18 / 36
五十崎檀子の手記
十六
しおりを挟む
李大龍の腕が露わになっていくにつれ、わたしは息を呑まずにはいられませんでした。そしてそれは祖父も同じらしく、ぎくりと身を固くして、慄然と息を詰めた気配が廊下の角の柱の陰に身を隠したわたしの元にまで伝わってきました。
肘の辺りまで袖をまくった李大龍は、両腕を祖父の前に掲げるように持ち上げました。その腕には、漢字と記号のようなものとを組み合わせた黒い文字がびっしりと隙間なく並んであるのでした。それらはどうかすると気味の悪い触手や触覚を持った蟲が蠢いているようにも見えて、それがわたしに昨日の──李大龍のスーツの袖の下にわずかに見えた文字の一部が魚の尾鰭のように動いて見えたことを思い出させ、知らず首筋がざわざわと粟立ちました。
李大龍は次にネクタイをゆるめ、きっちりと一番上まで留めていたシャツのボタンの上段を三つほど外して胸元を開いて見せました。まずくっきりと浮き出た鎖骨が目に入りましたが、すぐにわたしの目はその鎖骨より下の、彼の白い肌を覆い尽くす奇妙な黒い文字の群れに釘づけになりました。一瞬、それらの文字が李大龍のシャツの中に身を隠そうと蠢動したように見え、息を呑んで目を凝らしましたが、文字の群れは李大龍の肌の上でひっそりと息を潜めているだけでした。
わたしは気味悪さを覚える一方で、うすぼんやりとではありましたが入れ墨というものがどうやって施されるのかを知っていましたから──これは祖父の会社で働く人たちの中に、筋肉の盛り上がった背中や肩などに和彫りの墨の入っている人が何人かいたためですが──これほどに夥しい文字が優美な柳のような李大龍の体中、その皮膚という皮膚に刺突され、墨が流し入れられる光景などを思い描くと、いったいどれほどの苦痛を伴うものであったかと想像し、慄然とせずにはいられませんでした。
そのとき祖父がふうっと大きく息を吐き出して、手の甲で額をぐっと拭うのが見えました。家紋の染め抜かれた羽織の内側で背中が小刻みに震えているようでした。
「……檀子は昨日、それを見たというわけか……」
かすれた声でひとりごとのように言った祖父に、それまでずっと口を閉ざしていた李大龍が、やはり奇妙に抑揚のついた日本語で、
「お孫さんは、熱が出たでしょう」
思いがけず李大龍がわたしのことを話題にしたのが耳に入ると、全身は火がついたような熱さになり、昨夜の発熱をも知っているような口ぶりに何故か羞恥心が湧き上がってきて、心臓はどきどきと激しく鳴っていました。
李大龍は滴る水音を思わせる声で続けました。
「あなたのお父様と初めてお会いしたとき、お父様はまだ幼いお子さんでしたが、やはり熱を出していました。ときどき、お子さんの中には敏感に反応する子がいるのです」
李大龍の言葉にいよいよ驚きを大きくしていると、祖父が一瞬大きく息を呑んだらしい気配がしました。それからまるで糸の切れた操り人形のようにがくりと肩を落とし、
「……あんたは李大龍なのか……。親父が言ったことは、ほんとうだったんだな……」
そう絞り出すようにして言った祖父の背中は普段より一回りも二回りも小さく見えました。
李大龍は無言でそんな祖父を見ていましたが、やがてまくり上げていた袖を静かに下ろすとシャツのボタンを留め直し、ネクタイをまた元のようにきちんと締めました。そして猫のように目を細めると、力なくうつむく祖父に観察するような視線を送りながら、
「あなたはずいぶんおじい様に似ています。生き写しと言っても良いくらいです。けれどそうやってうつむいたときの鼻の辺りなどは、幼い時分のお父様を思い出します」
李大龍の言葉にますます深く項垂れた祖父はまるで萎れた青菜のようでした。いつも綺麗に整えられている祖父のえり首が、このときほど寒々と頼りなげに見えたことはありませんでした。
