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第五章
33 お兄ちゃんの嘘つき
しおりを挟む暗闇から、細波のように複数のすすり泣きが聞こえる。
『僕は君を殺したかった。だけど、殺せなかった。君だけが、僕を怪物として見なかったから』
前方のスクリーンには、藍人演じる羽野が泣き笑うような表情で、刑事役である女優をじっと見つめていた。
『僕は、怪物になりたかった』
そこには怪物になろうとしてなり切れなかったただの人間の悲劇があった。
教会は炎に包まれ、羽野は刑事を逃がして、自分は炎の中に残る。そして、羽野は磔(はりつけ)になったキリスト像をつまらなさそうに眺めて、ぽつりと呟いた。
『お前はいつも見ているだけだな』
そう囁く声とともに、物語は終わった。
音楽もなく、炎が爆ぜる音の中でエンドロールが流れていく。だが、観客は放心したように誰一人として座席から立ち上がろうとしなかった。暗転していた世界が、ゆっくりと明るくなって、ようやく周囲の人たちがパラパラと立ち上がり始める。
「すごかったね」
隣に座っていた咲希が、吐息混じりに賞賛の言葉を漏らす。その声を聞いて、保はハッと息を呑んだ。ふらふらと立ち上がって、咲希の方を見ぬままに呟く。
「俺、トイレ行ってくる」
口早に言うと、咲希の返事も聞かずに、保はシアター出口へと向かって歩き出した。
トイレの一番奥の個室に入った瞬間に、突然ダムが決壊したように両目から涙が溢れてきた。大粒の涙が、次々と頬を伝って、トイレの床に落ちていく。保は片手で口元を押さえて、溢れてきそうになる嗚咽を必死に押し殺した。
恋しい、と思った。藍人が恋しくて堪らなかった。藍人に会いたい。声を聞きたい。子供みたいな表情で笑いかけて欲しい。
あの人は怪物じゃない。あの人は、手の届かない星なんかじゃなかった。ただ一途に、保を好きだと言ってくれる人だったのに。大切な人から置いていかれるのをあんなにも怖がっていたのに、自分はその手を離してしまった。
自分から手放したくせに、今更恋しいと思うなんて身勝手すぎる。そう分かっているからこそ、息もできないくらい苦しかった。後悔したって何もかも遅い。藍人は、もう保のいない人生を歩み始めているのだから。
自己嫌悪ばかりが込み上げてきて、保は個室のドアに背を押し当てたまま泣き続けた。
涙が収まるまでに、三十分ぐらいかかった。泣きすぎたせいで頭が痛くて、マラソン直後みたいに全身が重たい。
トイレットペーパーで涙と鼻水を拭ってから、保はポケットに入れていたスマホの電源を入れた。メッセージアプリを開くと、咲希から連絡が入っていた。
『先にスタバ入ってるから。あとで、ちゃんと払ってね』
そのメッセージの後に、レシートの写真が送られていた。しっかり新作のフラペチーノとスコーンとケーキが購入されている。
ちゃっかりしているな、と思いながらレシートに書かれた店舗名を眺める。どうやら、同じ商業施設の空中庭園にあるスタバのようだ。
トイレの個室から出て、手洗い場に向かう。鏡を見ると、目の周りを真っ赤に腫らした自分の顔が映った。目蓋がパンパンに腫れて、完全に一重になってしまっている。
「最悪だな……」
自分の散々な姿を見て、そう呟く。冷たい水で顔を洗って、少しでも腫れを引かそうとする。しばらく冷やすと、赤味は変わらないものの腫れは少しマシになった。
そのままスタバに向かうと、レジでホットのカフェラテを頼む。商品を受け取って店内をうろつくが、咲希の姿は見えなかった。どこにいるのかと思ったとき、空中庭園のテラス席に咲希がぽつんと座っているのが見えた。寒すぎるせいで、咲希以外にテラス席に座っている客は誰もいない。
冷え冷えとしたテラス席に出て、咲希の向かい側の椅子に腰掛ける。
「悪かったな、待たせて」
そう声をかけると、咲希はもうほぼ空になったフラペチーノをズズッと吸い上げながら、横目で保を見やった。だが、その顔がすぐさま怪訝に顰められる。
