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五十崎檀子の手記
十四
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そのとき部屋の向こうの奥庭に面した縁側へ出るための障子が開いて、やはり着物姿の祖母が顔を出しました。祖母の向こうに見える庭の寒椿の上に、どんよりと重そうな雲が空いっぱいに広がっているのを見ると、なんとも言えず不安な気持ちを掻き立てるようで、一層心が萎んでいきました。
「お父さん、わたしはもう行きますよ。婦人会の始まる時間にはずいぶん早いですけど、いつ例のお客が来るかわかりませんから」
祖母の剣のある物言いにも取り合わず、半ば心ここにあらずといった様子の祖父は、難しい表情を浮かべたまま無言で頷きました。
「それじゃ行ってきます。お昼は聡子さんに言いつけてありますから」
帯を直しながら歩き出そうとした祖母を、祖父は急に我に返ったように引き留めると、しかつめらしい顔で、
「聡子さんに、手が空いたらちょっとこっちへ顔を出すように言ってくれんか。頼みたいことがあるのでな」
祖母は返事の代わりにため息を吐き、「どこの馬の骨ともわからない相手に、紋付袴なんか着なくても……」とぶつぶつ言いながら障子を閉めて去って行きました。
程なく、障子の向こうには廊下に膝を着いた母の影が揺れ、
「お義父さん、聡子です」
そっと障子を開けた母は台所で煮炊き物をしていたらしく、鍋から上がる蒸気のためにしっとりと潤いを湛えた髪や頬を気にしながら微笑みました。
「ご用ですか?」
「うん。……檀子の具合は、どうかな?」
「ええ、もう熱はすっかり下がっていますし、布団に横になっているのも退屈そうなぐらいでしたから、大丈夫だと思います」
「……そうか」
祖父は何事か思案するような顔つきで黒光りのする卓の上を見つめていましたが、不意に顔を上げ、
「浄岳寺の住職が、檀子の体があまり丈夫じゃないことをずいぶんと心配していることは聡子さんも知っているだろう?」
「え? ええ、それはもちろん……」
出し抜けに切り出された話に、いささか戸惑ったような瞳で頷いている母を見ながら、わたしは如何にも人の好い笑顔でお茶などをふるまってくれる浄岳寺の住職の丸い顔を思い浮かべました。この祖父より一つ年上の世話好きな住職は、祖父とはいわゆる竹馬の友の間柄であり、幼少の時分から親しく付き合ってきた昵懇の仲ということもあって、わたしのことも大変可愛がってくれているのでした。その住職が、わたしの体の弱いことを常に気に掛けてくれていることは、もちろんわたし自身も知っていました。
「先だって檀家の寄り合いで寺に行ったときにも、それはえらく檀子を心配してな。珍しい漢方が手に入ったから、煎じて飲ませてやるといいと、こう言うんだ。それで、もう既に祈祷は済ませてあるから、都合のいいときに取りに来るように、しかし檀子のためにはなるべく早い方がいいだろう、とまぁこういう訳なんだよ」
「まぁ、それは有り難いことで……」
頷きながらも母は話の先が見えずにいよいよ困惑した様子でいましたが、祖父が次にこう続けたのを聞くと、目を丸く見開きました。
「すまんが聡子さん、ちょっと寺に行って、貰って来てくれんか」
「今からですか?」
思わず大きな声で聞き返した後、母は驚きに言葉を詰まらせながら、
「でもあの、昨日の、その、お客様がいらっしゃるのじゃありません? それに、お昼の用意もまだですし……」
わたしは母が困惑するのも当然だと思いました。確かに浄岳寺の住職は善い人でしたが、大変話好きな性質で、一度つかまってしまうと何時間も付き合わされるものですから、村の人たちなどもよほど暇なとき以外はなるべく寺に近寄らないようにしているぐらいなのでした。そんなところに、ましてや来客があるとわかっていながらお使いを頼もうというのですから──それも特別に急を要する用事というわけでもないのに──母でなくても戸惑ったろうことは間違いありません。
「なに、明日来ると言っただけで、はっきりした時間は告げなかったのだろう? さすがに昼飯時を狙って来るようなことはしないだろうから、この時刻になっても現れないところを見ると、たぶん午後以降に来るつもりだろう。だから今のうちに貰って来て、檀子に飲ませるといい。昼の心配なら大丈夫だよ。まだあまり腹は空かないから。もし聡子さんが戻るまでのところで檀子が起きてきたら、うどんでも作って食べさせておくよ」
「は、はい……いえ、あの、でも……」
「聡子さん、わしも檀子のことはずっと心配してきたが、昨夜の様子を見ていてやはり心配になってな。風邪というわけでもなさそうなのに高熱にうなされて叫び声を上げるというのは、どうも尋常ではないような気がしてならない。迷信深いことを言う老人だと笑うかもしれないが、もしも檀子の体に何か悪いものがあったとしても、祈祷してもらった薬を飲ませれば病魔も退散するんじゃなかろうかと思わないではおられんのだよ」
「あの……それは、そうかもしれませんが……」
「それにあまり長く住職を待たせるのも好意を無駄にするようで気が引ける。まさか祈祷の効果が失せるようなこともあるまいが、なるべく早く飲ませるのがあの子のためにもいいだろうと思えて仕方がないんだよ」
「……わかりました。それでは行ってまいります」
