ただの雑兵が、年上武士に溺愛された結果。

みどりのおおかみ

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三章

もうすこし、そばにいてくれ

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 弥生も半ばとなった。真昼だというのに、空はぼんやり薄暗い。雨が白く細い糸のように、天地を縫いつけているようだった。
 俺は手には手桶と手拭を持って、縁側の廊下を歩いていた。手桶の中の湯が、閉じた蓋の中で、ちゃぷちゃぷと揺れる。
 俺はふと、外廊下を渡る足を止めて、霧にけぶる山稜に目を遣った。静かだった。雨が土にしみいる音さえ聞こえる気がした。俺は湿気でべたつく足裏を気にしながら、また歩きだす。
 稽古の日から三日後、、忠頼はふたたび日吉郡へ戻って来た。しかし数日前、邸内での仕事を終えた忠頼は、早々と自室へ戻り、飯も食べずに横になった。
 次の日も、忠頼はひどく咳き込んでいて、熱もあった。それでもなお動こうとする忠頼を、周りの者が止めた。
 世話係や医師や祈祷師が、代わる代わる忠頼の下を訪れた。医師は、そこまで心配することはない、と言った。俺は出来る限り、忠頼の傍にいた。
「おれだ。入っていいか」
 俺は襖の前に立ったまま小声で言った。中はしんとしている。俺はゆっくり襖を引き、そこから中を覗いた。
 忠頼は横になって、目を瞑ったままでいる。
 俺は静かに部屋の中に入った。さっきまで起きていたのに、と思いながら、枕もとに桶などをそっと置き、褥の横に坐した。
 俺は忠頼の顔を、静かに覗き込む。顔色はそこまで悪くなかった。俺は、ほっと一安心する。
 冬の寒い頃、都と領地を、何度も行き来したせいかもしれない。この前の長雨が身体に堪えて、その疲れが出たのかもしれない。それに今は、季節の変わり目だ。身体に不調をきたす者も多かった。
 汗を拭いてやろうかと思ったが、それでは起きてしまうかもしれない、と思い、俺は逡巡する。
 代わりに俺は、じっと忠頼の顔を見つめていた。
 無防備に目を瞑っているその顔は、いつもの忠頼とは、ずいぶん印象が違う。
 きめ細かい、というわけではないが、なめらかで美しい肌。眉の上にある、小さな傷。
 俺はなんだか、珍しい物でも見るような気持ちだった。明るいうちにこうして彼の顔を近くで見るなど、今まで殆ど無かったことだ。
 鷹狩など、忠頼の外出に付いて行ったことはあった。だが、俺は弓が下手だし、忠頼はいつも沢山の従者に囲まれている。だから、こうして昼に、忠頼を近くで見られるのは、とても珍しい。
 俺は一つ息を着く。そしてごろりと横になり、忠頼の横顔を眺める。
――忠頼の隣にいると、心地が良いと感じるようになったのは、いつからだろう。
 多分それは、この男が俺を寝所に読んだ、あの夜からだ。その気持ちは、今もずっと続いている。
 ――いつからこんな、どうしようもない離れ難さを感じるようになったんだろう。
 この男の、その胸の中に隠し持っているものさえ、暴きたい。そんなふうに、いつから思うようになったのだろう。
――いつまで、一緒にいられるだろうか。
 俺はふと、孝太郎の言葉を思い出す。
――『この先、何が起こるかは、誰にもわからない』
 俺はぐっと目を瞑る。
 それは、戦いを生業とする人間が持つには、贅沢すぎる願望だと、分かっていた。それでも、思いは溢れた。
 出会ってから四年が過ぎた。長いような短いような年月の中で、沢山のことが、変わっていった。だが、未だにそれはどこか、現実味がなかった。これは夢だ、と誰かに言われれば、そうなのかと納得してしまいそうになるくらいに。
――一緒に、いたい。たとえ、それが長くなくても。俺が死ぬより一秒でも長く、こいつが生きていてほしい。
 そんなことを考えているうちに、視界が、薄っすらとぼやける。俺は一つ息を吐く。
 胸が苦しくなってきて、俺は体を起こした。
――ここにいて、湿っぽくなっていても、仕方がない。源太に教えてもらった薬草を捜しに行くか。
 俺は少し鼻をすすり、立ち上がろうとした。
 と、その時、袖がつい、と引っぱられた。 褥の方を見やると、目を瞑ったままの忠頼が、笑っている。
「起きてたのかよ」
「朝、寝すぎて、眠れないんだ。それより、もう、見つめてはくれないのか」
  俺は舌打ちをしながら、手桶を忠頼の枕元に寄せた。湯気がのぼる桶に手ぬぐいを浸し、手早く絞る。
「それより起きろ。身体拭いてやるから」
 忠頼はゆっくりと上半身を起こすと、少し腫れた眼で俺を見つめた。
 俺は手早く忠頼の着物を脱がせる。いつの間にか、忠頼のちょっとした身の回りの世話をするのは、俺の役割になっていた。
 