保が口を開く前に、咲希はフラペチーノの容器をカンッとテーブルに置いて、勢いよく立ち上がった。そのまま、庭園内にある自動販売機に近付いていく。ペットボトルを一本買ってから、咲希が戻ってくる。
再び椅子に腰を下ろすと、咲希は当たり前のように、保の前に置かれたカフェラテとペットボトルの水を交換した。
「ちょ、おい」
「知らないの? 泣いた後にコーヒー飲むと余計に脱水状態になるんだよ」
生意気な口調で言ってくる。だが、それが咲希の気遣いだと分かったから、保は何も言えなくなった。
保が注文したカフェラテを、咲希が平然と飲み始める。保もペットボトルを開けると、水をゆっくりと咽喉に流し込んだ。途端、渇いていた身体に水が染み込んで、ほっと息が漏れる。しばらく互いに無言のまま、飲み物を飲み続けた。
半分ほどペットボトルの水を飲んだところで沈黙が気まずくなって、保は口火を切った。
「藍人さんの映画すごかったな。感動して、めちゃくちゃ泣いたよ」
映画のせいで目を腫らしたんだ、と思われるように言う。保の言葉を聞くと、咲希はあからさまに顔を顰めた。
「は? 何それ?」
「いや、だから、映画良かったなって」
「映画は良かったよ。だけど、なんでお兄ちゃんは嘘ばっかりつくの?」
噛み付くような咲希の口調に、保は困惑した。眉尻を下げて見つめると、咲希が鋭い目で睨み付けてくる。
「お兄ちゃんは、藍人さんにも嘘ついてるよね」
「嘘って……」
保が言葉に詰まっていると、咲希は苛立った声で続けた。
「前に藍人さんから連絡があったの。お兄ちゃんが幼稚園だった頃の、運動会の『ビデオ』を送ってくれないかって。お兄ちゃんが『TVカメラマン』を目指すようになったキッカケを、自分の目でも見てみたいからって」
その言葉に、保はグッと咽喉を絞められたような心地を覚えた。唇が引き攣って、息が吸えなくなる。
そういえば、以前藍人が実家に来たときに、咲希は藍人とツーショット写真を撮っていた。そのときに藍人が『自分にも送ってくれる?』と言っていたことを思い出す。そのときに、藍人と咲希は連絡先を交換していたのだろうか。
硬直する保を見据えて、咲希は淡々とした口調で続けた。
「違うよね。お父さんが運動会で撮ってたのはビデオじゃなくて『写真』だったし、お兄ちゃんが元々目指してたのはTVカメラマンじゃなくて『写真家の方のカメラマン』だったよね?」
告げられる内容に、保は言葉もなくうつむいた。自分の心の襞(ひだ)が次々とめくられていくような感覚を覚えて、恥ずかしくて仕方なくなる。
「昔っから将来は写真家になりたいって言ってたのに、専門学校を卒業したらテレビ局に就職したから、何かおかしいと思ってたの。それに人が多すぎるところは苦手なはずなのに、わざわざ先輩の伝手(ツテ)まで使って地元局から都内の局に転職までして、お兄ちゃんは何のために東京に行くんだろうって思ってた。だけど、やっと理由が分かった。お兄ちゃんは、ずっと藍人さんに会いたかったんだね」
妹の口から、剥き出しの真実が突き付けられる。自分でもずっと心の奥底に隠してきた、認めるのが恥ずかしすぎる事実だ。あまりの羞恥に、保は両手で自身の顔を覆った。
そうだ。本当は、ずっと会いたかった。テレビ画面で見た瞬間に、彼が運命だと気付いてから、一目でいいから会えることを祈っていた。だから、ずっと夢だった写真家ではなくTVカメラマンになった。居心地の良い地元局を辞めて、めまぐるしくて多忙な都内の局に転職した。彼に会える可能性を、一パーセントでも上げるために。
顔を覆ったまま動かない保に向かって、咲希が静かな声で訊ねてくる。
「藍人さんは、お兄ちゃんの運命なの? 昔、テレビで藍人さんを見て、お兄ちゃん言ってたよね。『この人が俺の運命だ』って。あれって冗談じゃなくて、本当のことだったの?」
火にくべられたように頬が熱い。まさか七年以上も前のことを、咲希が覚えているとは思ってもいなかった。
そして、咲希の口から続けられた言葉に、保は息を止めた。
