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橋の上のふたり
恋をし恋ひば
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夫はやがて大きな花束を持って出て来た。その時には、私も残ったコーヒーをすべて呑みほし、外に出ていた。
アドルファスはすぐに辻馬車を捕まえた。私もすぐ近くにいた辻馬車を捕まえる。
「あの、あそこの馬車を追ってください!」
「はあ? あんた、夫の浮気現場でも押さえようとしているのかね」
「わからないから行くんです!」
「お、おう……。まあ、金出してくれるなら構わねえけどよ……」
チップはたっぷり弾んだ。たまたま捕まえた御者は案外優秀らしく、夫の馬車に気付かれないぎりぎりの距離を保ちながら、後を追っていく。元々、都市の中は馬車が多く行き交っており、夫もさすがに気づかなかっただろう。
しかし、馬車はだんだんと郊外へ向かう。
「む……。すまねえ、奥さん。さすがにもう少し距離を取らないと気づかれる」
「わかりました」
そう言っているうちに、あるところで夫の馬車は見えなくなった。
「あっ、くそっ。たぶん気づかれたな。すまねえ、奥さん」
「そうですか……」
私も御者が怠慢をしたとは考えていなかった。家まで送ってもらおうと、行き先の変更を口にしかけた時。御者はいや、と首を振る。
「この俺を出し抜けるとは業腹だ。やってやる……! 捕まってな、奥さん!」
「へっ、いや、あの……? えぇ?」
猛スピードで走り出す馬車。安全運転はどこ行った。
「大丈夫だ、縄張りではないが、このへんは俺が生まれ育ったところだぁ。知り尽くしてる。追加運賃はいらねえ……負けん!」
何に勝つつもりですか、御者さん!?
馬車の窓にあったへりにしがみつき、時々浮く腰をさすりながら馬車は爆走する。
助けて、神様。
馬車が激しく揺れる。視界も揺れる。胃に入ったサンドイッチを戻すんじゃないかと思った。
だいぶ日が傾きかけてきた中、とある公園に差し掛かったところで、私は慌てて御者を止めた。
「止まって! 今、夫がいた気がするの!」
「よし、わかった!」
馬車が止まる。私は御者が扉を開けるのすら時間が惜しくて、自分で扉を開けて馬車を飛び降りた。
「連れてきてくれてありがとう! 今度会ったら贔屓にさせてもらうわ、あなた、御者の腕はいいと思う!」
「そりゃどうも!」
御者とはそこで別れた。公園の入り口前に立つ。
さっきは夫がこの入り口から入っていくのが見えた。仕事人間のアドルファスが、わざわざ何もないのに公園にいくのは考えにくい。きっと公園に用事があるのだ。たとえば、待ち合わせ、とか。ずん、と胃が重くなってきた。……うん、ここまで来てしまったのだから確かめよう。
川沿いにある公園は綺麗に芝生が刈りこまれ、まばらに木々が生い茂り、奥には石橋がある。人は時々見かける程度で、静かで落ち着いた公園だった。
少し古めかしく思える作りの石橋に近づくうち、アドルファスがそこにいることに気付いた。欄干から遠くの川の流れを見ているらしい。腕には、花屋で買った大きな花束。赤い花が一面に咲き乱れているのがわかる。
橋のたもとまで来て、彼の横顔を遠目で見る。日はますます傾き、空が金色に染まっていた。
心がふと、幻に囚われた。もしかしたら、今朝見た孤独な夢こそが現実で、今こうして結婚している現実こそが夢ではないかと。今、話しかけたら、彼は昔のような「サルマンさん」で、私に「マティルダ嬢」と呼び掛けてくるのではないか。二人は夫婦でも何でもなくて、ただの知人同士で……。
――そんなの、嫌だわ。
何も知らなかったころには戻れない。アドルファスと一緒になっていない未来なんて想像するのすら難しい。
――だって、アドルファスは、私の……。
「マティルダ」
突然、その声が鮮明に聞こえて、私は声の主を見る。
アドルファスが、こちらを見つめている。
「やっと来たのか、マティルダ。間に合ってよかった。来たくないかと思ってしまった」
「え……? どういう……?」
アドルファスがこちらに駆け寄ってきた。表情に乏しい彼だけれど、安心したように頬を緩めているのがわかる。
「招待カードを読んだんだろう? 今日の午後四時にこの公園へ、って」
「招待カード?」
「そう。食堂の、君の席に置いておいた。早引けするために早く出勤しなければならなかったからね」
「……え?」
ますますわけがわからない。
だが、今朝の出来事を思い出した。食堂で花瓶の水をひっくり返した執事のジョン。彼は片付けをしながら言わなかったか。「あ、こんなところにカードが落ちていますね」と。
まともに見ないで彼がポケットにしまったカード。もしかしてあれは、アドルファスから私への招待カードだったのでは?
