孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

十五

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 母が家を出て行ってしまうと、途端にぴりぴりと肌を刺激するような静寂が家中に広がりました。そしてその緊張に満ちた静けさの中心が、他ならぬ祖父であることは疑いの余地がありませんでした。わたしは押し潰されそうに重く固い空気が充満する中、襖の陰に立ち尽くしたまま、祖父の前に出て行こうか、それとも自分の部屋に戻るべきかと思案に暮れていました。
 病み上がりのときにはとりわけ祖父が甘やかしてくれることを何度も経験していたわたしは、今度もまたきっとあの大きな手で頭を撫でてもらって、祖母には内緒と言いつつ甘い飴玉などをもらえるかもしれないと期待し、すぐにも無邪気を装って祖父の前に出て行きたいと思わないこともありませんでした。しかし目の前で一人座る祖父は常になく殺気立っているようにも見え、どうにも出て行きづらい雰囲気だったのです。
 雪が少ない年とはいえ、山の冬の寒さはそれでなくても古くて暗い家屋の奥に佇んでいるわたしの体に容赦ない冷気の鞭を振るっていました。足の裏からは冷たい冬の手が這うように上がって来て、体中の温もりを吸い取っていくようでした。
 わたしはぶるりと身を震わせ、カーディガンの前を掻き合わせながら、やはり自室に戻ってあたたかい布団に潜り込もうと決めました。今度は絶対に眠らないようにすれば大丈夫……と自分に言い聞かせるように思って、そっと踵を返そうとしたときでした。玄関の引戸がガラガラと開く音に続いて、薄暗い家の中の重く沈殿した空気に波紋を広げるような声が聞こえました。まるで優美な魚が空中を泳いでわたしの元にやって来るような幻想を目の前に思い描かせるその声は、奇妙に響くアクセントの日本語で、
「ごめんください」
 と、おとないを告げました。李大龍その人に違いありませんでした。その声を聞いた途端、寒さを感じていたことなどはすっかり消え去ってしまい、全身の血が逆流するような喜びが天を衝きました。
 しかしそんなわたしとは対照的に、李大龍の声を聞いた祖父は一瞬ぎくりと体を強張らせると、ひと呼吸おいた後ようやく意を決したように唇を固く引き結んで立ち上がり、白い足袋の足裏で畳の上を大股に歩いて障子を開けました。曇天に奥庭の寒椿の濃い赤色が奇妙に映えているのに目を向けた祖父は、一瞬躊躇した後、ぐっと胸を反らせると、みしみしと音立てながらくれ縁・・・を歩き出しました。このくれ縁はちょうど周り廊下の要領で玄関にまで通じていましたから、祖父が李大龍を出迎えに行ったことは明らかでした。
 わたしは急いで襖を開けて座敷に飛び込むと、庭の椿にちらりと目をやりながら祖父の後を追って──もちろん足音を忍ばせることは忘れませんでしたが──玄関の方へと小走りに向かいました。
 廊下の角のところで立ち止まり、こっそりと覗いて見ますと、家紋の染め抜かれた羽織の背中をこちらに向けた祖父が、上り框から落ちんばかりにぐいと身を乗り出して仁王立ちに突っ立っているのが見えました。その祖父と向き合う形で、冷たい土間にはひっそりと揺れる蝋燭の炎の影のような李大龍が佇んでいました。
 彼の姿を見た途端、あふれるような嬉しさが込み上げる一方で、心臓が目には見えない手でぎゅっと握りしめられたように苦しくなりました。それはまた痛みをも伴い、まるで指先をナイフで深く切ってしまった後で、塞がりきらない傷が、血管を流れる血の脈動するのに合わせ、ずきんずきんと痛む感じに似ていました。
 李大龍の周囲には、やはりまるで意思をもった生き物のように揺らめく妖気が見えました。すると昨夜の夢が、お祭りの夜に神社の境内で舞われる御神楽の一幕のように鮮明に目の前に浮かび上がって、わたしは思わず身震いをしました。しかしそれは今や不思議にも、恐怖のための震えと言うよりは、たとえば夏休みなどに町のデパートに赴いたとき、広い催事場に設けられたお化け小屋などに入ろうとする前に感じる、一種期待に満ちた興奮が引き起こす武者震いのようなものとして認識されるのでした。
「あんたが、李大龍か」
 祖父の固い声が玄関に響きました。一見すると、祖父は威圧的に李大龍を見下ろしているようにも見えるのでしたが、しかしその実、祖父が動揺していることが明らかに見て取れました。
「……まさか、ほんとうにこの日が来るとは……。あんたはほんとうに、親父の言っていたあの李大龍・・・・・なのか……?」
 わたしは思わず柱の陰から身を乗り出しそうになって慌てて頭を引っ込めましたが、内心は驚きで騒然となっていました。祖父の口ぶりは、わたしの曽祖父が李大龍のことを知っていたと窺わせるものでした。いったいどういうことなのかと、わたしは聞き耳を立てる耳にさらに神経を集中させました。
 李大龍は黙ったまま祖父の顔を見上げていました。その青い瞳が玄関の薄暗がりの中、俄かに色を濃くしたように見え、わたしは思わずごくりと唾を飲み込みました。
「……親父はあんたがいつか必ず来るだろうと言っていた……蔵の、あの箱・・・のために……。しかしあんたはほんとうに李大龍なのか? 確かに見たところは親父の言った外見そのままのようだが……」
 わたしは曽祖父がやはり李大龍を知っているのだと言うことを確信しましたが、しかしどう見ても二十代の半ばほどにしか見えない李大龍の見た目が、「曽祖父の言っていた通り」とはいったいどういうことなのかと、すっかり頭を混乱させていました。
「──親父はあんたが……──、李大龍という男は、生きた霊符・・・・・だとも言っていたが……」
 緊張をはらんだ声で祖父が言うと、李大龍はぼろぼろの黒い旅行鞄をおもむろに式台の上に置き、黒いスーツの両袖をその下の白いシャツごとまくり始めました。


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