「あの夜も、お兄ちゃん泣いてたでしょ」
思わず顔を上げる。すると、どうしてだか泣き出しそうに歪められた咲希の表情が目に入った。
「お母さんに怒られてムシャクシャしてたから、部屋の窓を開けて涼んでたの。そしたら、隣の部屋から『せめて、推しのアイドルと付き合わないでくれー』とかいう変な声がして、そのあとずっと泣いてる声が聞こえてきた。お兄ちゃんは、泣いちゃうくらい藍人さんのことが好きだったんでしょう?」
鉄の鎧で覆い隠してきた保の本心を、咲希が丸裸に暴いていく。
運命に出会った瞬間に、失恋を覚悟して涙を流したこと。それでも諦めきれずに、進路を変えてまで運命を追いかけたこと。どれもこれも、居たたまれないくらい無様な行動だ。だが、それ以上に無様なのは、ようやく出会えた運命を信じられず、自ら手放してしまったことだ。
保は両手で額を押さえると、うめくような声を漏らした。
「でも……俺は、もうあの人に会えないから……」
「会えないって、なんで?」
「結婚できない、って断っちゃったから……」
うつむいたまま、ひどく情けない声を漏らす。すると、咲希はこれ見よがしにため息を漏らした。
「なんで、好きなのに断っちゃったわけ?」
「だって、俺とあの人じゃ全然釣り合わないし……」
「何それ。釣り合わないって誰が決めるの? 誰かが天秤でも持ってんの? つか、この世の中、若い美人と結婚してるおっさんが何万人いると思ってんの?」
「いや、でも、周りのみんなだってガッカリするだろうし……」
「周りにガッカリされるからって問題ある? そのガッカリする奴らが、お兄ちゃんや藍人さんに何かしてくれるわけ? こっちに何もしてくれない外野の気持ちなんて、どうだっていいじゃん」
次々と保の弱音をぶった切っていく咲希に、保はぽかんと口を開いた。
「お兄ちゃんはさ、昔から人の気持ちを読み取るのが上手いよね。表情とか身振りとかを見て、相手の気持ちを先回りして読んでるんだろうけど。だけど、一番大切なのは、他人じゃなくて自分の気持ちじゃん。自分が今どうしたいかじゃん」
周りの有象無象をブルドーザーでなぎ払っていくような咲希の台詞に、奇妙な清々(すがすが)しさを感じる。
保が固まっていると、咲希はテーブルを人差し指でトンと叩いた。
「お兄ちゃんは、これからどうしたいの?」
シンプルな問い掛けに、また涙が込み上げそうになる。膝上で拳を握り締めたまま、保は掠れた声で答えた。
「藍人さんに、会いたい」
もう藍人が保を好きじゃなくなっていても構わない。いや、本当は構わなくはない。できれば、まだ好きでいて欲しい。だけど、もし藍人の気持ちがなくなっていたとしても、初めて見たときからずっと俺は貴方に恋をしていたのだと伝えたかった。
保の返答を聞くと、咲希は、ふー、と大きく息を吐き出した。宙に浮かんだ息が、真っ白な水蒸気になっている。白いもやが消えたとき、思いがけず柔らかな声が聞こえてきた。
「もし藍人さんと仲直りしたら、今年の夏は三人で帰省しようよ」
「仲直りできるかは、分からないぞ……」
「お兄ちゃんって、ほんとネガティブだよね。たまにはポジティブに考えたら?」
咲希がうんざりした口調で言い返してくる。咲希はカフェラテを飲み干すと、跳ねるようにして椅子から立ち上がった。
「ちょっと寒くなってきたから、ご飯食べに行こうよ」
「お前、フラペチーノもスコーンもケーキも食べただろ」
ついでに言うと、保のカフェラテまで飲み干してる。保の指摘に、咲希は大きく肩をすくめた。
「こんなの序の口だし。せっかく東京に来たんだからクレープとかパンケーキも食べたいし、タピオカも飲みたいし、美味しいお寿司だって食べたいもん」
何とも食いしん坊なことを言うと、咲希は一人でスタスタと歩き出した。その後ろを追いかけながら、呆れと笑い混じりに呟く。
「回る寿司しか奢らないからな」
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