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第四章
21 教会にて
しおりを挟む翌日、朝九時ピッタリに、保が住んでいるアパート前にタクシーがつけられた。二階のベランダから恐る恐る見下ろすと、後部座席の窓が開いて猿渡が顔を覗かせた。ベランダに立つ保を見て、ぺこりと生真面目に頭を下げてくる。
「な……なんで、うちを知ってるんだ……?」
今まで藍人に送ってもらうときも、家の場所を知られるのが恐ろしくて、近隣で車を停めてもらっていたはずだ。なのに、猿渡は迷わず保のアパート前でタクシーを停めている。
ぞわぞわと這い上がってくる悪寒を感じつつも、放置するわけにもいかず、ボディバックを身体に引っかけてアパートの下に降りていく。
保の姿が見えると、すぐにタクシーの後部座席のドアが開かれた。
「おはようございます、芦名さん。こちらへどうぞ」
猿渡が自分の隣を掌で示している。保は身体を屈めてタクシー内を覗き込みながら、上擦った声で訊ねた。
「猿渡さん、おはようございます。あの……本当に俺も行ってもいいんですか?」
行ってもいいのか、というよりも、本当に行かなきゃいけないんですか、という弱々しい声音で訊ねる。
保の気持ちを察知したのか、猿渡は深々とうなずいた。
「もちろんです。むしろ来ていただかないと困ります。芦名さんが来なかった場合、清水のやる気が九十九パーセントほど消滅してしまうので」
「残り一パーセントって……呼吸するのがギリのラインじゃないですか?」
「その通りです。なので、私はたとえ縛り上げてでも芦名さんを連れて行く所存です」
そう言いながら、猿渡が膝に置いた黒鞄の口をちらりと開く。その中にSMで使われるような太縄が見えて、保はひくりと口角を戦慄かせた。
――な……なんで、藍人も猿渡も思考回路が犯罪者一歩手前なんだ……?
「い……行きます……」
引き攣った声でそう告げると、猿渡はにっこりと微笑んだ。その貼り付いたような笑顔は、ちょっと藍人に似ている。
「円満にお話が進んで良かったです」
もう反論する気力も湧かずに、保はのろのろと後部座席に座った。すぐさまドアが閉まって、タクシーが動き出す。
「猿渡さん、それで、つかぬことをおうかがいするんですが、俺の住所はどこで――」
「私、有能なマネージャーなので」
保の言葉を遮って、猿渡が丸眼鏡をくいっと指の甲で持ち上げながら言う。全然答えにはなっていないが、あまりにも堂々とした返答に、それ以上の追求ができなくなる。
「あぁ……はい……」
結局曖昧な相づちだけ返して、保は脱力気味に後部座席にもたれ掛かった。
***
今日の映画撮影は、古びた教会を貸し切って行っているようだった。傾斜の鋭い三角形の屋根の上に、真っ白な十字架が据え付けられている。
教会内では、スタッフたちがバタバタと忙しなく動きながら照明やカメラ等の機材を準備していた。信徒用の長椅子の間を、黒い蛇のような太いケーブルが何本も這っている。窓にはマリア様が描かれたステンドグラスがはめこまれており、射し込む光によって床に鮮やかな色を散らしていた。
そして、教会の中央辺りに立っている藍人の姿が見えた。藍人はカメラ画面に映し出された映像を覗き込みながら、隣にいる黒い野球帽をかぶった男性としきりに言葉を交わしている。何か悩んでいるのか、狭い眉間にわずかに皺が寄っているのが見えた。
藍人は髪の毛を掻き上げて、ノンフレームの眼鏡をかけていた。黒いカソック(聖職者が平服として着用する長衣)に身を包んだ姿は、どこか神聖さや厳粛さを感じさせる。
その姿を遠くから眺めていると、ふと藍人が何かに気付いたようにふっと視線を上げた。その眼差しが、まっすぐ保へと向けられる。目が合った瞬間、藍人はふわりとほどけるように笑みを浮かべた。
「保さん」
スタッフたちの声で騒がしい教会内でも、藍人の声ははっきりと保の耳に届いた。藍人が片手を上げて、手招きをしてくる。その仕草を見て、猿渡が先導するように歩き出した。
「芦名さんも、どうぞこちらに」
声をかけられて、慌てて猿渡の後ろに続く。
近付くと、藍人は嬉しそうに破顔した。
「保さん、来てくれたんだ」
「来たというか、連行されたというか……」
猿渡を横目で見ながら、もごもごと答える。すると、藍人はすべてを把握したように猿渡へにっこりと微笑みかけた。
「猿渡さん、お疲れ様。ありがとう」
「いいえ、これも業務の一環ですので」
猿渡がキッパリとした声で答える。だが、人を縛り上げて連行することも業務内だとしたらヤバすぎる会社じゃないか、とツッコミたくなる。
保がげんなりとした表情を浮かべていると、藍人の隣で椅子に座っていた野球帽の男性がふと顔を上げた。その顔を見て、保はギョッと目を見開いた。野球帽をかぶっていることから勝手に若いスタッフだと思い込んでいたが、その下から見えたのは何度もテレビや雑誌で見たことのある沖永照監督の顔だった。
沖永監督は黒い野球帽に黒いジャンパーを着ており、目元には分厚い黒縁眼鏡をかけていた。そして、皺だらけの顔には、糸みたいに細い目が埋まるようにして配置されている。半分眠っているようにも見える細目が、薄らと開かれて保を見上げていた。
「きみが藍人くんが言ってた腕のいいカメラマン?」
沖永監督の咽喉からしゃがれた声が聞こえてくる。その言葉を聞いた瞬間、保は横目で藍人を睨み付けていた。
――伝説級の監督に対して、なんつうハードルを上げた紹介をしているんだ……!
