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五十崎檀子の手記
十七
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わたしは紙幣が山と積まれた下駄箱からつっかけを取り出して履くと大急ぎで玄関を飛び出そうとしましたが、しかし玄関先にこれほどの大金を置いたまま家を空けてもいいものかと、一瞬逡巡する気持ちが頭の片隅をかすめないでもありませんでした。それに、日頃どんな物でも決してぞんざいに扱うことのない祖父が、お金をこんな風に放り出し、戸も閉めないままに出て行ったことが信じられなくもありました。
けれどこうしてぐずぐずしている間にも、祖父と李大龍が蔵の中に入って行ってしまうかと思うと、小さな頭を悩ます様々な考えは頭の中から滑り落ちるが如く掻き消えて、二人を追いかけるべく大急ぎで飛び出しました。祖父に倣って、戸は閉めないままにしておいたことがほんの少し気がかりでしたが、とにもかくにも一刻も早く二人に追いつこうと必死でした。
母屋の裏手に向かって庭を駆けて行くと、入口の木戸が大きく開け放たれた蔵が見え、わたしの足は知らず速度が緩まりました。
田舎の古い家にはよくあることですが、我が家の蔵というのはほとんど母屋と変わらないほどの大きさで、実際昔は住み込みで働いていた使用人たちの住居として使われていたそうでした。
わたしは物心ついた頃から、この蔵が何故かずっと怖くて仕方がありませんでした。ゆうべ食卓で父が言ったようにほぼ一年中閉ざされているこの蔵は、わたしには我が家の敷地にありながら、もう一棟別の、誰か他人の家が建っているような、全くわたしの関知しえない他所の領域であるかのように感じるのでした。
もっと言ってしまうなら、わたしはその大きくて古い蔵を見るといつも、どこか別の世界に引きずり込まれるような気になって、どうしようもない恐怖を感じてしまうのでした。それでわたしは一人庭で遊ぶときなどにも、決して蔵の近くに近寄ったりすることはありませんでした。
歩むにつれて次第に目前に迫って来る蔵の入り口の奥に巨大な漆黒の空間を垣間見るような思いに晒されると、その暗黒の虚空が大口を開けてわたしを飲み込もうとしている想像に襲われて、途端にお腹の底がきゅうっと縮み上がるようでした。
蔵の入口のすぐ手前まで来ると、わたしの足は完全に動きを止め、それどころかぴたりと地面に吸い付いたようになってしまいました。開け放たれた入口からはどろりと濃い墨のような闇が吐き出され、その暗い闇の向こうには何か恐ろしいもの──たとえば昨夜こども部屋の暗がりに蠢いていた妖しく禍々しい生き物たちが潜んでいるという想像がひっきりなしにわたしの体にぶつかっては通り過ぎていくようでした。蔵の奥から流れ出してきたひんやりと冷たい空気が分厚いカーディガン越しに絡みつき、思わず身震いをして後ずさりました。
中に入るのはあきらめて家に戻ろうかと思い始めたとき、低くぼそぼそとしゃべる祖父と李大龍の声が聞こえました。その瞬間、気がつくとわたしはほとんど反射的に蔵の内に飛び込んでいました。押し寄せる真っ暗な闇の洪水に圧倒されましたが、しかし恐慌を来すよりも前に、わたしの目はその暗い闇にわずかな光の帯を描いている明かり取りの窓があるのを見て取りました。そのわずかな外の光に縋って、埃と蜘蛛の糸をかぶった古い道具や機械などで埋まる蔵の中を恐る恐る見回すうちに、暗闇にも目が慣れてきました。
しかし闇に目が慣れたとはいえ、不安や恐怖心までがなくなったわけではありませんでしたから、薄暗い蔵の埃とカビの入り混じった空気に心は押し潰されそうでした。やはり踵を返して外の世界に戻ろうかと思い始めた矢先、奥の方に細い木の梯子がかかっているのを見つけました。わたしはぐっと下唇を噛んで、震える足を無理やりに梯子の方へと運びました。
長い間使われていなかったことが窺える古い木製の梯子を見上げると、上の方に一層密度の濃い暗闇の漂う空間が広がっているのが見えました。梯子の先はその濃い闇に吸い込まれるように消えていました。とてものぼる勇気は出ない……と思っていると、再び低い話し声が聞こえてきました。その声が二階から梯子を伝って下りて来ることに気がつくと、わたしは思い切って梯子に足をかけ、一段のぼってみました。ぎしぎしと軋む音がしたので、一度地面に下りて履いていたつっかけを脱ぐと、出来得る限り音を立てないように注意しながら、そろそろと梯子の上を目指して行きました。