しかし実のところそのときのわたしの頭の中には李大龍の言葉が山に轟く雪解けの音声のように響いていたせいで、祖父がどんな心情であったかということにまで思いを馳せる充分な余裕などはありませんでした。李大龍がわたしの曽祖父のみならず、高祖父のことも知っているらしいとわかった以上、冷静ではいられないのも当然のことでした。
いったいどうしてまだ若い彼が、しかも中国から来たという李大龍が、こんな片田舎に住んでいた曽祖父や高祖父を知っているというのか、いくら考えても頭はますます混乱するばかりで、一向に合点がいきませんでした。
ですが、どういうからくりがあるにせよ、李大龍が何かしら我が家と関係があるらしいことを覚ったわたしの胸は弥が上にも高鳴り、全身の血は興奮に渦巻いていました。
李大龍は式台に置いていたぼろぼろの旅行鞄を持ち上げると、昨日母にしたのと同じように、鞄の口を開いて中に詰まった紙幣の束を見せました。しかし祖父は母の話を聞いていたせいか、特別に驚くような素振りも見せず、静かに首を横に振りました。
「もらう道理はない」
すると李大龍は穏やかな、しかしどこか有無を言わさぬ口調で、
「決まりですから、納めてください」
そう言って、鞄から次々と紙幣の束を取り出し、祖父の腕の中に積み上げていきました。
祖父は俯いたまま、李大龍が紙幣を自分の腕に重ね上げていくのを見ているようでしたが、わたしにはいつになく小さく、まるで少年のそれのように頼りないその背中しか見ることはできませんでした。
「蔵の中を拝見できますか」
「……ああ、もちろんだとも……」
力なく頷くと、祖父は抱えていた紙幣の山を無造作に下駄箱の上に置きました。いくつか祖父の腕からこぼれるように土間の上に落ちるのが見えましたが、祖父はそれらを拾い上げるでもなく、土間に下りて草履を履くと、玄関の戸も閉めないまま李大龍を伴って蔵の方へと歩いて行きました。
わたしは慌てて柱の陰から飛び出しました。土間には紙幣の束がいくつかと、落ちた拍子に白い帯封が切れたらしく、ばらけた数枚が冷たい地面に散っていました。
肘の辺りまで袖をまくった李大龍は、両腕を祖父の前に掲げるように持ち上げました。その腕には、漢字と記号のようなものとを組み合わせた黒い文字がびっしりと隙間なく並んであるのでした。それらはどうかすると気味の悪い触手や触覚を持った蟲が蠢いているようにも見えて、それがわたしに昨日の──李大龍のスーツの袖の下にわずかに見えた文字の一部が魚の尾鰭のように動いて見えたことを思い出させ、知らず首筋がざわざわと粟立ちました。
李大龍は次にネクタイをゆるめ、きっちりと一番上まで留めていたシャツのボタンの上段を三つほど外して胸元を開いて見せました。まずくっきりと浮き出た鎖骨が目に入りましたが、すぐにわたしの目はその鎖骨より下の、彼の白い肌を覆い尽くす奇妙な黒い文字の群れに釘づけになりました。一瞬、それらの文字が李大龍のシャツの中に身を隠そうと蠢動したように見え、息を呑んで目を凝らしましたが、文字の群れは李大龍の肌の上でひっそりと息を潜めているだけでした。
わたしは気味悪さを覚える一方で、うすぼんやりとではありましたが入れ墨というものがどうやって施されるのかを知っていましたから──これは祖父の会社で働く人たちの中に、筋肉の盛り上がった背中や肩などに和彫りの墨の入っている人が何人かいたためですが──これほどに夥しい文字が優美な柳のような李大龍の体中、その皮膚という皮膚に刺突され、墨が流し入れられる光景などを思い描くと、いったいどれほどの苦痛を伴うものであったかと想像し、慄然とせずにはいられませんでした。
そのとき祖父がふうっと大きく息を吐き出して、手の甲で額をぐっと拭うのが見えました。家紋の染め抜かれた羽織の内側で背中が小刻みに震えているようでした。
「……檀子は昨日、それを見たというわけか……」
かすれた声でひとりごとのように言った祖父に、それまでずっと口を閉ざしていた李大龍が、やはり奇妙に抑揚のついた日本語で、