そんな思いを込めてねめつけるが、藍人はシラを切るように視線を逸らした。ここで藍人と言い争いをするわけにもいかず、沖永監督に向かって頭を下げる。
「初めまして、芦名保と申します。T局でテレビカメラマンをしています。沖永監督にお会いできて大変光栄で――」
「そういうのいいから。それより、これ見て」
恭(うやうや)しい挨拶を、子供っぽい口調でぶった切られる。沖永監督が指さすカメラ画面を覗き込むと、そこにはリハらしき映像が映し出されていた。
藍人演じる羽野(はの)ともう一人、カソックに身を包んだ壮年男性が向かい合うようにして立っている。その壮年男性も芸歴が長く、名脇役を演じることで有名な俳優だ。
『紙谷(かみや)神父、どうか教えてください。神に祈れば、誰であろうと救われるのですか?』
『ああ、その通りだ。神は公平に、我らをお救いくださる』
羽野の問い掛けに、紙谷と呼ばれた壮年男性が答える。
『まだ歩けぬ我が子をクローゼットに閉じ込めて餓死させた親でも、少女をレイプして川に落として殺した中学教師でも、人混みに突っ込んで三人轢き殺しておきながら車のせいだとうそぶいて罪から逃れた老人でも、神はお赦しになると?』
『神は罪を犯した者であろうと、悔い改める者はお赦しになられる』
紙谷が堂々とした声で答えると、羽野は悲しげに視線を伏せた。その唇が緩やかに動く。
『それでは貴方も救われるのですか?』
『何だって?』
『貴方が何人ものシスターや信徒の女性に乱暴を働き、数え切れぬほどの子を堕胎させたことも赦されてしまうのですか?』
羽野の問い掛けに、紙谷の顔が引き攣る。どうしてそれを知っている、と言わんばかりの紙谷の表情を見て、羽野はどこか諦念混じりの薄笑いを浮かべた。
『茅島綾乃を覚えてらっしゃいますか? 僕は、彼女が産んだ子供です』
『まさか。子供は堕ろしたはずだ』
『一人はね。彼女は双子を身ごもっていた。兄は産まれる前に殺されたが、弟の僕は生き延びたんです。その後、母は僕が小学校をあがる前に、心を病んで首を吊って死んでしまいましたが』
言いながら、羽野がゆっくりと紙谷へと近付く。静寂の中、コツン、コツンという革靴の音がやけに大きく響いた。
『なぜ、ここに来た? 私に復讐でもするつもりか?』
『僕は、ただ不平等だと思ったんです』
『不平等?』
『ええ。神の教えでは、自死を選んだ者は決して救われない。地獄の業火に焼かれ、永遠に苦しみ続けると言われています。ですが、母は決して悪人ではなかった。むしろ悪人に弄ばれ、心を壊され、死ぬことしか選べなかった哀れな人間です。それなのに、母を間接的に殺した者は救われて、母が救われないのは、勘定が合わないではないですか』
滑らかに語りながら、羽野が緩く首を傾げる。無邪気な子供のような仕草が、やけに不気味に映る。
『神が本当にいらっしゃるのなら、きっとこの不平等を均(なら)してくださるはずだと信じていました。雨の日も、雪の日も、絶えず心から祈り続けました。だが、神は応えてくださらなかった』
は、と小さく息を吐き出す音が聞こえる。失望したような、安堵したような、わずかな吐息だ。
『だから、すべては欺瞞(ぎまん)と虚構(きょこう)だと分かったんです。神の存在も、神の教えも、人間が創り出した都合の良いおとぎ話だと』
『それは異端者の考えだ』
紙谷がうなるように言い放つと、羽野は肩を軽く揺らして笑った。隠微な笑い声が、虫の羽音のように気味悪く響く。
『そう。僕は異端者なんです』
『ならば、神の家から出て行きなさい』
『先に消えるのは貴方の方だ』
そう答えるのと同時に、羽野の左手が素早く動いた。右から左へと向かって、薙ぐように素早く空中を一閃する。その手にナイフが握られているのを見ると、どうやら紙谷の首を掻き切った動作だったらしい。リハだからか、血糊はまだ使っていないようだ。