私の反応にアドルファスがいぶかしげになる。
「マティルダ……もしかして読んでないのか?」
「ええ。おそらく……」
「だったらどうしてここに辿り着けたんだ?」
そう尋ねられると、答えに窮してしまう。あなたを尾行していたら辿り着きました、とはひどすぎる理由に違いない。
「ごめんなさい、アドルファス……。私、あなたが忘れ物をしたと思ったの」
大事に抱えて来た書類バッグを見せると、アドルファスが目を丸くする。
「ああ、たしかに忘れたが……。会議に使う資料だったんだが、幸いにも使わずに乗り越えられたんだ」
まあ、会議が終わった時点で不要になったものだと察していたのは理解できた。アドルファスの上司にもそれは十分承知していたのだろうが、私の顔色が悪いのを見て、アドルファスの居場所を教えてくれたのだ。
「そうか。わざわざ持ってきてくれたのか。ありがとう」
アドルファスにお礼を言われてしまって、なぜだか涙腺が緩くなってしまう。
「いえ、特に問題がなくてよかったです。私、てっきりあなたがだれかと約束をしていると思って……気になってしまってここまで……」
遠回しの言い方だったが、アドルファスには伝わったらしい。そうか、とため息交じりの返答がかえってくる。
「君と約束をしたつもりだったんだよ」
「はい……」
アドルファスは片手で後頭部をかきあげてから、片方には花束、もう片方に私の手を取って、橋の中央までやってきた。
おもむろに、アドルファスは花束を持ったまま、跪いた。花束が差し出される。
「急にどうしたんです?」
「……君が欲しいと言っていただろう。百本の薔薇がほしい、と」
仏頂面のままアドルファスは言う。
「今日は記念日だから」
「記念日、ですか? 結婚記念日はとうに過ぎましたが」
特に何もない結婚記念日だったから、そんなものかと思っていたけれど。
「違う。僕が外国から帰ってきて、君と夫婦をはじめた日が、ちょうど去年の今日だ。区切りにするにはそれが一番いいと思ったんだ」
正直、その日がいつだなんて考えてもみなかったから、驚いた。
「ほら、受け取ってくれ。……君が持つ書類カバンは僕が持つから」
書類カバンと薔薇の花束の交換。なんともしまらない感じになってしまったが、私は花束を受け取った。昔、サルマンさんに言った「百本の薔薇がほしい」という発言を律儀に覚えていたのだ。以前にも造花の花束をもらったけれど、本物の薔薇はまた格別で、かぐわしい香りが胸いっぱいに広がった。
「あと……そうだ、これも」
ごそごそと胸ポケットから小箱を取り出すアドルファス。有無を言わさない感じで左手の薬指にはめられたのは、小さなダイヤのついた指輪だ。
「よし、ちゃんとサイズが合ったな」
本人は満足げである。
「プレゼント……ですか?」
「当たり前だ。ほら、僕もつけたぞ。百貨店ではこれを買ったんだ」
ふたりでおそろいの指輪。な、なんなんだ、この流れ……。頭の中の理解が追い付かなかった。
「どうした、マティルダ。何か気に食わなかったか? ……いや、わかった。君が望んでいることはわかっている。日暮れ時の公園に、橋の上で向かい合うふたりときて、期待しないはずがない。……小説にあるような、愛の、告白だろう。ちょっと待て、今がんばるから」
何度か深呼吸をしたアドルファスは、私の目をまっすぐと見て、
「マティルダ。……僕は君を愛している」
そう一息に言い切った。
私は混乱した。あのアドルファスが、告白? 愛なんて軽々しく語れないといっていた彼が。私に。
「本当だ。本当に思えなくては、伝えられない。僕は君を愛しく思っている。どうしようもないくらいだ。だから、普段なら忘れ物などしないのに、今日に限ってはしてしまった。君に気持ちを伝えようと思って、緊張してしまったんだろう」
照れ隠しのように早口で言った彼が、じっと私を見下ろしている。
彼は私の答えを待っていた。赤く染まった空でもわかる血色のよい顔で。
アドルファスにとっても勇気のいることだったのだろうと思う。もしかして、初めて口にする気持ちだったのかもしれない。
――ああ、これが現実なのだ、私の。
もう私は、だれからも愛されずにふてくされていたころとは違う。アドルファスという伴侶を得て、別の私に生まれ変わった。もうあの日々に戻ることはけしてないのだ。
