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act34. 到達すべきその場所
しおりを挟む「うー寒い」
マンションを出た途端、彼女は肘を擦った。
帰省するには、薄着だったかもしれない。
長野の冬は、寒い。
でもまあいいか、と彼女は思い直した。
(電車に乗って移動するだけだし、……電車のなかじゃどうせ脱ぐから)
荷物は軽めにした。小型の赤いボストンバッグ。先方は、普段着でいいといった。それを真に受けて、ちょっとしゃれたくらいの、皺になりにくいワンピースを入れておいた。
いまは、動き重視のジーンズだ。足元はブーツ。
(雪、降ってるかなあ……降ってないといいなあ)
長野につけば、駅まで父が迎えに来てくれる。
だから傘を持たないでも平気か。……と思ったけど空がどんよりとしている。
玄関に傘を取りに戻り、再び鍵をかけた。
冬はみんな暗い服を着て暗い顔をしている、だから彼女は敢えて淡いクリームいろのコートを羽織った。
再び空を見あげた。
暗くってどんよりした、冬物のコートみたいな空のいろ。
(まるで、あたしのこころのなかみたい……)
降る、降る、と思ったら本当に降ってきた。しかもどしゃぶりだ。いきなり雨に降られた親子が、慌ててコンビニに駆け込む。自転車に乗ってるおじさんが、片手ハンドルで新聞紙で頭を覆う。
いきなり雨に降られたときの、人間の反応って面白いなあ。
と場違いにも彼女は思った。黙って傘をさす。青い傘だから途端に視界があおっぽくなった。
大通りに出て、信号を待とうと思ったが、ばしゃばしゃ車通りが激しい。水しぶきの被害に遭いそうだから、彼女は、歩道橋にのぼることにした。
誰もいない。
彼女ひとりだ。
濡れたコンクリートの階段を、一歩一歩のぼっていく。レインブーツにすればよかった、とこのとき思った。水はけが悪くって、雨の流れる階段。転ばないよう、ゆっくりのぼる。
なにか、聞こえた気がした。
男のひとのこえ。後ろからだ。
まあいろんなひとがいるからな、と彼女は思った。
階段の中腹までのぼったところで、その声が大きくなった気がした。
気のせいだと思った。
気にしないようにした。
長い階段を登り切ったときにその声が。
どうやら、大声で叫んでいるだろうことが分かった。
後ろ髪を引っ張られるように、なにげなく見下ろすと。
この大雨のなか。
傘もささずに走る、黒ずくめの男のシルエットが、彼女の目に浮き彫りになった。
「蒔田、さん……?」
雨を伝う手すりに触れる手が既に濡れている。これは、現実なのか。
蒔田は隣駅在住だ。かといって、偶然出くわしたことなど皆無だ。何故ここに居るのだろう。
「榎原紘花!」
あろうことか蒔田が、叫んでいる。
その対象はどう考えても自分だ。小さかったシルエットがどんどん大きくなる。こっちに迫ってくる。
「行くな! 紘花!」挙句には呼び捨てだ。
彼女は、なんだか笑い出しそうになった。わけが分からなさすぎて、急に可笑しさがこみあげてきたのだった。
しかし蒔田の様子といったら真剣そのものだ。
濡れ鼠になりながら、大通りを突っ切って走る。いままで出したことのないようなスピードで。
彼女ははやる気持ちを抑え、でも油断すれば滑りそうになる階段を、出来る限りの速さで、降りた。
踊り場で足を止めた。
階段のしたに蒔田が居る。近くで見ると、その表情は、真剣というよりも悲愴に近い。なにをそんなに焦っているのか。
彼と彼女の距離は十メートル弱。
「よかっ、た……間に合った」蒔田が、肩で大きく息をする。本気で急いで走ってきたようだ。スポーツが得意そうな蒔田にしてはものすごく疲弊した様相。
いったいどうしたというのか。
「どうしたんですか、蒔田さん。こんなところで……」
「……今朝、行くって、聞いて……それで、」息も絶え絶えだ。「慌てて、……走って、来た」
「それは見れば分かりますけど」むしろ彼女のほうが冷静だ。「いったいどうしたんですか」
「ほかの、……男のところになんか、嫁ぐな。おれはおまえを
愛している」
――?
聞き違えだろうか。
いま、蒔田が『愛している』って言ったような……。
「蒔田さん。ここ日本ですよ。ドーユースピークイングリッシュ? 大丈夫ですか。アーユーオールライト?」
「からかってなどない。本気だ」
「え。え。え。だって、
なん、で……」
その真摯な表情に。
たまらず両頬を押さえてしまう。
頬が、緩んでしまう。
「――」
「最初会ったときは、変なやつだと思った。ストッキングで階段のぼるやつなんて初めて見た。変人だと思った。
告白されたときは、びっくりした。まじで驚いた。気を持たせた行動を取っていたのかと反省した。
でもそれ以上に、意識して、止めらんなくなった。
おまえが隣にいるとここちよかった。
信頼して話せるやつだと思ったし自分が自然でいられた。
声きくとなんかほっとしたし、癒やされた。
だからいなくなったとき『忘れてください』って言われたとき。
遅まきながら、気づいた。
おれは、おまえなしじゃ、生きられない」
「蒔田、さ――」
「おいで」
青い傘が宙を舞う。
赤いバッグが段を滑り落ち、
冷たい雨が二人に降り注ぐ。
階段の途中で白と黒のシルエットが重なる。そして。
寒い、一月の真冬の気候。
互いの温もりを確かめ合う。
気持ちも、同時に。
「好きで、す、蒔田さん……」
涙ながらに顔をあげれば、愛しい、愛しいひとの顔が間近にある。
愛しいひとは、彼女の顎をひと撫でして笑った。
「おれも」
*
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