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第一章
06 特別な友達
しおりを挟むそもそも、藍人は自分の運命が、こんな平凡な男オメガであることを分かっているのか。ただ、運命に出会えた衝撃で、我を忘れて暴走しているだけなんじゃないのか。
そう思うと、強張った唇から皮肉めいた言葉が零れ出ていた。
「というか、本当に俺が、自分の『運命』だなんて思ってるんですか?」
自嘲混じりの口調で訊ねた瞬間、淡く笑みを浮かべていた藍人の表情が一瞬で消えた。能面のような無表情になって、その肌もスゥッと透けるように白くなる。
直後、素早く路肩に寄った車が急ブレーキを踏んだ。その勢いで身体がつんのめるように前方へと跳ねる。だが同時に、シートに押さえ付けるように胸元に大きな掌が当てられた。
「ぅわっ……な、何……?」
突然の急ブレーキに、心臓がバクバクと跳ねていた。ビビりつつも視線を落とすと、藍人の片手が保の胸をしっかりと押さえているのが見える。
とっさにフロントミラーで後部座席に視線をやると、猿渡は藍人の行動を予期していたのか、両手でしっかりとドア上につけられたアシストグリップを握り締めていた。
「それ、本気で言ってる?」
不意に、鈍くうなるような声が響く。その声音が聞こえた瞬間、車内の温度が数度下がったような気がして、吐き出す息が小さく震えた。
藍人がうつむき加減だった顔を、ゆっくりと保へと向ける。前髪の隙間から、怒りで据わった眼差しがまっすぐ保を見つめていた。その視線に、ヒュッと咽喉が鳴る。
「だ、だって、俺は――」
恐怖のあまり、まるで言い訳する子供みたいな言葉が零れる。だが、保の声を遮って、藍人が淡々とした口調で話し始めた。
「芦名保。二十五歳。三月三日生まれ。新潟県出身。家族構成は、両親と四つ下の妹。映像系の専門学校を卒業後、新潟の地方局に就職。三ヶ月前に都内の局に転職して、今は一人暮らしをしている。好きな食べ物は唐揚げ。嫌いな食べ物は梅干し。結婚歴はなし。恋人もいない――あってる?」
事務的に語られる自身の個人情報を聞いて、細波のように鳥肌が広がっていく。
保は口を半開きにしたまま、藍人を見やった。
「な、なんで……」
「ツテがあれば、これぐらいはすぐに調べられるよ」
素っ気ない口調で、藍人が答える。
だが、そのツテというのは一体誰なのか。先ほどの番組が終わってから、藍人が保に話し掛けるまで三十分程度しか時間はなかったはずだ。それだけの時間で今の情報を調べ上げたのかと思うと、怖気が走った。
保が絶句していると、藍人は詰め寄るようにこちらの顔を覗き込んできた。至近距離で琥珀色の瞳に見据えられて、咽喉が引き攣る。
「恋人はいない。あってるよね?」
まるで脅すような口調で訊ねられる。逸らされない藍人の目に負けて、保は掠れた声で返した。
「い、ません」
「好きな人もいない?」
「いない、です」
保の返答を聞くと、藍人は、ふぅん、と小さく相づちを漏らした。最初から分かっていたと言わんばかりの憎たらしい反応だ。それから、続けざまに訊ねてくる。
「君は、本当に僕らが運命じゃないとでも思ってるのか?」
その問い掛けに、保はひくりと咽喉を上下させた。無意識に藍人から視線を逸らして、空笑い混じりの声をあげる。
「いや、だって、有り得ないじゃないですか。貴方みたいなイケメン俳優と、俺みたいな奴が運命なんて、不釣り合いにも程があ――」
程がある、と続けようとした瞬間、突然全身を真上から押さえ付けるような圧を感じて、声が出てこなくなった。まるで見えない重石が、背中にずっしりとのし掛かっているような感覚だ。
鼻腔に、藍人の濃いフェロモンの匂いが潜り込んでくる。その噎せ返るような匂いで、藍人のフェロモンに威圧されているのだと気付く。
「不釣り合い? 君は、僕らの運命を否定するのか?」
轟(とどろ)くような声が、受話器越しのように遠く耳に響く。