朝から抱えていた黒いものがすっと胸から消えていく。代わりに、ずっと押し殺してきた気持ちが溢れてくる。
「……好き」
ひとつ本音を口にしてしまえば簡単に心の堰が決壊した。
好きだから、愛しているからこそ、相手の言動に一喜一憂し、不安になるのだ。
「私、アドルファスのこと、好きだわ」
「好きなの、愛しているの」
「ねえ、アドルファス、どうしよう。どうしようもなく好きなの」
「好き。好き。好き……困ったわ、こんな予定じゃなかったの。ここまで好きになってしまうとは思っていなかったの」
「アドルファス、私はどうしたらいい? ……私、あなたを好きになってしまったわ」
「愛しているの、大事なの……どうしよう」
まるで子どもになってしまったかのようだ。
途中からは顔を見られない。彼の胸に顔をうずめ、漏れてしまった心を吐露し続ける。
「マティルダ」
顔をあげ、はい、と返事をする前にアドルファスの唇が私のそれを塞いだ。今までの中でも一番情熱的なキスだった。吐息同士が交わって、一緒に気持ちまで交換しているみたいだった。
アドルファスも、同じ気持ちだったのが伝わってくる。
――私、この人に愛されているんだわ。
「アドルファス……」
「ああ」
口づけが途切れた時に絶え絶えに名前を呼べば、返事をして、また唇が下りてくる。きつく抱きしめられて、何度も何度も口づけを交わした。
そうやって、日が完全に沈み、近くの街灯が点されるまで、ずっとそうしていたのだった。
家に帰ったら、すぐさま仁王立ちで待ち構えていたイザベルに捕まりそうになった。さすがにいつまで経っても帰ってこない私に、お小言を言うつもりだったのだと思う。
しかし、キスの嵐に参ってしまって、最後にはアドルファスに抱えられて帰宅した私に、家政婦は何も言えなかった。
アドルファスは時間も惜しいとばかりに早足でイザベルの横を通り過ぎる。
「イザベル。申し訳ないが、話があるなら後にしてくれ。僕とマティルダは寝室にこもるから。水と軽くつまめるものだけ部屋の前に置いておいてくれ。明日の昼まで起こさなくていい」
「は……?」
「察してくれ」
その意味するところに私は顔を覆ってしまった。
「アドルファス……」
「大丈夫だ、わかっている」
たぶん何もわかっていない。
その後、私は夫の宣言通りに寝室にこもることとなり、今までになく愛されていると言う実感を味合わされた。
結婚して変わったのは私だけでなく、アドルファスの方も同じだった。
ベッドの彼は私の髪に触れて、口づけを落としながら打ち明けた。
「まさか自分がここまで君を愛することになるとは、あのころには思っていなかったんだ」
「あのころって?」
「君が……『春の女神』だったころ。僕は、君が思うよりもずっと早く、君を知っていたから」
アドルファスがそう微笑んだから、私も顔から火が出る気持ちで、シーツに顔をうずめたのだった。
今では彼の言動すべてが蜂蜜のように甘く感じられている。
ちなみに。アドルファスが書いた私への招待カードは無事にジョンの手から返却された。私が出かけた後にゴミを捨てようとポケットをひっくり返した時に、カードに書かれた文面に気付いたらしい。顔面蒼白だったとイザベルから聞かされ、私は思わず吹き出してしまった。ジョンは気の毒なほどしおれていた。悪意があったわけでもないし、結果として悪いことにはならなかったため、私もアドルファスも彼を許すことにした。それから、時々、ポケットの中を真剣に見返すジョンの姿をたびたび目撃することになったのは、彼なりの教訓なのだろう。ジョンの失敗も少しずつ減ってきているところに成長を感じた。
例の招待カードは今も私の机の中に大切に保管し、時々、取り出しては眺める。そうして、アドルファスと結婚してよかった、と幸せを噛みしめる。
アドルファスでなかったら、こんなふうになっていなかったに違いない。私たちだからうまくいっているのだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
――そうして、今日も「ただいまのちゅう」をして、彼を出迎えるのだ。
アドルファスはすぐに辻馬車を捕まえた。私もすぐ近くにいた辻馬車を捕まえる。
「あの、あそこの馬車を追ってください!」
