孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

十九

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 李大龍は何か大切なものを掲げ持つようなうやうやしさで板の間に置いていた箱を両手で抱えて立ち上がると、
「結構です。それでは確かに引き取らせていただきます」
 傍らに棒立ちになっていた祖父に向かって頷くように頭を下げたので、わたしは俄かに夢から醒めたように突如として現実に引き戻された気分になり、思いがけず白昼夢を見ていたような驚きを感じていました。わたしの意識は完全に李大龍と古い竹の箱だけで占められ、それ以外はすっかり世界から消失してしまっていたことに半ば愕然としながら、薄暗がりに立ち尽くす祖父にようやく視線を移したわたしは、その瞬間思わずぎょっとして息も止まらんばかりになりました。しかし祖父を知る人ならば誰でもきっとわたしと同じ反応をしたでしょう。祖父の顔からは普段の如何にも真人間らしい顔つきが消え失せ、蔵の薄闇に鈍く光る目を大きく見開いて、まるで獲物を奪おうとする不届きな侵入者に対峙した獣の如く李大龍を睨みつけているのでした。
「──いいや、駄目だ。そういう訳にはいかない」
 獰猛な獣が威嚇のために発するような低い唸り声で言うなり、祖父が突然李大龍の手にした箱に勢いよく飛びついて渾身の力をふるって奪い返そうとするのを見たわたしは、咄嗟に李大龍が地に倒されることを予期し、思わず胸の前で両手を握り合わせていました。
 ところがわたしの予想に反して、李大龍の痩身はほんのわずかな揺らぎさえ見せず、じっとその場に立ったままぴくりとも動かないのでした。わたしは瞠目せずにはいられませんでした。如何にも線の細い李大龍が、彼よりもはるかに体格の良い祖父を相手にびくともしないで立っているのに心底驚いていたのです。しかし次の瞬間、それ以上にわたしを驚愕させたものがありました。李大龍の青い目が、鬼火のように俄かに発光し始めたのです。
 わたしは思わず身を乗り出しました。彼の目は確かに青白く光り、全身を鋼のようにして箱を奪わんとする祖父にじっと向けられていました。しかし祖父自身は李大龍の目の光になどまるで気がついていないかのように、こめかみに青い筋を立てて箱を奪い取ろうと一心不乱になっているのでした。
 李大龍は無感動にも見える目つきで祖父を見ながら、唇を薄く開きました。
「……瘴気の原因はやはりあなた方・・・・でしたか」
 李大龍の低い声は蔵の中の空気を打ち震わせて、異様にはっきりと響きました。
「今すぐその手をはなしてください」
おまえのような化け物・・・・・・・・・・に指図をされるいわれなどない。おまえこそ手をはなせ」
 祖父の乱暴な物言いに、わたしは強いショックを受けました。身内に対しても滅多に声を荒げることのない祖父が、ましてや他人にそんな粗暴な言動をするなど、いったい誰が想像できたでしょうか。
 蔵の薄暗い中に、まるで目と歯をむいて威嚇する凶暴なヒヒのような祖父の顔がはっきりと見えました。俄かには信じがたい光景に、わたしの驚愕は次第に恐れの感情へと変わっていきました。何か尋常ではないことが起こっているという直感が、わたしの不安と恐怖を際限なく煽り立てました。
 わたしは冷たい汗が背中を伝い落ちるのを感じながら、茶箪笥の陰にしがみつくようにして身を潜めているより他にどうすることもできず、ただただ息を殺して目の前の様子を凝視していました。
「わしはな、この箱をわしのじいさんが手に入れたということしか知らん。どうやって手に入れたのかも、中身が何なのかも聞かされてはおらん。だがまだこどもだったあるとき、こっそり中身を見てやろうとしたわしは、この箱を開けるより前に、わしのあとをついて来ていた親父にしたたか殴り飛ばされた。物静かで気のやさしい親父に殴られたのは後にも先にもその時だけだ。わしがあんなに泣いたのもあのときだけだ」
 祖父の手やこめかみには決して力を緩める気のないことを示すかのように、血管が太く浮かび上がっていました。
「親父は血を流したわしを見据えて言った。その箱はおまえの祖父が手に入れたものだが、いかなる理由があろうと触ってはならないものなのだと。そしてこうも言った──全身に呪言じゅごんを彫り付けた李大龍リーダーロンという名の生きた霊符・・・・・が、いつか必ず取り返しに来るだろう──と」
 祖父は荒い息をしながら続けました。
「親父はそれ以上何も語ろうとはしなかったが、ガキだったわしはその男──李大龍という術士が、いつかこの箱を取りに来るという話を信じて怖れた。きっとそいつは恐ろしい化け物に違いないと思ったからだ。成長するに従ってわしは親父のその話を半分はホラだろうと思うようになりながら、もう半分ではどうしても信じることをやめられなかった。わしにとってこの箱は長年かせでしかなかった。頭の中に居座って、わしを決して自由にさせない。まるでとぐろを巻いてわしを睨みつける大蝮おおまむしだ。だが結局親父が死んだとき、わしはこの箱ごと家を継ぐことを決めた。馬鹿らしいと思いながらも、親父の遺言だと思って今日まで守り通してきた。もしわしが死ぬまで何事もなければ、この蔵ごと箱は処分しようと決めていた。誰にも何も言わず、すべてを葬り去ろうと思っていたんだ。きっとそうなるだろうと思っていたさ、昨日の晩まではな。だが、あんたはほんとうにやって来た……」
 祖父の内側からは、長年抑え込んでいた感情がせきを切ってあふれ出てくるようでした。


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