紙谷が両手で首を押さえて、そのまま床に倒れる。その姿を見下ろして、羽野がため息混じりに呟いた。
『貴方のおかげでようやく分かりました。神がいても、いなくても、世界は不平等だ。救いは、どこにもない』
目を閉じたまま、羽野が天井を見上げる。そこで映像が止まった。
画面を食い入るように見つめていた保は、自分が長い間、息を止めていたことにようやく気付いた。深く息を吸い込んだとき、くるりと沖永監督が振り返ってきた。
「どう?」
ひどく曖昧な沖永監督の問い掛けに、保は眉根を寄せた。
今の映像に対する賞賛を求めているのだろうか。とても素晴らしい映像です、とでも言えばいいのか? だが、沖永監督が、そんな当たり障りのない言葉を求めているとは思えなかった。
考え込むように顎を軽く引いて、じっと沖永監督を眺める。そのまま、保はゆっくりと唇を開いた。
「俺は脚本を読んでいるわけでもないので的外れな意見かもしれませんが……羽野の表情を、少し撮(うつ)し過ぎているように感じました」
「撮し過ぎ?」
「はい。それによって羽野の葛藤や苦しみはよく伝わってきました。だけど、伝わり過ぎな気がするんです。そのせいで、視聴者にとって羽野が身近な存在になってしまう。逆に羽野の顔はあまり撮さず、紙谷の化け物でも見るような表情の変化を長回しで撮る方が、羽野の底知れぬおぞましさやカリスマ性が際立つように思えたんですが……」
話している内に、段々と恥ずかしくなってきた。名監督に向かって、畑違いのテレビカメラマンが意見を言うなんて恐れ多すぎる。
いっそ全速力で逃げ出そうかと思ったとき、沖永監督の唇がニヤッと悪ガキみたいに吊り上がった。
「いいね。じゃあ、それで行こう」
「え?」
思わず、呆気に取られた声をあげる。だが、沖永監督は気にする様子もなく、口元に丸めた台本を当ててカメラマンを呼んでいた。
「い、いいんですか?」
上擦った声で問い返すが、沖永監督はもう保の方を見ていなかった。駆け寄ってきたカメラマンに向かって、撮影アングルの変更指示を出している。
その様子を呆然と眺めていると、すすっと藍人が隣に寄ってきた。
「流石だね、保さん。さっき、ちょうど沖永監督とその話をしていたんだ。この映し方だと羽野が観客にとって『哀れな存在』になってしまって、その異常性が薄れてしまうって。ラストの瞬間までは、羽野は観客にとって『怪物』でなくてはならないから」
あえて語り手を撮(うつ)さないっていうのは盲点だったなぁ。と言いながら、藍人が口角を吊り上げる。その表情は、先ほどの沖永監督の笑みと似ていた。
「いや、でも、素人の意見なのに……」
「保さんは、素人じゃないでしょ」
「映画撮影に関しては素人だよ」
反論を返すと、藍人は大きく肩をすくめた。
「何にしても、沖永監督が良しとしたんだからいいんだよ」
藍人が話を打ち切るようにそう言い放った直後、不意に沖永監督が「あ」と声をあげた。振り返った沖永監督が、保を見上げてくる。
「芦名くん、だっけ? きみ、映画撮影に興味ある?」
「え?」
「引き抜きとかできる?」
サラッと問われた言葉に、保はとっさに唇を引き攣らせた。
「そ、れは……ちょっと、分かりませんが……でも、まだ今の局に転職したばかりなので……」
「ふぅん。じゃあ、興味が出たら連絡して」
まるで子供が遊びに誘うみたいな口調で言うと、沖永監督は台本の裏表紙にサラサラと数桁の番号を書いた。番号のところを千切って、はい、と保に差し出してくる。どうやら、沖永監督の携帯番号のようだ。
差し出されたものを突っ返すわけにもいかず、両手を差し出してそれを受け取る。保の手に番号を置くと、沖永監督は興味を失ったようにすいっと視線を逸らして、声を張り上げた。
「本番行くぞ!」
先ほどとは打って変わってよく響く声に、保はぶるりと皮膚を震わせた。
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