息苦しさに両手で咽喉を押さえようとしたとき、突然スパァンッと鋭い音が響き渡った。同時に、全身を押さえ込んでいたフェロモンがふっと霧散して、ようやく呼吸が戻ってくる。
は、は、と短く息を吸いつつ、視線をあげる。すると、右手を振り下ろした形のまま止まっている猿渡と、片手で痛そうに側頭部を押さえる藍人の姿が視界に映った。どうやら、猿渡が藍人の頭を、猿渡が思いっきり引っ叩いたらしい。
「落ち着いてください、清水さん。フェロモンで無理やりオメガを押さえ付けるなんて、最低最悪モラハラろくでもなしアルファのやることですよ」
結構容赦なく罵ってくる猿渡に、藍人がチラッと視線をあげる。その表情は、母親に叱られた子供みたいにバツが悪そうだった。
「……ごめん、猿渡さん」
「謝罪する相手は、私ではありませんよね?」
ピシャリと言われると、藍人は保を見やった。しょぼしょぼと萎(しお)れた表情のまま、頭を深く下げてくる。なんだか、悪さをした後に反省をしている大型犬みたいに見える。
「ごめんなさい、保さん」
「い、いえ……」
素直に謝られても先ほどの恐怖が消えず、保は藍人から遠ざかるように身体をドア側へと傾けた。保の反応を見て、藍人が寂しげに眉尻を下げる。
「本当に、すいません。僕は、ずっと運命を探していたから、保さんから拒絶されるのかと思ったら、どうしても耐えられなくて……」
ぽつぽつと吐き出すと、藍人はチラッと保を見上げた。
「保さんは、運命の番が僕なのが嫌?」
「嫌とか、そんなことはないですけど……」
「けど?」
続きを促すように反芻(はんすう)されて、保は言葉に詰まった。
藍人が嫌なわけじゃない。運命から強く求められて、魂は震えるくらい喜びを覚えている。だけど、一方で頭の奥は凍り付いたみたいに冷めていた。
今は、藍人は出会ったばかりの運命に熱を上げているかもしれない。だが、自分と相手が釣り合わないと気付いた瞬間に、きっとその熱は失われる。なんで、こんな奴が運命なのかと深く失望するに決まってる。そうなったときに、ズタズタに引き裂かれるのは保だ。
悲惨な未来を想像して、ごくりと咽喉が上下する。次の言葉を待つようにじっとこちらを凝視する藍人を見返して、保は唇を鈍く動かした。
「清水さんの人柄も知らないですし、出会ったばかりで婚約とかはちょっと考えられないです」
保が濁すように答えると、藍人はパチリと大きく瞬いた。そのまま、考え込むように人差し指の側面を下顎に当てて、緩く首を傾げる。
「それじゃあ、僕のことをよく知ったら、婚約してくれる可能性もあるってこと?」
「か、可能性は、ないとは言い切れないですが」
じりじりと顔を寄せてくる藍人から逃れるように、ドアに背中を押し付けながら答える。藍人はわずかに視線を伏せた後、ぽつりと訊ねてきた。
「じゃあ、まずは結婚前提の恋人から始めてくれますか?」
「『まず』の基準がおかしくないか?」
思わずツッコんでしまった。きょとんとした表情を浮かべる藍人を見て、保は言い聞かせるように言った。
「俺たちは今日初めて会いましたよね」
「うん、そうだね」
「初対面なのに、結婚前提の恋人から始まるのはおかしくないです?」
「特におかしいとは思わないけど」
ダメだ。価値観が違い過ぎる。絶対に結婚してから三年以内に離婚するやつだ。
だが、藍人を説得するだけの言葉も思い浮かばず、保は弱々しい声で続けた。
「まずは、仕事仲間から始めましょう」
「仕事仲間は、あまりにも距離が遠すぎるんじゃないかな?」
「……じゃあ、知り合いということで」
「知り合いって、もっと遠ざかった気がするんだけど」
「……友達、とか」
「特別な友達ならいいかな」
おい、なんでこっちが譲歩される側になっているんだ? いっそ赤の他人って言ってやってもいいんだぞ。
だが、そんなことを言ったら、また藍人を怒り狂わせる気がして、保はグッと言葉を堪えた。
「じゃあ、特別な友達で……」