「はあ? あんた、夫の浮気現場でも押さえようとしているのかね」
「わからないから行くんです!」
「お、おう……。まあ、金出してくれるなら構わねえけどよ……」
チップはたっぷり弾んだ。たまたま捕まえた御者は案外優秀らしく、夫の馬車に気付かれないぎりぎりの距離を保ちながら、後を追っていく。元々、都市の中は馬車が多く行き交っており、夫もさすがに気づかなかっただろう。
しかし、馬車はだんだんと郊外へ向かう。
「む……。すまねえ、奥さん。さすがにもう少し距離を取らないと気づかれる」
「わかりました」
そう言っているうちに、あるところで夫の馬車は見えなくなった。
「あっ、くそっ。たぶん気づかれたな。すまねえ、奥さん」
「そうですか……」
私も御者が怠慢をしたとは考えていなかった。家まで送ってもらおうと、行き先の変更を口にしかけた時。御者はいや、と首を振る。
「この俺を出し抜けるとは業腹だ。やってやる……! 捕まってな、奥さん!」
「へっ、いや、あの……? えぇ?」
猛スピードで走り出す馬車。安全運転はどこ行った。
「大丈夫だ、縄張りではないが、このへんは俺が生まれ育ったところだぁ。知り尽くしてる。追加運賃はいらねえ……負けん!」
何に勝つつもりですか、御者さん!?
馬車の窓にあったへりにしがみつき、時々浮く腰をさすりながら馬車は爆走する。
助けて、神様。
馬車が激しく揺れる。視界も揺れる。胃に入ったサンドイッチを戻すんじゃないかと思った。
だいぶ日が傾きかけてきた中、とある公園に差し掛かったところで、私は慌てて御者を止めた。
「止まって! 今、夫がいた気がするの!」
「よし、わかった!」
馬車が止まる。私は御者が扉を開けるのすら時間が惜しくて、自分で扉を開けて馬車を飛び降りた。
「連れてきてくれてありがとう! 今度会ったら贔屓にさせてもらうわ、あなた、御者の腕はいいと思う!」
「そりゃどうも!」
御者とはそこで別れた。公園の入り口前に立つ。
さっきは夫がこの入り口から入っていくのが見えた。仕事人間のアドルファスが、わざわざ何もないのに公園にいくのは考えにくい。きっと公園に用事があるのだ。たとえば、待ち合わせ、とか。ずん、と胃が重くなってきた。……うん、ここまで来てしまったのだから確かめよう。
川沿いにある公園は綺麗に芝生が刈りこまれ、まばらに木々が生い茂り、奥には石橋がある。人は時々見かける程度で、静かで落ち着いた公園だった。
少し古めかしく思える作りの石橋に近づくうち、アドルファスがそこにいることに気付いた。欄干から遠くの川の流れを見ているらしい。腕には、花屋で買った大きな花束。赤い花が一面に咲き乱れているのがわかる。
橋のたもとまで来て、彼の横顔を遠目で見る。日はますます傾き、空が金色に染まっていた。
心がふと、幻に囚われた。もしかしたら、今朝見た孤独な夢こそが現実で、今こうして結婚している現実こそが夢ではないかと。今、話しかけたら、彼は昔のような「サルマンさん」で、私に「マティルダ嬢」と呼び掛けてくるのではないか。二人は夫婦でも何でもなくて、ただの知人同士で……。
――そんなの、嫌だわ。
何も知らなかったころには戻れない。アドルファスと一緒になっていない未来なんて想像するのすら難しい。
――だって、アドルファスは、私の……。
「マティルダ」
突然、その声が鮮明に聞こえて、私は声の主を見る。
アドルファスが、こちらを見つめている。
「やっと来たのか、マティルダ。間に合ってよかった。来たくないかと思ってしまった」
「え……? どういう……?」
アドルファスがこちらに駆け寄ってきた。表情に乏しい彼だけれど、安心したように頬を緩めているのがわかる。
「招待カードを読んだんだろう? 今日の午後四時にこの公園へ、って」
「招待カード?」
「そう。食堂の、君の席に置いておいた。早引けするために早く出勤しなければならなかったからね」
「……え?」
ますますわけがわからない。
だが、今朝の出来事を思い出した。食堂で花瓶の水をひっくり返した執事のジョン。彼は片付けをしながら言わなかったか。「あ、こんなところにカードが落ちていますね」と。
まともに見ないで彼がポケットにしまったカード。もしかしてあれは、アドルファスから私への招待カードだったのでは?
