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第五章
34 呪いをかけた
しおりを挟む藍人に会いたいと自覚したものの、だからといって早々に連絡することは躊躇われた。
なにせ藍人は、すでに主演男優賞を受賞しており、更に最優秀賞の有力候補でもあるのだ。どこの局からも引っ張りだこになっており、授賞式直前の今が一番忙しい時期なのは火を見るよりも明らかだった。ここで連絡をして無視されるならまだいいが、藍人の心を乱すのが一番恐ろしい。
――授賞式が終わったら、絶対に連絡する。
そう自分自身に言い聞かせながら、決行日までの残り日数を数えるみたいに、毎日カレンダーにバツ印をつけていく。
授賞式は、例年と同じく三月中頃に開かれるようだった。その日が刻々と迫ってくるのを感じながら、覚悟を決めつつ日々を淡々と過ごす。
***
そうして、気付けば授賞式の日が訪れていた。
当日、局内はひどく慌ただしかった。授賞式が行われるホテルで撮影を行うため、鬼村や保を含めたカメラチームがバタバタと走り回りながら、次々と機材をバンに積み込んでいく。もちろんカメラチームだけでなく、照明や音声チームも怒号をあげながら慌ただしく動いていた。
機材の積み込みが終わると、助手席から顔を覗かせた鬼村が忙しなく声をあげた。
「行ってくるからな!」
「はい、お気を付けて行ってらっしゃいませ!」
車外に立ったまま、保は新米執事のように大きな声を返した。
鬼村は撮影のためにホテルに向かうが、藍人がいるので保は局内に居残りを命じられていた。だが、それも当たり前だ。流石にスキャンダルを起こした者同士を鉢合わせにさせるわけにはいかないだろう。
保が直立不動で見送りしようとしていると、鬼村が人差し指をクイッと招くみたいに動かした。顔を寄せると、鬼村が小声で言う。
「藍人くんが最優秀賞を取るところを、しっかり撮ってくるからな」
藍人が最優秀賞を取ることを疑っていない声音だった。
鬼村の言葉に、保はくにゃりと眉尻を下げた。泣き笑いのような表情を浮かべたまま、深くうなずきを返す。
「はい、よろしくお願いします」
鬼村は助手席から緊張した仕草で小さくうなずくと、そのまま窓を閉めた。並んでいたバンが、会場であるホテルへと向かって次々と発進していく。
車を見送りながら、保は自分が無意識に両手を合わせていたことに気付いた。『どうか、藍人が最優秀賞を取れますように』と祈る。
こんな風に祈るのも、正しいことなのか分からない。藍人が受賞を望んでいるのかも定かではない。それでも、今が一番仕事が楽しいと言っていた藍人の姿を思い出すと、彼のやってきたことが多くの人から認められて欲しいと願ってしまう。
はぁ、と深く息を吐き出す。じんわりと春の気配を滲ませてきた大気では、もう吐き出す息は白くならなかった。
壁にかけられた掛け時計をチラチラと見やりながら、保は狭い保管庫でひたすらレンズを磨き続けた。
時刻は十五時を過ぎており、参加者たちはすでにレッドカーペットを通って会場に入っているはずだ。その後、オープニングや司会の挨拶、新人俳優賞の発表などが行われた後に、各部門の最優秀賞の発表が行われていく。部門だけでも二十二あるし、例年において最優秀主演男優賞の発表はラストに回されることが多いから、きっと十八時以降になるだろう。
そんなことを考えながら、落ち着かない気持ちで機材の手入れをしていく。
しかも、昨年までは授賞式は生放送ではなかったのに、今年からは米アカデミー賞と同じようにリアルタイムで放送すると決まっていた。だからこそ、あれだけ裏方チームが殺気立つほどに緊張していたわけだが。
いっそスマホで生中継を見ようかとも思うが、そんなことをしたら仕事が手につかなくなるのは間違いなかった。きっと藍人が映る度に心臓がバクバクして、命よりも大切なレンズを手から滑り落としてしまう。だから、今はひたすら心頭滅却して目の前のレンズに集中し続ける。
そうしている内に、気が付いたら時刻は十七時を過ぎていた。今日は早出だったから、もう退勤の時間だ。
機材の片付けをしつつ、ホテルの前で出待ちでもしてみようか、いやそれは流石に迷惑すぎるか、キモいと思われたらどうしよう、などと初恋に戸惑う女子高生みたいなことを考えていると、不意にスマホが着信音を立てた。画面を見ると、鬼村からの着信だ。
――生放送中に電話? 何かあったのか?