 射手だからか、戦に出ている割には、忠頼の体には、あまり傷がない。だが、上腕には大きな傷があった。
「これ、いつの傷だ?」
 その傷があることは、前から知っていた。だが、まじまじと見るのは、初めてだ。
「十の頃だ。木から落ちた」
「泣いたか?」
「当たり前だ」
 忠頼は、苦笑しつつそう答える。俺は泣く忠頼を想像する。でも、それはなかなか上手くいかない。
 俺は、忠頼の生きていた時間を考えながら、腕や背中を丁寧に拭った。自分の知らない場所で、この体が生きてきて、そしていまここで触れている。それはある種の奇跡のような気がした。
俺は続けて訊く。
「この背中の傷は?」
 忠頼は、少し黙ってから、言った。
「川遊びをしていた時のものだ」
「ふうん」
 忠頼が川遊びをするというのも、やはり想像がつかない。
 着替えと清拭の世話が終わり、傍仕えが食事を運んできた。
 俺は粥と水、薬草が載った盆を脇に置き、茶碗と匙を取った。だが、忠頼は渋面を作ったまま、茶碗を見詰めている。
「どうした」
「食欲がない。それに、お前に給仕されるというのは慣れん」
「俺だって別に好きでやってるわけじゃねえよ。お前が給仕係から食わねえから、頼まれたんだよ。ていうかな、病人が文句言ってんじゃねえ。黙って世話されろ」
 俺は匙で飯を掬い、無理矢理に忠頼の口元に持って行く。忠頼は、にやにやと笑いだした。
「酷い言い草だ。お前に小姓は無理だな」。
 俺が忠頼に、薬だけでも飲ませようとしていると、ふと忠頼の目が、縁側の戸の方を向いた。
 俺もつられて忠頼の視線の先を追う。すると、黒い何かが、ふわりと床を跳んでいる野が見えた。
 トンボのような蝶のような姿のそれは、黒い翅をひらひらと羽ばたかせながら、床の少し上空をすべるように舞う。
 縁側の戸の隙間から、迷い込んできたらしいそれを見て、忠頼が呟く。
「カミサマトンボだ」
「は? 神様?」
 忠頼は軽く頷く。
「休んでるとき、翅が開いたり、閉じたりするだろう。それが、まるで、神仏に手を合わせているようだから――と聞いた。お前はあれを、何と呼ぶのだ」
「クロバトンボ」
「見たままだな」
 忠頼はそう言うと、また横になり、俺に背を向け掻巻をかぶってしまった。俺は掻巻の上から、忠頼を揺さぶる。
「おい、まだ飯食ってないぞ。お前、今日はまだ、何も食ってないんだろう」
「薬は飲んだ。自分の体は自分が一番わかる」   
「阿呆。飯は大事だぞ――俺の母親がよく、そう言っていた」
 それでも忠頼は起き上がることもなく、布団の中で目を閉じたままだ。俺が仕方なくお膳を下げ始めると、忠頼がぽつりと言った。
「おまえの両親は、病で亡くなったのか」
 俺は黙って、湯で手拭を濯いだ。そして再び忠頼の枕元に戻ると、手拭で忠頼の掌を拭う。
「――俺が七つの頃。村の傍で戦があった。ある日、手負いの武士が、俺たちの家に泊めてほしい、とやってきた。俺たちは武士を家に泊めた。だが次の日、追手が来た。そいつらは、俺の家族も匿っていた武士も、全員、殺した。俺は両親と兄と、妹と、弟とを、一度に失くした。俺はたまたま、山へ出かけていたから、死ねなかった」
