」と断ってしまった。そしてすぐ後悔した。入っちゃえばよかったのに。
仕方がないのでとぼとぼとその足でコーヒーハウスに向かう。女主人にコーヒーとサンドイッチを注文し、窓際のテーブルでぼうっと外を眺めていた。
サンドイッチはしっかり食べた。こういうときにもお腹は空く。コーヒーは砂糖とミルクをたっぷり入れて、ゆっくり飲んだ。
しばらくして、ガラス張りの窓の外を、知った顔が通り過ぎていく。
「アドルファス……」
夫はさっと懐中時計で時間を確認し、前の通りを横切っていく。コーヒーハウスの正面には花屋があった。夫の背中が店に吸い込まれていく。
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