完全に納得がいったわけではなさそうでしたが、祖父がどうしても行かせたいらしいことを覚ったのでしょう、母は小さく頷いて静かに障子を閉めました。しばらくは障子に逡巡するような母の影が映っていましたが、やがてそっと立ち上がると廊下を歩いて行きました。
「お父さん、わたしはもう行きますよ。婦人会の始まる時間にはずいぶん早いですけど、いつ例のお客が来るかわかりませんから」
祖母の剣のある物言いにも取り合わず、半ば心ここにあらずといった様子の祖父は、難しい表情を浮かべたまま無言で頷きました。
「それじゃ行ってきます。お昼は聡子さんに言いつけてありますから」
帯を直しながら歩き出そうとした祖母を、祖父は急に我に返ったように引き留めると、しかつめらしい顔で、
「聡子さんに、手が空いたらちょっとこっちへ顔を出すように言ってくれんか。頼みたいことがあるのでな」
祖母は返事の代わりにため息を吐き、「どこの馬の骨ともわからない相手に、紋付袴なんか着なくても……」とぶつぶつ言いながら障子を閉めて去って行きました。
程なく、障子の向こうには廊下に膝を着いた母の影が揺れ、
「お義父さん、聡子です」
そっと障子を開けた母は台所で煮炊き物をしていたらしく、鍋から上がる蒸気のためにしっとりと潤いを湛えた髪や頬を気にしながら微笑みました。
「ご用ですか?」
「うん。……檀子の具合は、どうかな?」
「ええ、もう熱はすっかり下がっていますし、布団に横になっているのも退屈そうなぐらいでしたから、大丈夫だと思います」
「……そうか」
祖父は何事か思案するような顔つきで黒光りのする卓の上を見つめていましたが、不意に顔を上げ、
「浄岳寺の住職が、檀子の体があまり丈夫じゃないことをずいぶんと心配していることは聡子さんも知っているだろう?」
「え? ええ、それはもちろん……」
出し抜けに切り出された話に、いささか戸惑ったような瞳で頷いている母を見ながら、わたしは如何にも人の好い笑顔でお茶などをふるまってくれる浄岳寺の住職の丸い顔を思い浮かべました。この祖父より一つ年上の世話好きな住職は、祖父とはいわゆる竹馬の友の間柄であり、幼少の時分から親しく付き合ってきた昵懇の仲ということもあって、わたしのことも大変可愛がってくれているのでした。その住職が、わたしの体の弱いことを常に気に掛けてくれていることは、もちろんわたし自身も知っていました。
「先だって檀家の寄り合いで寺に行ったときにも、それはえらく檀子を心配してな。珍しい漢方が手に入ったから、煎じて飲ませてやるといいと、こう言うんだ。それで、もう既に祈祷は済ませてあるから、都合のいいときに取りに来るように、しかし檀子のためにはなるべく早い方がいいだろう、とまぁこういう訳なんだよ」
「まぁ、それは有り難いことで……」
頷きながらも母は話の先が見えずにいよいよ困惑した様子でいましたが、祖父が次にこう続けたのを聞くと、目を丸く見開きました。
「すまんが聡子さん、ちょっと寺に行って、貰って来てくれんか」
「今からですか?」
思わず大きな声で聞き返した後、母は驚きに言葉を詰まらせながら、
「でもあの、昨日の、その、お客様がいらっしゃるのじゃありません? それに、お昼の用意もまだですし……」
わたしは母が困惑するのも当然だと思いました。確かに浄岳寺の住職は善い人でしたが、大変話好きな性質で、一度つかまってしまうと何時間も付き合わされるものですから、村の人たちなどもよほど暇なとき以外はなるべく寺に近寄らないようにしているぐらいなのでした。そんなところに、ましてや来客があるとわかっていながらお使いを頼もうというのですから──それも特別に急を要する用事というわけでもないのに──母でなくても戸惑ったろうことは間違いありません。
「なに、明日来ると言っただけで、はっきりした時間は告げなかったのだろう? さすがに昼飯時を狙って来るようなことはしないだろうから、この時刻になっても現れないところを見ると、たぶん午後以降に来るつもりだろう。だから今のうちに貰って来て、檀子に飲ませるといい。昼の心配なら大丈夫だよ。まだあまり腹は空かないから。もし聡子さんが戻るまでのところで檀子が起きてきたら、うどんでも作って食べさせておくよ」
「は、はい……いえ、あの、でも……」
「聡子さん、わしも檀子のことはずっと心配してきたが、昨夜の様子を見ていてやはり心配になってな。風邪というわけでもなさそうなのに高熱にうなされて叫び声を上げるというのは、どうも尋常ではないような気がしてならない。迷信深いことを言う老人だと笑うかもしれないが、もしも檀子の体に何か悪いものがあったとしても、祈祷してもらった薬を飲ませれば病魔も退散するんじゃなかろうかと思わないではおられんのだよ」
「あの……それは、そうかもしれませんが……」
「それにあまり長く住職を待たせるのも好意を無駄にするようで気が引ける。まさか祈祷の効果が失せるようなこともあるまいが、なるべく早く飲ませるのがあの子のためにもいいだろうと思えて仕方がないんだよ」
「……わかりました。それでは行ってまいります」
完全に納得がいったわけではなさそうでしたが、祖父がどうしても行かせたいらしいことを覚ったのでしょう、母は小さく頷いて静かに障子を閉めました。しばらくは障子に逡巡するような母の影が映っていましたが、やがてそっと立ち上がると廊下を歩いて行きました。
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