 俺は、まるでそれが、他人の話のように話した。実際、俺にとって、それは靄がかかったように、遠い記憶だった。忠頼はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「『死ねなかった』、か」
 俺は、はっとして言う。
「いや、今も死にたいと思ってるわけじゃねえよ」
「……復讐のために、武士に?」
「それも――違うな。ただ、弱いままじゃ殺されるんだと思った。だから、強くなりたいと思った」
「そうか……辛い思いを、したな」
 ふと、忠頼の声が、俺の胸の内に、柔らかく染み込む。断絶していた記憶と、それに伴う感情に、僅かに、血が通うのを、俺は感じた。
 黒い羽根を持つトンボは、ふわふわと漂いながら、また戸の外に出ていく。
 雨が松の枝からしたたり、その下に置かれた岩に跳ねる音が聞こえる。
 手ぬぐいを手桶の蓋の上に起きながら、俺は忠頼に訊いた。
「お前の兄妹たちは? 健在か?」
  俺は忠頼の父母は見たことがあった。隠居しているがまだ生きていて、たまに出てきて忠頼と食事をしている。初めて忠頼の父親を見た時、俺は、『お前と比べて良く喋る父親だな』と言った。すると、忠頼は、『兄妹の中には、話し好きなものもいる』、と言っていた。
 忠頼は掻い巻きの中で体勢を変え、仰向けになる。
 しばらく虚空を見つめた後、忠頼はゆっくりと瞳を閉じた。
「俺の兄妹は、兄が四人。姉が一人。妹が一人だった。姉と妹の一人は、それぞれ嫁に行って、息災なはずだ」
「俺は五男で、他の兄は皆、亡くなった。まず、俺が元服する前の年に、長男と三男が亡くなった。流行り病だった。次男は、狩りの時に、獲物を深追いして崖から落ちた。四男はもともと身体が弱く、ずっと胸を患っていたが、咳が酷くなり、隠居を決め――そして二年後、息ができず亡くなった。俺が十八の歳だった」
 忠頼は静かに、淡々と喋りつづけた。
「葬式の時、俺は殆ど泣かなかった。母はそんな俺を、冷徹だと言って、さらに泣いた。だが、その実――俺はただ、その重圧に怯えていただけだった。兄たちの命を奪い手にした立場そのものも、父親の家臣たちが皆俺に傅くようになったのも、ただただ怖かった」
「……今も、怖いか?」
 忠頼は咳き込みながら、小さく首を振る。
「今はもう慣れたさ。だが、いささかの空虚が、いつも胸の内にある。これはいかんともしがたい」
――忠頼の心は多分、俺の心があるところより、ずっとずっと寒いところにある。
 俺は彼の上下する旨を静かに見つめる。
 暫く、忠頼は黙っていた。俺は頃合いを見計らい、そっと立ち上がろうとした。盆を下げて、粥を温めてもらえないか聞いてこよう、と思った。
「弥次郎」
 だが、小さな声に、俺は振り返った。
「……もう少し、傍にいてくれ」
「……わかった」
  俺は掻巻の中に手を入れ、忠頼の手を探り出して握る。
 俺は、忠頼のくるまっている掻巻に目を落としながら、静かに降り続く雨音を聞いていた。雨に降りこめられた室内は、少し息苦しい。
――自分は愛されてもいい人間だと、そして、愛を与えられる人間だと――そう、俺は思ってもいいのだろうか。
  俺は忠頼の手の感触を感じ、今、忠頼の傍にいることを想った。ふと、胸がいっぱいになり、俺はひっそりと、長い息を吐いた。
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