私の反応にアドルファスがいぶかしげになる。
「マティルダ……もしかして読んでないのか?」
「ええ。おそらく……」
「だったらどうしてここに辿り着けたんだ?」
そう尋ねられると、答えに窮してしまう。あなたを尾行していたら辿り着きました、とはひどすぎる理由に違いない。
「ごめんなさい、アドルファス……。私、あなたが忘れ物をしたと思ったの」
大事に抱えて来た書類バッグを見せると、アドルファスが目を丸くする。
「ああ、たしかに忘れたが……。会議に使う資料だったんだが、幸いにも使わずに乗り越えられたんだ」
まあ、会議が終わった時点で不要になったものだと察していたのは理解できた。アドルファスの上司にもそれは十分承知していたのだろうが、私の顔色が悪いのを見て、アドルファスの居場所を教えてくれたのだ。
「そうか。わざわざ持ってきてくれたのか。ありがとう」
アドルファスにお礼を言われてしまって、なぜだか涙腺が緩くなってしまう。
「いえ、特に問題がなくてよかったです。私、てっきりあなたがだれかと約束をしていると思って……気になってしまってここまで……」
遠回しの言い方だったが、アドルファスには伝わったらしい。そうか、とため息交じりの返答がかえってくる。
「君と約束をしたつもりだったんだよ」
「はい……」
アドルファスは片手で後頭部をかきあげてから、片方には花束、もう片方に私の手を取って、橋の中央までやってきた。
おもむろに、アドルファスは花束を持ったまま、跪いた。花束が差し出される。
「急にどうしたんです?」
「……君が欲しいと言っていただろう。百本の薔薇がほしい、と」
仏頂面のままアドルファスは言う。
「今日は記念日だから」
「記念日、ですか? 結婚記念日はとうに過ぎましたが」
特に何もない結婚記念日だったから、そんなものかと思っていたけれど。
「違う。僕が外国から帰ってきて、君と夫婦をはじめた日が、ちょうど去年の今日だ。区切りにするにはそれが一番いいと思ったんだ」
正直、その日がいつだなんて考えてもみなかったから、驚いた。
「ほら、受け取ってくれ。……君が持つ書類カバンは僕が持つから」
書類カバンと薔薇の花束の交換。なんともしまらない感じになってしまったが、私は花束を受け取った。昔、サルマンさんに言った「百本の薔薇がほしい」という発言を律儀に覚えていたのだ。以前にも造花の花束をもらったけれど、本物の薔薇はまた格別で、かぐわしい香りが胸いっぱいに広がった。
「あと……そうだ、これも」
ごそごそと胸ポケットから小箱を取り出すアドルファス。有無を言わさない感じで左手の薬指にはめられたのは、小さなダイヤのついた指輪だ。
「よし、ちゃんとサイズが合ったな」
本人は満足げである。
「プレゼント……ですか?」
「当たり前だ。ほら、僕もつけたぞ。百貨店ではこれを買ったんだ」
ふたりでおそろいの指輪。な、なんなんだ、この流れ……。頭の中の理解が追い付かなかった。
「どうした、マティルダ。何か気に食わなかったか? ……いや、わかった。君が望んでいることはわかっている。日暮れ時の公園に、橋の上で向かい合うふたりときて、期待しないはずがない。……小説にあるような、愛の、告白だろう。ちょっと待て、今がんばるから」
何度か深呼吸をしたアドルファスは、私の目をまっすぐと見て、
「マティルダ。……僕は君を愛している」
そう一息に言い切った。
私は混乱した。あのアドルファスが、告白? 愛なんて軽々しく語れないといっていた彼が。私に。
「本当だ。本当に思えなくては、伝えられない。僕は君を愛しく思っている。どうしようもないくらいだ。だから、普段なら忘れ物などしないのに、今日に限ってはしてしまった。君に気持ちを伝えようと思って、緊張してしまったんだろう」
照れ隠しのように早口で言った彼が、じっと私を見下ろしている。
彼は私の答えを待っていた。赤く染まった空でもわかる血色のよい顔で。
アドルファスにとっても勇気のいることだったのだろうと思う。もしかして、初めて口にする気持ちだったのかもしれない。
――ああ、これが現実なのだ、私の。
