孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

文字の大きさ
22 / 36
五十崎檀子の手記 

二十

しおりを挟む
「李大龍よ、わしはあんたを見たとき、これまでのわしの月日が報われる気がした。親父は晩年は精神を病んでいつも虚構の世界を彷徨うようだった。だからわしは、わしを殴り飛ばしたあのときの親父の話というのも、実は狂気の前兆だったのではないかと疑ってもいたんだ。だがそうではなかった。親父の話はほんとうだった……親父は正気だったんだ……」
 李大龍の眼光に照らされた祖父の目には涙が滲んでいました。
「……あんたのおかげでようやくわしの心労は終わる……肩の荷を下ろせる……そう思った。……だが、そんなのは間違っている……何でわざわざ終わらせなければならない。そうだとも、この箱を守ることが、わしの生きるよすがだ。この箱はわしの人生そのものだ。この中には、親父やじいさんがいるんだ。さあ、箱を返せ。そして今すぐここを出て行け!」
 そう叫んだ祖父の声は、わたしの耳に悲痛な響きを伴って聞こえました。李大龍を睨みつけている祖父は、もはや泣きべそをかいた一人の少年のようでした。
 しかし李大龍は青白い光を放つ目で真正面から祖父をとらえたまま、低い声で言いました。
「あなたは今とても危うい状態にある。あなたとこの箱、互いに無事であるためには、離れていなければならないのです。渡してください」
「わしの話を聞いていなかったのか?」
「聞いていたからこそ言うのです。さあ、はなすのです」
「おまえがはなせ!」
 祖父は全身の力を振り絞るようにして箱を奪おうとしましたが、やはり頑丈な樫の大木のように李大龍の体は微動だにしないのでした。
 李大龍は慎重に研ぎ澄まされたナイフの切っ先を当てるように、祖父に向かって言いました。
「駄々をこねるのは終わりです。はなしなさい」
 祖父は李大龍の言葉に顔を歪め、さっと手を引っ込めました。しかし次の瞬間、いきなり黄色の布紐の端を掴んで思いきり引っ張りました。
 布の引き裂かれる鋭い音と共に、李大龍の手の中にあった箱はごとんと鈍い大きな音を立てて床に落ちました。
 そのはずみで箱の蓋が、既にほとんど破れかけていた布紐を完全に押し切って外れ、ばたんと床に倒れました。間髪を入れず、開いた箱の中から飛び出すように転がり出してきたものがありました。わたしは思わずあっと絶叫して昏倒しかけました。箱の中から転がり出たものは、瞼を閉じたまだあどけなさの残る美しい少女の首であったからです。
 わたしは両手で口を覆ってどうにかこうにか悲鳴を堪えましたが、全身からは汗が吹き出し、腹の底は恐怖に縮み上がっていました。
 祖父もまたわたし同様甚だ驚いて、後ろに飛ぶように後ずさりました。ぱくぱくと口を動かしながら声にならない声で喘ぎ、驚怖と驚愕の目で転がり出た少女の首を凝視していました。
 恐慌が嵐のようにわたしを襲おうとしましたが、しかしふと、目の前の板の間に転がっているものは実によくできた人形の頭部であるという考えが、明滅する星の光の素早さで頭の中を過りました。
 するとそれはいかにももっともらしい考えに思え、わたしは一刻も早く自分を安心させるためにその考えが正しいことを確認しようと試みました。すなわち、しっかりと目を見開いて、努めて冷静に首を見澄ましたのです。少女の首は李大龍が放つ青白い光の中に、まるで夢幻の舞台に立つ京劇の役者を模した唐人形の如く浮かび上がっていましたから、つぶさに観察することが可能でした。
 そうやって見た首は、こちらを夢見心地にさせるほどに美しく、愛らしいものでした。薄暗い蔵の湿った闇を吸って重々しさと光沢を増した黒髪は後頭部で綺麗に結い上げられており、その豊かな髪の下にある白い肌にはまるでたった今施したかのような鮮やかな化粧が乗っていました。今にも物を言いそうな唇は健やかな血色を湛えて花びらのようにほころび、閉じた瞼と頬の濃い桃色の色粉は匂うように咲いています。丸く秀でた額に赤い花模様のようなものが描かれているのが、少女の首の桃源郷のような美しさを一層強調するようでした。以前、祖父に連れられて訪れた美術館で、中国の古い時代の女性たちの描かれた絵を見たことがありましたが、首はその女性たちとよく似ているように思いました。
 まるで生きているような、そっと手を伸ばして触れればあたたかい血の通う肌を感じられそうな少女の人形の首を見つめれば見つめるほど、いったいどんな卓越した技術を持つ人形師の手になるものなのだろうかと驚嘆する思いに圧倒されました。同時に、わたしは自然、毎年桃の節句の頃になると奥の間に飾られる雛人形のことを思い出し、無意識のうちに、しどけない寝姿を見せているかに見える目の前の少女の首とを比べていました。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

鍵のかかった部屋

あめとおと
ホラー
閉ざされた部屋に、出口はない――。 ドアにかかった鍵は、手の届くところにない。 机の上の書類は、未来の日付を示す。 壁の影は、人の形をして、こちらを見ている。 秒針が狂い、時間が歪む。 呼吸音、囁き、影―― 部屋の中にいるのは、誰なのか。 恐怖は静かに、確実に忍び寄る。 あなたは、この部屋から逃げ出せるだろうか。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...