緊張が走るのを感じながら、素早く受信ボタンを押してスマホを耳に押し当てる。
「はい、芦名です」
『鬼村だ。悪いが今すぐにこっちに来てくれ』
息継ぐ間もない鬼村の口調に、知らずに身体が強張る。
「何かあったんですか?」
『カメラマンが一人足を捻って動けそうにない。代役に来てくれ』
「もちろん俺は構いませんが、俺が向かうことは局的には問題ないでしょうか?」
授賞会場には藍人もいる。そんなところに保が行っても良いものなのか判断ができなかった。だが、保の憂慮を打ち消すように鬼村ははっきりと言い切った。
『局長にはもう許可を貰ってる』
「分かりました。では、すぐにタクシーで向かいます」
『いや、関係車両で来ないとホテル前で弾かれるから、もうそっちに迎えの車を向かわせてる」
「迎えですか?」
『駐車場に行ったら分かる。すぐに行け』
口早に言い切ると、すぐに電話は切れた。スマホをポケットに突っ込むと、保は即座に駐車場へと向かって全速力で走り出した。
駐車場に着くと、すぐに黒いバンが横付けされる。だが、その運転席に座っている人を見て、保は思いっきり顔を引き攣らせた。
「さっ、猿渡さんっ?」
「芦名さん、お迎えに来ました。後部座席へどうぞ」
「え、なんで猿渡さんが?」
局の関係者ならともかく、なぜ猿渡が迎えに来るのかが理解できずに困惑する。
「私が一番早く芦名さんを連れて来れると判断したからです。今はゆっくりと話している時間がありませんので、とにかく車に乗ってください」
淡々とした口調で言われる。確かに今は時間がないと思って、保は覚悟を決めて後部座席に乗り込んだ。後部座席には綺麗に折り畳まれた黒シャツが置かれていた。
「一応スタッフ側もドレスコードがありますので、上を着替えておいてください」
そう言われて、慌てて上着を脱いで、黒シャツに着替えていく。着替え終わると、保はすぐさまシートベルトをつけて、両手でギュッと命綱のように握り締めた。
同時に車が勢いよく発進した。悲鳴をあげる覚悟をしていたが、猿渡の運転は前回よりも滑らかで優しかった。もちろんスピードは速いが、警察に止められないであろうギリギリのところを攻めている気がする。
「大丈夫です。今日は芦名さんが吐き気を催さないレベルの安全運転で行きますから」
安心させるように言う猿渡へと、保は上擦った声で問い掛けた。
「すいません、まさか局外のマネージャーさんに迎えに来ていただくなんて」
「お気になさらず。むしろ、あの会場で一番手が空いていたのは間違いなく私ですから。鬼村さんが困ってらっしゃるのを見て、こちらから何かお手伝いできませんかと声をかけたんです」
すらすらと語られる説明に、保は猿渡へと向かって頭を下げた。それから、うかがうような声で訊ねる。
「あの……もう主演男優賞の最優秀は発表されましたか?」
「いいえ、まだのはずです」
「えっと、藍人さんは、どうしていますか?」
「清水さんは、いつも通りですよ」
猿渡の返答に、ほっと息が漏れる。だが、胸の奥では安堵とともにかすかな寂しさも感じていた。やっぱり自分がいなくなっても藍人は大丈夫だという事実が、身勝手ながらも少しだけ切なかった。
しかし、猿渡は小さくため息を漏らすと、こう続けた。
「一見すると、ですが」
「一見すると、ですか?」
オウム返しすると、猿渡は正面を見つめたまま眉をギュッと顰めた。
「表面上は何も変わっていませんが、中身はぐちゃぐちゃのドロドロです。今までは忙しいなりに少しは休みを取っていましたが、今は依頼があった仕事は何でもかんでも選ばず受けて、ここ数ヶ月間、朝から晩まで一日も休みなしで働いています。睡眠も最低限しか取っていないようですし、食事も栄養補給剤みたいなもので摂取しているようです。それで、こちらが仕事量を調整しようとすると『余計なことはしないでくれ』と言われる始末でして。正直、壊れる一歩手前って感じですね」
壮絶な内容を、猿渡が事務的な口調で告げる。その言葉に、保は顔を強張らせた。
「どうして、そんな……」
思わず掠れた声が漏れる。猿渡はしばらく黙り込むと、赤信号で停まったタイミングで保の方を見やった。
「貴方が、仕事を頑張る人が好きだと言ったからです」
その言葉に、咽喉を強く絞められたみたいに息が苦しくなった。猿渡のまっすぐな眼差しが、まるで刃のように身体に突き刺さる。保が無自覚に、藍人に残酷な呪いをかけたのだと分かった。
保は片手で額を押さえると、蚊の鳴くような声で呟いた。
「すいません……俺のせいで……」
「いえ、いいえ、違います。芦名さんを責めたいわけではありません。貴方の言葉を呪いに変えてしまったのは、清水さん自身の問題です。貴方には何の責任もない。ただ――これは私からの勝手なお願いですが、どうか芦名さんが少しでも清水さんを思ってくださるなら、あの人に『もう頑張らなくてもいい』と言ってあげて欲しいんです」
懇願するような猿渡の声に、保は一瞬言葉を失った。赤信号が青に変わって、車がまた動き出す。かすかな振動を感じながら、保は小さな声を漏らした。
「授賞式が終わったら、藍人さんと話す場をいただけないでしょうか?」
「ありがとうございます。是非ともお願いします。場所は、もう手配済みです」
当然のように返ってきた言葉に、保はかすかに苦笑いを漏らした。
「流石、有能なマネージャーさんですね」
「はい、私は有能なマネージャーですから」
猿渡が自身の眼鏡をクイッと軽く持ち上げて、堂々とした口調で答える。その返答に、保はガチガチに硬直していた心臓がわずかにだけほぐれるのを感じた。
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