もう私は、だれからも愛されずにふてくされていたころとは違う。アドルファスという伴侶を得て、別の私に生まれ変わった。もうあの日々に戻ることはけしてないのだ。
朝から抱えていた黒いものがすっと胸から消えていく。代わりに、ずっと押し殺してきた気持ちが溢れてくる。
「……好き」
ひとつ本音を口にしてしまえば簡単に心の堰が決壊した。
好きだから、愛しているからこそ、相手の言動に一喜一憂し、不安になるのだ。
「私、アドルファスのこと、好きだわ」
「好きなの、愛しているの」
「ねえ、アドルファス、どうしよう。どうしようもなく好きなの」
「好き。好き。好き……困ったわ、こんな予定じゃなかったの。ここまで好きになってしまうとは思っていなかったの」
「アドルファス、私はどうしたらいい? ……私、あなたを好きになってしまったわ」
「愛しているの、大事なの……どうしよう」
まるで子どもになってしまったかのようだ。
途中からは顔を見られない。彼の胸に顔をうずめ、漏れてしまった心を吐露し続ける。
「マティルダ」
顔をあげ、はい、と返事をする前にアドルファスの唇が私のそれを塞いだ。今までの中でも一番情熱的なキスだった。吐息同士が交わって、一緒に気持ちまで交換しているみたいだった。
アドルファスも、同じ気持ちだったのが伝わってくる。
――私、この人に愛されているんだわ。
「アドルファス……」
「ああ」
口づけが途切れた時に絶え絶えに名前を呼べば、返事をして、また唇が下りてくる。きつく抱きしめられて、何度も何度も口づけを交わした。
そうやって、日が完全に沈み、近くの街灯が点されるまで、ずっとそうしていたのだった。
家に帰ったら、すぐさま仁王立ちで待ち構えていたイザベルに捕まりそうになった。さすがにいつまで経っても帰ってこない私に、お小言を言うつもりだったのだと思う。
しかし、キスの嵐に参ってしまって、最後にはアドルファスに抱えられて帰宅した私に、家政婦は何も言えなかった。
アドルファスは時間も惜しいとばかりに早足でイザベルの横を通り過ぎる。
「イザベル。申し訳ないが、話があるなら後にしてくれ。僕とマティルダは寝室にこもるから。水と軽くつまめるものだけ部屋の前に置いておいてくれ。明日の昼まで起こさなくていい」
「は……?」
「察してくれ」
その意味するところに私は顔を覆ってしまった。
「アドルファス……」
「大丈夫だ、わかっている」
たぶん何もわかっていない。
その後、私は夫の宣言通りに寝室にこもることとなり、今までになく愛されていると言う実感を味合わされた。
結婚して変わったのは私だけでなく、アドルファスの方も同じだった。
ベッドの彼は私の髪に触れて、口づけを落としながら打ち明けた。
「まさか自分がここまで君を愛することになるとは、あのころには思っていなかったんだ」
「あのころって?」
「君が……『春の女神』だったころ。僕は、君が思うよりもずっと早く、君を知っていたから」
アドルファスがそう微笑んだから、私も顔から火が出る気持ちで、シーツに顔をうずめたのだった。
今では彼の言動すべてが蜂蜜のように甘く感じられている。
ちなみに。アドルファスが書いた私への招待カードは無事にジョンの手から返却された。私が出かけた後にゴミを捨てようとポケットをひっくり返した時に、カードに書かれた文面に気付いたらしい。顔面蒼白だったとイザベルから聞かされ、私は思わず吹き出してしまった。ジョンは気の毒なほどしおれていた。悪意があったわけでもないし、結果として悪いことにはならなかったため、私もアドルファスも彼を許すことにした。それから、時々、ポケットの中を真剣に見返すジョンの姿をたびたび目撃することになったのは、彼なりの教訓なのだろう。ジョンの失敗も少しずつ減ってきているところに成長を感じた。
例の招待カードは今も私の机の中に大切に保管し、時々、取り出しては眺める。そうして、アドルファスと結婚してよかった、と幸せを噛みしめる。
アドルファスでなかったら、こんなふうになっていなかったに違いない。私たちだからうまくいっているのだ。
「ただいま」
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