しぶしぶ答えると、藍人は嬉しそうに微笑んだ。いつの間にシートベルトを外していたのか、そのままギュッと保の身体を抱き締めてくる。突然、長い両腕に抱き締められて、ひぐっ、と咽喉から妙な声が漏れて、全身が硬直した。
「ありがとう、保さん。貴方にとって良い運命であれるように努力するから」
良い運命というか、現時点で戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした運命になっている気がするのだが。
それでも、藍人の首筋からほのかに香ってくるフェロモンを嗅ぐと、胸の奥から途方もない幸福感が湧き上がってくるのを感じた。くにゃりと全身がとろけて、何も考えずこの腕の中に永遠に収まっていたいと願ってしまう。
だが、左口角にチュッと柔らかいものが触れる感触で、その安堵は一気に吹き飛んだ。
「ぅぼぁ!」
奇声をあげながら、とっさに藍人の胸元を強く押し返す。目をガン開きにして見やると、藍人は咽喉の奥で小さく笑い声を漏らしていた。
「うぼぁ、って……保さんって、たまに面白い声あげるよね」
あんたのせいで、そんな声をあげる羽目になってるんだろうが。と言い返したくなる。
保はわなわなと唇を震わせながら、か細い声を漏らした。
「と、もだちは、キスしないでしょう……」
「だから、唇にはキスしなかったでしょう?」
口角は、ほぼ唇みたいなものだろうが! そう叫びたいのに、動揺のあまり言葉が出てこない。
保が唖然としていると、ふと後部座席から冷めた声が聞こえてきた。
「そういったことは、二人きりのときにしていただけると助かります」
顔を向けると、思いっきり顔を顰めた猿渡が見えた。今のやり取りを見られていたことを今更ながらに理解して、身体の内側がカーッと熱くなる。
藍人は猿渡の言葉を気にする様子もなく、平然とした声を漏らした。
「あぁ、ごめんね。それから猿渡さん、保さんとの婚約は延期になったから、今日の会見は僕の引退だけに変更してくれる?」
「承知いたしました」
「それは、ちょっと待ったァアッ!!」
焦りのあまり、自分が思った以上にでかい声が出てしまった。驚いた藍人が、目を丸くしている。その顔を見つめたまま、保は引き攣った声を漏らした。
「本気で、俳優を辞める気ですか?」
「本気だけど」
「辞めてどうするんですか?」
「あぁ、安心して。今まで仕事してきた分はほとんど貯金してるし、それなりに投資にも回してるから、保さんに苦労させるつもりはないよ」
「いや、そういうことじゃなくて」
見当違いなことを言われて、冷汗が額にじわりと滲むのを感じる。
自分なんかのせいで、藍人に俳優を引退させてしまっていいのか。というか、業界的には藍人の引退は確実に損失だ。それにファンの阿鼻叫喚を想像するだけで、胃がキリキリと痛む。ついでに、先ほどの社長の断末魔を思い出すと、何が何でもここで引退を思い留まらせるべきだと思った。
片手で脇腹を押さえながら、保はわざとらしいぐらい明るい声で言った。
「俺は、仕事を頑張る人が好きだなぁ!」
そう言った瞬間、藍人の目がスッと細くなった。なんだか標的に狙いを定めるスナイパーみたいな眼差しだ。
「何事にも全力投球というか、投げ出さずに最後までやり遂げる人が好きなんですよね。一生懸命仕事に励む姿を見たら、好きになっちゃうかもなぁ」
棒読み気味につらつらと言葉を並べる。その直後、やや食い気味に藍人が声をあげた。
「猿渡さん」
「はい」
「引退会見も中止で」
「承知いたしました。すでに会場をキャンセルして、各社に会見中止を連絡しました」
猿渡の迅速すぎる対応を聞くと、藍人は小さく唇を吊り上げて「流石、有能マネージャー」と呟いた。その賞賛の直後、フロントミラーに恭(うやうや)しく頭を下げる猿渡が映った。
そうして、藍人は保を見やると、にっこりと微笑んだ。
「保さんに好きになってもらえるように一生懸命仕事をしますね」
その言葉に、保はひくひくと唇を笑みの形に引き攣らせた。
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