孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

十八

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 二階の濃い闇がだんだんと眼前に迫って来るうちに、自分の頭が暗い闇の中に吸い込まれ、首から上と下に両断されてしまう恐ろしい幻覚が浮かんでは消え、足が震えました。そのイメージを必死に振り払い、なんとか上の方までのぼって来ると、上がりきる前にちょうど巣穴から顔を覗かせる臆病なリスのごとく、恐る恐る目だけを出して、そっと辺りの様子を窺いました。
 息詰まる闇に目を凝らすと、一階同様そこにも一目で年代物とわかる行李や道具類、家具などがいっぱいに押し込められているのが見えました。ふと下を見ると、梯子をのぼって来る前とはあべこべに、今度は階下に真っ黒い霧のような闇が垂れ込めて、底なし沼の不気味さにも似た静寂が渦巻いているのが見えました。
 今にもその沼から長い触手を持った妖怪がぞろりぞろりと這い上って来そうに思い、わたしは大慌てで梯子の先端に顔を出すと、蔵の二階の板の間についた腕に力を込めて、震えてうまく力の入らない自分の下半身を地中に埋まった植物の根っこを引き抜く如く二階に引き上げました。
 どうにか立ち上がると、山と積まれている古びた荷物の群れを見回しました。そこはまるで物言わぬ古びた家財の墓場のようでした。どんよりと澱んだ空気が体中にまつわりつき、カビ臭さに頭痛を引き起こしたわたしの心臓は破れそうなほど大きく鼓動していました。
 するとまたぼそぼそと、道具や家具の山の向こうから、低い声でしゃべる声が聞こえてきました。わたしはごくりと喉を鳴らし、墓石のように黙りこくった家財道具たちの間にできた迷路のような通路を足音を忍ばせて進みながら、祖父と李大龍の姿を捜しました。
 大きな茶箪笥の置かれた角を曲がったとき、薄暗い中にこちらを背にして立つ祖父と李大龍を見つけたわたしは、突然にして心細さから解き放たれた人がそうするように、思わず嬉しい叫び声を上げて二人に向かって駆けだしそうになりましたが、ぐっと堪えてすぐさま茶箪笥の陰に引き返し、そこに身を潜めました。
 息を殺して静かに顔だけを覗かせると、祖父と李大龍は暗い蔵の闇に沈んで一体となりかけているような、黒っぽい大きな水屋箪笥の前に立って、どうやらその棚の真ん中辺りの段に置かれている何かを熱心に見ているようでした。
「……おっしゃる通り、確かにこれに間違いないようです」
 暗さのために視界が限られているためか、李大龍の声は不思議なほどはっきりと聞こえました。彼の低い声に、静かな池の表面が風に撫でられて波紋を広げるように、わたしの心はゆらゆらと波打ちました。
 李大龍は棚の奥に手を伸ばして何か箱のようなものを持つと、数歩下がってこちらに横顔を見せる形で振り向きました。綺麗な線で丹念に描かれたような李大龍の白い横顔が、薄暗い蔵の中に浮かび上がって見えた途端、息苦しさを感じて無意識に胸を押さえながらも、目は離さずにいました。
 李大龍は取り出した箱に、じっと物言いたげな視線を注いでいました。わたしの目も自然とその箱に吸い寄せられていきました。薄闇によく目を凝らして見た箱は竹で作られたもののようでした。抹茶碗を仕舞う桐箱を二回りほど大きくしたような寸法で、かなりの年代物らしく、箱の本体や蓋のところどころがカビで黒っぽく変色しているのが薄暗い中にも見て取れました。さらにその箱と蓋とは何か模様のようなもののある布紐で結ばれているのですが、その布もほつれて今にも破けてしまいそうな様子をしているのでした。
 一見何の変哲もないただの古びた箱に見えましたが、しかしわたしは何故かその箱に奇妙な胸騒ぎが起こるのを抑えきれずにいました。恐怖とも不快とも違う、無性に不安を煽り立てるような震えが全身に起こっていましたが、しかしその実、わたしの体を慄然としてよぎるものが何かひとつの確信めいた予感がもたらした武者震いであることを感じ取ってもいました。それはわたしの内側に、ある種の興奮を呼び覚ますかのようでもありました。
 李大龍は板の間に片膝を着くと、手にした箱をそっと床の上に置き、懐から細い筒状の笛のようなものを取り出しました。それは懐中電燈の役割をする物だったらしく、俄かに一条の光が暗闇を裂いて貫きました。その光の筋はナイフのように鋭利な青い月の光を思わす色で、どこか李大龍の瞳を思わせました。薄暗闇に突然射した光の周りを、蔵の中の埃がきらきらと細かな光の粒子を反射して、金や銀の紙吹雪のように舞っていました。
 青っぽい光に照らされて、板の間には箱の姿がくっきりと浮かび上がり、まるで長い月日のうちに染みついた無聊ぶりょうの跡のような黒ずみまでがはっきりと見えました。しかしその箱が一種異様な感じを醸し出しているのは、何と言ってもまるで封印を施すかの如く十字掛けと垣根結びに結わえられている色の褪せた黄色い布でした。その布の表面には、ちょうど李大龍の体にあった文字と同じようなものが、こちらは赤い墨か何かで丹念に書きつけられてあるのでした。経年のためにその文字色自体も布同様色褪せてはいましたが、元は鮮やかな朱の色であったことを窺わせるその文字の群れは、何か大岩に穿うがち造られた石仏が黙年と瞑想をしているような風情を湛えているかにも見えました。
 李大龍は跪いた姿勢のまま、片手に持った光の筒をかざしてしばらくの間、箱の状態をつぶさに確認しているようでした。やがて蝋燭の炎が消えるように、李大龍の持った光が突然ふっとかき消されると、蔵の中には一層深い闇がその衣の裾を広げ、わたしは不意に目隠しをされたときのように、いささか脅かされる心持ちになりました。
 わたしは懸命に目を凝らして視界を埋める闇の向こうに李大龍を求めました。次第に息苦しいカビと埃と闇に満たされた空間に、ぽうっと宿る灯火のように、李大龍の白い横顔が見えてきました。彼は長い指先で何か語りかけてでもいるかのように、黒ずんだ箱の蓋を撫でているのでした。その李大龍の眼差しがわたしの心につきんと鋭い針を突き刺しました。わたしはそのとき確かに、その箱を相手に、言い知れぬ嫉妬心が頭をもたげて来るのを感じていたのです。




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