けれどこうしてぐずぐずしている間にも、祖父と李大龍が蔵の中に入って行ってしまうかと思うと、小さな頭を悩ます様々な考えは頭の中から滑り落ちるが如く掻き消えて、二人を追いかけるべく大急ぎで飛び出しました。祖父に倣って、戸は閉めないままにしておいたことがほんの少し気がかりでしたが、とにもかくにも一刻も早く二人に追いつこうと必死でした。
母屋の裏手に向かって庭を駆けて行くと、入口の木戸が大きく開け放たれた蔵が見え、わたしの足は知らず速度が緩まりました。
田舎の古い家にはよくあることですが、我が家の蔵というのはほとんど母屋と変わらないほどの大きさで、実際昔は住み込みで働いていた使用人たちの住居として使われていたそうでした。
わたしは物心ついた頃から、この蔵が何故かずっと怖くて仕方がありませんでした。ゆうべ食卓で父が言ったようにほぼ一年中閉ざされているこの蔵は、わたしには我が家の敷地にありながら、もう一棟別の、誰か他人の家が建っているような、全くわたしの関知しえない他所の領域であるかのように感じるのでした。
もっと言ってしまうなら、わたしはその大きくて古い蔵を見るといつも、どこか別の世界に引きずり込まれるような気になって、どうしようもない恐怖を感じてしまうのでした。それでわたしは一人庭で遊ぶときなどにも、決して蔵の近くに近寄ったりすることはありませんでした。
歩むにつれて次第に目前に迫って来る蔵の入り口の奥に巨大な漆黒の空間を垣間見るような思いに晒されると、その暗黒の虚空が大口を開けてわたしを飲み込もうとしている想像に襲われて、途端にお腹の底がきゅうっと縮み上がるようでした。
蔵の入口のすぐ手前まで来ると、わたしの足は完全に動きを止め、それどころかぴたりと地面に吸い付いたようになってしまいました。開け放たれた入口からはどろりと濃い墨のような闇が吐き出され、その暗い闇の向こうには何か恐ろしいもの──たとえば昨夜こども部屋の暗がりに蠢いていた妖しく禍々しい生き物たちが潜んでいるという想像がひっきりなしにわたしの体にぶつかっては通り過ぎていくようでした。蔵の奥から流れ出してきたひんやりと冷たい空気が分厚いカーディガン越しに絡みつき、思わず身震いをして後ずさりました。
中に入るのはあきらめて家に戻ろうかと思い始めたとき、低くぼそぼそとしゃべる祖父と李大龍の声が聞こえました。その瞬間、気がつくとわたしはほとんど反射的に蔵の内に飛び込んでいました。押し寄せる真っ暗な闇の洪水に圧倒されましたが、しかし恐慌を来すよりも前に、わたしの目はその暗い闇にわずかな光の帯を描いている明かり取りの窓があるのを見て取りました。そのわずかな外の光に縋って、埃と蜘蛛の糸をかぶった古い道具や機械などで埋まる蔵の中を恐る恐る見回すうちに、暗闇にも目が慣れてきました。
しかし闇に目が慣れたとはいえ、不安や恐怖心までがなくなったわけではありませんでしたから、薄暗い蔵の埃とカビの入り混じった空気に心は押し潰されそうでした。やはり踵を返して外の世界に戻ろうかと思い始めた矢先、奥の方に細い木の梯子がかかっているのを見つけました。わたしはぐっと下唇を噛んで、震える足を無理やりに梯子の方へと運びました。
長い間使われていなかったことが窺える古い木製の梯子を見上げると、上の方に一層密度の濃い暗闇の漂う空間が広がっているのが見えました。梯子の先はその濃い闇に吸い込まれるように消えていました。とてものぼる勇気は出ない……と思っていると、再び低い話し声が聞こえてきました。その声が二階から梯子を伝って下りて来ることに気がつくと、わたしは思い切って梯子に足をかけ、一段のぼってみました。ぎしぎしと軋む音がしたので、一度地面に下りて履いていたつっかけを脱ぐと、出来得る限り音を立てないように注意しながら、そろそろと梯子の上を目指して行きました。
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