「お孫さんは、熱が出たでしょう」
思いがけず李大龍がわたしのことを話題にしたのが耳に入ると、全身は火がついたような熱さになり、昨夜の発熱をも知っているような口ぶりに何故か羞恥心が湧き上がってきて、心臓はどきどきと激しく鳴っていました。
李大龍は滴る水音を思わせる声で続けました。
「あなたのお父様と初めてお会いしたとき、お父様はまだ幼いお子さんでしたが、やはり熱を出していました。ときどき、お子さんの中には敏感に反応する子がいるのです」
李大龍の言葉にいよいよ驚きを大きくしていると、祖父が一瞬大きく息を呑んだらしい気配がしました。それからまるで糸の切れた操り人形のようにがくりと肩を落とし、
「……あんたは李大龍なのか……。親父が言ったことは、ほんとうだったんだな……」
そう絞り出すようにして言った祖父の背中は普段より一回りも二回りも小さく見えました。
李大龍は無言でそんな祖父を見ていましたが、やがてまくり上げていた袖を静かに下ろすとシャツのボタンを留め直し、ネクタイをまた元のようにきちんと締めました。そして猫のように目を細めると、力なくうつむく祖父に観察するような視線を送りながら、
「あなたはずいぶんおじい様に似ています。生き写しと言っても良いくらいです。けれどそうやってうつむいたときの鼻の辺りなどは、幼い時分のお父様を思い出します」
李大龍の言葉にますます深く項垂れた祖父はまるで萎れた青菜のようでした。いつも綺麗に整えられている祖父のえり首が、このときほど寒々と頼りなげに見えたことはありませんでした。
しかし実のところそのときのわたしの頭の中には李大龍の言葉が山に轟く雪解けの音声のように響いていたせいで、祖父がどんな心情であったかということにまで思いを馳せる充分な余裕などはありませんでした。李大龍がわたしの曽祖父のみならず、高祖父のことも知っているらしいとわかった以上、冷静ではいられないのも当然のことでした。
いったいどうしてまだ若い彼が、しかも中国から来たという李大龍が、こんな片田舎に住んでいた曽祖父や高祖父を知っているというのか、いくら考えても頭はますます混乱するばかりで、一向に合点がいきませんでした。
ですが、どういうからくりがあるにせよ、李大龍が何かしら我が家と関係があるらしいことを覚ったわたしの胸は弥が上にも高鳴り、全身の血は興奮に渦巻いていました。
李大龍は式台に置いていたぼろぼろの旅行鞄を持ち上げると、昨日母にしたのと同じように、鞄の口を開いて中に詰まった紙幣の束を見せました。しかし祖父は母の話を聞いていたせいか、特別に驚くような素振りも見せず、静かに首を横に振りました。
「もらう道理はない」
すると李大龍は穏やかな、しかしどこか有無を言わさぬ口調で、
「決まりですから、納めてください」
そう言って、鞄から次々と紙幣の束を取り出し、祖父の腕の中に積み上げていきました。
祖父は俯いたまま、李大龍が紙幣を自分の腕に重ね上げていくのを見ているようでしたが、わたしにはいつになく小さく、まるで少年のそれのように頼りないその背中しか見ることはできませんでした。
「蔵の中を拝見できますか」
「……ああ、もちろんだとも……」
力なく頷くと、祖父は抱えていた紙幣の山を無造作に下駄箱の上に置きました。いくつか祖父の腕からこぼれるように土間の上に落ちるのが見えましたが、祖父はそれらを拾い上げるでもなく、土間に下りて草履を履くと、玄関の戸も閉めないまま李大龍を伴って蔵の方へと歩いて行きました。
わたしは慌てて柱の陰から飛び出しました。土間には紙幣の束がいくつかと、落ちた拍子に白い帯封が切れたらしく、ばらけた数枚が冷たい地面に散っていました。
0
あなたにおすすめの小説
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる