33 / 70
三章
もうすこし、そばにいてくれ
しおりを挟む
弥生も半ばとなった。真昼だというのに、空はぼんやり薄暗い。雨が白く細い糸のように、天地を縫いつけているようだった。
俺は手には手桶と手拭を持って、縁側の廊下を歩いていた。手桶の中の湯が、閉じた蓋の中で、ちゃぷちゃぷと揺れる。
俺はふと、外廊下を渡る足を止めて、霧にけぶる山稜に目を遣った。静かだった。雨が土にしみいる音さえ聞こえる気がした。俺は湿気でべたつく足裏を気にしながら、また歩きだす。
稽古の日から三日後、、忠頼はふたたび日吉郡へ戻って来た。しかし数日前、邸内での仕事を終えた忠頼は、早々と自室へ戻り、飯も食べずに横になった。
次の日も、忠頼はひどく咳き込んでいて、熱もあった。それでもなお動こうとする忠頼を、周りの者が止めた。
世話係や医師や祈祷師が、代わる代わる忠頼の下を訪れた。医師は、そこまで心配することはない、と言った。俺は出来る限り、忠頼の傍にいた。
「おれだ。入っていいか」
俺は襖の前に立ったまま小声で言った。中はしんとしている。俺はゆっくり襖を引き、そこから中を覗いた。
忠頼は横になって、目を瞑ったままでいる。
俺は静かに部屋の中に入った。さっきまで起きていたのに、と思いながら、枕もとに桶などをそっと置き、褥の横に坐した。
俺は忠頼の顔を、静かに覗き込む。顔色はそこまで悪くなかった。俺は、ほっと一安心する。
冬の寒い頃、都と領地を、何度も行き来したせいかもしれない。この前の長雨が身体に堪えて、その疲れが出たのかもしれない。それに今は、季節の変わり目だ。身体に不調をきたす者も多かった。
汗を拭いてやろうかと思ったが、それでは起きてしまうかもしれない、と思い、俺は逡巡する。
代わりに俺は、じっと忠頼の顔を見つめていた。
無防備に目を瞑っているその顔は、いつもの忠頼とは、ずいぶん印象が違う。
きめ細かい、というわけではないが、なめらかで美しい肌。眉の上にある、小さな傷。
俺はなんだか、珍しい物でも見るような気持ちだった。明るいうちにこうして彼の顔を近くで見るなど、今まで殆ど無かったことだ。
鷹狩など、忠頼の外出に付いて行ったことはあった。だが、俺は弓が下手だし、忠頼はいつも沢山の従者に囲まれている。だから、こうして昼に、忠頼を近くで見られるのは、とても珍しい。
俺は一つ息を着く。そしてごろりと横になり、忠頼の横顔を眺める。
――忠頼の隣にいると、心地が良いと感じるようになったのは、いつからだろう。
多分それは、この男が俺を寝所に読んだ、あの夜からだ。その気持ちは、今もずっと続いている。
――いつからこんな、どうしようもない離れ難さを感じるようになったんだろう。
この男の、その胸の中に隠し持っているものさえ、暴きたい。そんなふうに、いつから思うようになったのだろう。
――いつまで、一緒にいられるだろうか。
俺はふと、孝太郎の言葉を思い出す。
――『この先、何が起こるかは、誰にもわからない』
俺はぐっと目を瞑る。
それは、戦いを生業とする人間が持つには、贅沢すぎる願望だと、分かっていた。それでも、思いは溢れた。
出会ってから四年が過ぎた。長いような短いような年月の中で、沢山のことが、変わっていった。だが、未だにそれはどこか、現実味がなかった。これは夢だ、と誰かに言われれば、そうなのかと納得してしまいそうになるくらいに。
――一緒に、いたい。たとえ、それが長くなくても。俺が死ぬより一秒でも長く、こいつが生きていてほしい。
そんなことを考えているうちに、視界が、薄っすらとぼやける。俺は一つ息を吐く。
胸が苦しくなってきて、俺は体を起こした。
――ここにいて、湿っぽくなっていても、仕方がない。源太に教えてもらった薬草を捜しに行くか。
俺は少し鼻をすすり、立ち上がろうとした。
と、その時、袖がつい、と引っぱられた。 褥の方を見やると、目を瞑ったままの忠頼が、笑っている。
「起きてたのかよ」
「朝、寝すぎて、眠れないんだ。それより、もう、見つめてはくれないのか」
俺は舌打ちをしながら、手桶を忠頼の枕元に寄せた。湯気がのぼる桶に手ぬぐいを浸し、手早く絞る。
「それより起きろ。身体拭いてやるから」
忠頼はゆっくりと上半身を起こすと、少し腫れた眼で俺を見つめた。
俺は手早く忠頼の着物を脱がせる。いつの間にか、忠頼のちょっとした身の回りの世話をするのは、俺の役割になっていた。
射手だからか、戦に出ている割には、忠頼の体には、あまり傷がない。だが、上腕には大きな傷があった。
「これ、いつの傷だ?」
その傷があることは、前から知っていた。だが、まじまじと見るのは、初めてだ。
「十の頃だ。木から落ちた」
「泣いたか?」
「当たり前だ」
忠頼は、苦笑しつつそう答える。俺は泣く忠頼を想像する。でも、それはなかなか上手くいかない。
俺は、忠頼の生きていた時間を考えながら、腕や背中を丁寧に拭った。自分の知らない場所で、この体が生きてきて、そしていまここで触れている。それはある種の奇跡のような気がした。
俺は続けて訊く。
「この背中の傷は?」
忠頼は、少し黙ってから、言った。
「川遊びをしていた時のものだ」
「ふうん」
忠頼が川遊びをするというのも、やはり想像がつかない。
着替えと清拭の世話が終わり、傍仕えが食事を運んできた。
俺は粥と水、薬草が載った盆を脇に置き、茶碗と匙を取った。だが、忠頼は渋面を作ったまま、茶碗を見詰めている。
「どうした」
「食欲がない。それに、お前に給仕されるというのは慣れん」
「俺だって別に好きでやってるわけじゃねえよ。お前が給仕係から食わねえから、頼まれたんだよ。ていうかな、病人が文句言ってんじゃねえ。黙って世話されろ」
俺は匙で飯を掬い、無理矢理に忠頼の口元に持って行く。忠頼は、にやにやと笑いだした。
「酷い言い草だ。お前に小姓は無理だな」。
俺が忠頼に、薬だけでも飲ませようとしていると、ふと忠頼の目が、縁側の戸の方を向いた。
俺もつられて忠頼の視線の先を追う。すると、黒い何かが、ふわりと床を跳んでいる野が見えた。
トンボのような蝶のような姿のそれは、黒い翅をひらひらと羽ばたかせながら、床の少し上空をすべるように舞う。
縁側の戸の隙間から、迷い込んできたらしいそれを見て、忠頼が呟く。
「カミサマトンボだ」
「は? 神様?」
忠頼は軽く頷く。
「休んでるとき、翅が開いたり、閉じたりするだろう。それが、まるで、神仏に手を合わせているようだから――と聞いた。お前はあれを、何と呼ぶのだ」
「クロバトンボ」
「見たままだな」
忠頼はそう言うと、また横になり、俺に背を向け掻巻をかぶってしまった。俺は掻巻の上から、忠頼を揺さぶる。
「おい、まだ飯食ってないぞ。お前、今日はまだ、何も食ってないんだろう」
「薬は飲んだ。自分の体は自分が一番わかる」
「阿呆。飯は大事だぞ――俺の母親がよく、そう言っていた」
それでも忠頼は起き上がることもなく、布団の中で目を閉じたままだ。俺が仕方なくお膳を下げ始めると、忠頼がぽつりと言った。
「おまえの両親は、病で亡くなったのか」
俺は黙って、湯で手拭を濯いだ。そして再び忠頼の枕元に戻ると、手拭で忠頼の掌を拭う。
「――俺が七つの頃。村の傍で戦があった。ある日、手負いの武士が、俺たちの家に泊めてほしい、とやってきた。俺たちは武士を家に泊めた。だが次の日、追手が来た。そいつらは、俺の家族も匿っていた武士も、全員、殺した。俺は両親と兄と、妹と、弟とを、一度に失くした。俺はたまたま、山へ出かけていたから、死ねなかった」
俺は、まるでそれが、他人の話のように話した。実際、俺にとって、それは靄がかかったように、遠い記憶だった。忠頼はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「『死ねなかった』、か」
俺は、はっとして言う。
「いや、今も死にたいと思ってるわけじゃねえよ」
「……復讐のために、武士に?」
「それも――違うな。ただ、弱いままじゃ殺されるんだと思った。だから、強くなりたいと思った」
「そうか……辛い思いを、したな」
ふと、忠頼の声が、俺の胸の内に、柔らかく染み込む。断絶していた記憶と、それに伴う感情に、僅かに、血が通うのを、俺は感じた。
黒い羽根を持つトンボは、ふわふわと漂いながら、また戸の外に出ていく。
雨が松の枝からしたたり、その下に置かれた岩に跳ねる音が聞こえる。
手ぬぐいを手桶の蓋の上に起きながら、俺は忠頼に訊いた。
「お前の兄妹たちは? 健在か?」
俺は忠頼の父母は見たことがあった。隠居しているがまだ生きていて、たまに出てきて忠頼と食事をしている。初めて忠頼の父親を見た時、俺は、『お前と比べて良く喋る父親だな』と言った。すると、忠頼は、『兄妹の中には、話し好きなものもいる』、と言っていた。
忠頼は掻い巻きの中で体勢を変え、仰向けになる。
しばらく虚空を見つめた後、忠頼はゆっくりと瞳を閉じた。
「俺の兄妹は、兄が四人。姉が一人。妹が一人だった。姉と妹の一人は、それぞれ嫁に行って、息災なはずだ」
「俺は五男で、他の兄は皆、亡くなった。まず、俺が元服する前の年に、長男と三男が亡くなった。流行り病だった。次男は、狩りの時に、獲物を深追いして崖から落ちた。四男はもともと身体が弱く、ずっと胸を患っていたが、咳が酷くなり、隠居を決め――そして二年後、息ができず亡くなった。俺が十八の歳だった」
忠頼は静かに、淡々と喋りつづけた。
「葬式の時、俺は殆ど泣かなかった。母はそんな俺を、冷徹だと言って、さらに泣いた。だが、その実――俺はただ、その重圧に怯えていただけだった。兄たちの命を奪い手にした立場そのものも、父親の家臣たちが皆俺に傅くようになったのも、ただただ怖かった」
「……今も、怖いか?」
忠頼は咳き込みながら、小さく首を振る。
「今はもう慣れたさ。だが、いささかの空虚が、いつも胸の内にある。これはいかんともしがたい」
――忠頼の心は多分、俺の心があるところより、ずっとずっと寒いところにある。
俺は彼の上下する旨を静かに見つめる。
暫く、忠頼は黙っていた。俺は頃合いを見計らい、そっと立ち上がろうとした。盆を下げて、粥を温めてもらえないか聞いてこよう、と思った。
「弥次郎」
だが、小さな声に、俺は振り返った。
「……もう少し、傍にいてくれ」
「……わかった」
俺は掻巻の中に手を入れ、忠頼の手を探り出して握る。
俺は、忠頼のくるまっている掻巻に目を落としながら、静かに降り続く雨音を聞いていた。雨に降りこめられた室内は、少し息苦しい。
――自分は愛されてもいい人間だと、そして、愛を与えられる人間だと――そう、俺は思ってもいいのだろうか。
俺は忠頼の手の感触を感じ、今、忠頼の傍にいることを想った。ふと、胸がいっぱいになり、俺はひっそりと、長い息を吐いた。
俺は手には手桶と手拭を持って、縁側の廊下を歩いていた。手桶の中の湯が、閉じた蓋の中で、ちゃぷちゃぷと揺れる。
俺はふと、外廊下を渡る足を止めて、霧にけぶる山稜に目を遣った。静かだった。雨が土にしみいる音さえ聞こえる気がした。俺は湿気でべたつく足裏を気にしながら、また歩きだす。
稽古の日から三日後、、忠頼はふたたび日吉郡へ戻って来た。しかし数日前、邸内での仕事を終えた忠頼は、早々と自室へ戻り、飯も食べずに横になった。
次の日も、忠頼はひどく咳き込んでいて、熱もあった。それでもなお動こうとする忠頼を、周りの者が止めた。
世話係や医師や祈祷師が、代わる代わる忠頼の下を訪れた。医師は、そこまで心配することはない、と言った。俺は出来る限り、忠頼の傍にいた。
「おれだ。入っていいか」
俺は襖の前に立ったまま小声で言った。中はしんとしている。俺はゆっくり襖を引き、そこから中を覗いた。
忠頼は横になって、目を瞑ったままでいる。
俺は静かに部屋の中に入った。さっきまで起きていたのに、と思いながら、枕もとに桶などをそっと置き、褥の横に坐した。
俺は忠頼の顔を、静かに覗き込む。顔色はそこまで悪くなかった。俺は、ほっと一安心する。
冬の寒い頃、都と領地を、何度も行き来したせいかもしれない。この前の長雨が身体に堪えて、その疲れが出たのかもしれない。それに今は、季節の変わり目だ。身体に不調をきたす者も多かった。
汗を拭いてやろうかと思ったが、それでは起きてしまうかもしれない、と思い、俺は逡巡する。
代わりに俺は、じっと忠頼の顔を見つめていた。
無防備に目を瞑っているその顔は、いつもの忠頼とは、ずいぶん印象が違う。
きめ細かい、というわけではないが、なめらかで美しい肌。眉の上にある、小さな傷。
俺はなんだか、珍しい物でも見るような気持ちだった。明るいうちにこうして彼の顔を近くで見るなど、今まで殆ど無かったことだ。
鷹狩など、忠頼の外出に付いて行ったことはあった。だが、俺は弓が下手だし、忠頼はいつも沢山の従者に囲まれている。だから、こうして昼に、忠頼を近くで見られるのは、とても珍しい。
俺は一つ息を着く。そしてごろりと横になり、忠頼の横顔を眺める。
――忠頼の隣にいると、心地が良いと感じるようになったのは、いつからだろう。
多分それは、この男が俺を寝所に読んだ、あの夜からだ。その気持ちは、今もずっと続いている。
――いつからこんな、どうしようもない離れ難さを感じるようになったんだろう。
この男の、その胸の中に隠し持っているものさえ、暴きたい。そんなふうに、いつから思うようになったのだろう。
――いつまで、一緒にいられるだろうか。
俺はふと、孝太郎の言葉を思い出す。
――『この先、何が起こるかは、誰にもわからない』
俺はぐっと目を瞑る。
それは、戦いを生業とする人間が持つには、贅沢すぎる願望だと、分かっていた。それでも、思いは溢れた。
出会ってから四年が過ぎた。長いような短いような年月の中で、沢山のことが、変わっていった。だが、未だにそれはどこか、現実味がなかった。これは夢だ、と誰かに言われれば、そうなのかと納得してしまいそうになるくらいに。
――一緒に、いたい。たとえ、それが長くなくても。俺が死ぬより一秒でも長く、こいつが生きていてほしい。
そんなことを考えているうちに、視界が、薄っすらとぼやける。俺は一つ息を吐く。
胸が苦しくなってきて、俺は体を起こした。
――ここにいて、湿っぽくなっていても、仕方がない。源太に教えてもらった薬草を捜しに行くか。
俺は少し鼻をすすり、立ち上がろうとした。
と、その時、袖がつい、と引っぱられた。 褥の方を見やると、目を瞑ったままの忠頼が、笑っている。
「起きてたのかよ」
「朝、寝すぎて、眠れないんだ。それより、もう、見つめてはくれないのか」
俺は舌打ちをしながら、手桶を忠頼の枕元に寄せた。湯気がのぼる桶に手ぬぐいを浸し、手早く絞る。
「それより起きろ。身体拭いてやるから」
忠頼はゆっくりと上半身を起こすと、少し腫れた眼で俺を見つめた。
俺は手早く忠頼の着物を脱がせる。いつの間にか、忠頼のちょっとした身の回りの世話をするのは、俺の役割になっていた。
射手だからか、戦に出ている割には、忠頼の体には、あまり傷がない。だが、上腕には大きな傷があった。
「これ、いつの傷だ?」
その傷があることは、前から知っていた。だが、まじまじと見るのは、初めてだ。
「十の頃だ。木から落ちた」
「泣いたか?」
「当たり前だ」
忠頼は、苦笑しつつそう答える。俺は泣く忠頼を想像する。でも、それはなかなか上手くいかない。
俺は、忠頼の生きていた時間を考えながら、腕や背中を丁寧に拭った。自分の知らない場所で、この体が生きてきて、そしていまここで触れている。それはある種の奇跡のような気がした。
俺は続けて訊く。
「この背中の傷は?」
忠頼は、少し黙ってから、言った。
「川遊びをしていた時のものだ」
「ふうん」
忠頼が川遊びをするというのも、やはり想像がつかない。
着替えと清拭の世話が終わり、傍仕えが食事を運んできた。
俺は粥と水、薬草が載った盆を脇に置き、茶碗と匙を取った。だが、忠頼は渋面を作ったまま、茶碗を見詰めている。
「どうした」
「食欲がない。それに、お前に給仕されるというのは慣れん」
「俺だって別に好きでやってるわけじゃねえよ。お前が給仕係から食わねえから、頼まれたんだよ。ていうかな、病人が文句言ってんじゃねえ。黙って世話されろ」
俺は匙で飯を掬い、無理矢理に忠頼の口元に持って行く。忠頼は、にやにやと笑いだした。
「酷い言い草だ。お前に小姓は無理だな」。
俺が忠頼に、薬だけでも飲ませようとしていると、ふと忠頼の目が、縁側の戸の方を向いた。
俺もつられて忠頼の視線の先を追う。すると、黒い何かが、ふわりと床を跳んでいる野が見えた。
トンボのような蝶のような姿のそれは、黒い翅をひらひらと羽ばたかせながら、床の少し上空をすべるように舞う。
縁側の戸の隙間から、迷い込んできたらしいそれを見て、忠頼が呟く。
「カミサマトンボだ」
「は? 神様?」
忠頼は軽く頷く。
「休んでるとき、翅が開いたり、閉じたりするだろう。それが、まるで、神仏に手を合わせているようだから――と聞いた。お前はあれを、何と呼ぶのだ」
「クロバトンボ」
「見たままだな」
忠頼はそう言うと、また横になり、俺に背を向け掻巻をかぶってしまった。俺は掻巻の上から、忠頼を揺さぶる。
「おい、まだ飯食ってないぞ。お前、今日はまだ、何も食ってないんだろう」
「薬は飲んだ。自分の体は自分が一番わかる」
「阿呆。飯は大事だぞ――俺の母親がよく、そう言っていた」
それでも忠頼は起き上がることもなく、布団の中で目を閉じたままだ。俺が仕方なくお膳を下げ始めると、忠頼がぽつりと言った。
「おまえの両親は、病で亡くなったのか」
俺は黙って、湯で手拭を濯いだ。そして再び忠頼の枕元に戻ると、手拭で忠頼の掌を拭う。
「――俺が七つの頃。村の傍で戦があった。ある日、手負いの武士が、俺たちの家に泊めてほしい、とやってきた。俺たちは武士を家に泊めた。だが次の日、追手が来た。そいつらは、俺の家族も匿っていた武士も、全員、殺した。俺は両親と兄と、妹と、弟とを、一度に失くした。俺はたまたま、山へ出かけていたから、死ねなかった」
俺は、まるでそれが、他人の話のように話した。実際、俺にとって、それは靄がかかったように、遠い記憶だった。忠頼はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「『死ねなかった』、か」
俺は、はっとして言う。
「いや、今も死にたいと思ってるわけじゃねえよ」
「……復讐のために、武士に?」
「それも――違うな。ただ、弱いままじゃ殺されるんだと思った。だから、強くなりたいと思った」
「そうか……辛い思いを、したな」
ふと、忠頼の声が、俺の胸の内に、柔らかく染み込む。断絶していた記憶と、それに伴う感情に、僅かに、血が通うのを、俺は感じた。
黒い羽根を持つトンボは、ふわふわと漂いながら、また戸の外に出ていく。
雨が松の枝からしたたり、その下に置かれた岩に跳ねる音が聞こえる。
手ぬぐいを手桶の蓋の上に起きながら、俺は忠頼に訊いた。
「お前の兄妹たちは? 健在か?」
俺は忠頼の父母は見たことがあった。隠居しているがまだ生きていて、たまに出てきて忠頼と食事をしている。初めて忠頼の父親を見た時、俺は、『お前と比べて良く喋る父親だな』と言った。すると、忠頼は、『兄妹の中には、話し好きなものもいる』、と言っていた。
忠頼は掻い巻きの中で体勢を変え、仰向けになる。
しばらく虚空を見つめた後、忠頼はゆっくりと瞳を閉じた。
「俺の兄妹は、兄が四人。姉が一人。妹が一人だった。姉と妹の一人は、それぞれ嫁に行って、息災なはずだ」
「俺は五男で、他の兄は皆、亡くなった。まず、俺が元服する前の年に、長男と三男が亡くなった。流行り病だった。次男は、狩りの時に、獲物を深追いして崖から落ちた。四男はもともと身体が弱く、ずっと胸を患っていたが、咳が酷くなり、隠居を決め――そして二年後、息ができず亡くなった。俺が十八の歳だった」
忠頼は静かに、淡々と喋りつづけた。
「葬式の時、俺は殆ど泣かなかった。母はそんな俺を、冷徹だと言って、さらに泣いた。だが、その実――俺はただ、その重圧に怯えていただけだった。兄たちの命を奪い手にした立場そのものも、父親の家臣たちが皆俺に傅くようになったのも、ただただ怖かった」
「……今も、怖いか?」
忠頼は咳き込みながら、小さく首を振る。
「今はもう慣れたさ。だが、いささかの空虚が、いつも胸の内にある。これはいかんともしがたい」
――忠頼の心は多分、俺の心があるところより、ずっとずっと寒いところにある。
俺は彼の上下する旨を静かに見つめる。
暫く、忠頼は黙っていた。俺は頃合いを見計らい、そっと立ち上がろうとした。盆を下げて、粥を温めてもらえないか聞いてこよう、と思った。
「弥次郎」
だが、小さな声に、俺は振り返った。
「……もう少し、傍にいてくれ」
「……わかった」
俺は掻巻の中に手を入れ、忠頼の手を探り出して握る。
俺は、忠頼のくるまっている掻巻に目を落としながら、静かに降り続く雨音を聞いていた。雨に降りこめられた室内は、少し息苦しい。
――自分は愛されてもいい人間だと、そして、愛を与えられる人間だと――そう、俺は思ってもいいのだろうか。
俺は忠頼の手の感触を感じ、今、忠頼の傍にいることを想った。ふと、胸がいっぱいになり、俺はひっそりと、長い息を吐いた。
12
あなたにおすすめの小説
またのご利用をお待ちしています。
あらき奏多
BL
職場の同僚にすすめられた、とあるマッサージ店。
緊張しつつもゴッドハンドで全身とろとろに癒され、初めての感覚に下半身が誤作動してしまい……?!
・マッサージ師×客
・年下敬語攻め
・男前土木作業員受け
・ノリ軽め
※年齢順イメージ
九重≒達也>坂田(店長)≫四ノ宮
【登場人物】
▼坂田 祐介(さかた ゆうすけ) 攻
・マッサージ店の店長
・爽やかイケメン
・優しくて低めのセクシーボイス
・良識はある人
▼杉村 達也(すぎむら たつや) 受
・土木作業員
・敏感体質
・快楽に流されやすい。すぐ喘ぐ
・性格も見た目も男前
【登場人物(第二弾の人たち)】
▼四ノ宮 葵(しのみや あおい) 攻
・マッサージ店の施術者のひとり。
・店では年齢は下から二番目。経歴は店長の次に長い。敏腕。
・顔と名前だけ中性的。愛想は人並み。
・自覚済隠れS。仕事とプライベートは区別してる。はずだった。
▼九重 柚葉(ここのえ ゆずは) 受
・愛称『ココ』『ココさん』『ココちゃん』
・名前だけ可愛い。性格は可愛くない。見た目も別に可愛くない。
・理性が強め。隠れコミュ障。
・無自覚ドM。乱れるときは乱れる
作品はすべて個人サイト(http://lyze.jp/nyanko03/)からの転載です。
徐々に移動していきたいと思いますが、作品数は個人サイトが一番多いです。
よろしくお願いいたします。
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
陥落 ー おじさま達に病愛されて ー
ななな
BL
眉目秀麗、才ある青年が二人のおじさま達から変態的かつ病的に愛されるお話。全九話。
国一番の璃伴士(将棋士)であるリンユゥは、義父に温かい愛情を注がれ、平凡ながらも幸せな日々を過ごしていた。
そんなある日、一人の紳士とリンユゥは対局することになり…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる