恋は、やさしく

美凪ましろ

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act35. 世界はただ、輝いて *

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「そういうわけだから今日は帰れない。ごめんなさい、お父さん。……がっかりしてる? ……そっか。うん。来週にはちゃんと帰るからそのときゆっくり話すよ。伯母さんに聞かれたらごめんって謝っといて。本当、……ごめんなさい。じゃあ、また電話するね。うん。……じゃあね」


 父への電話を終えて、洗面所の扉をノックしようか迷っていると、急に扉が開き、蒔田が出てきた。


「……お。びっくりした。風呂サンキュ」彼は、予備の男物のスウェットの上下を着ている。濡れた蒔田の服は、とりあえず室内に干した。

 黒のスウェットが思いのほか似合うことに驚いた。

 だが足首が見える丈の短さ。足が長い……。


「あ。いいえ……」とスウェット姿に見惚れつつ彼女は首を横に振る。蒔田は親指で後方を指し、彼女に促した。

「おまえも入って来い。風邪引くぞ」

「あ。はい……」

 彼女は頭を下げ、蒔田と入れ違いで風呂場に入る。自分の住まうマンションなのに、いちいち遠慮してしまう自分が滑稽だった。

(メイク、落としちゃ、まずいかな……)

 どうしようか迷ったけど結局、落とすことに決めた。シャワーなんか浴びたらぐっちゃぐちゃになっちゃうし。これがもしドラマだったら化粧ばっちりで恋人と接する場面だ。……恋って、


「ドラマみたくうまくいかないな……」


 と独りごちたのだった。


 * * *


「蒔田さん。蒔田さん」

 リビングに戻ると、後ろ姿の蒔田は、ソファに座ってぼんやりとしている様子。声をかけても返事がなく、寝ているのかと思って前方に回りこむ。膝に手を置いて、顔を覗きこもうとしたところ、


「おいで。紘花」


 ふわっ、と両腕に包まれる。男のひとの匂いがする。

 蒔田の匂いがする。

 その匂いに包まれ、彼女は両思いの幸せを実感した。真冬の凍えた空気。まだ暖房も効いていない冷たい室内においても、彼の身体に包まれれば、身体が熱を帯びる。


「あったかい……」彼女は、幸せを口にした。

「おれも」

「蒔田さん、笑ってる?」笑って彼女は蒔田の顔を覗きこもうとした。

 その唇を塞がれる。

 不意打ちのキス。

 避けきれるどころか、のめり込む自分が居る。

 頭のうしろを押さえられ、深く潜り込まされる。

 頭の奥を覗きこまれているような感覚。

 柔らかい舌の繊細さ。研ぎ澄まされる神経。全身で受け止めることの心地よさ。

 全てのバランスが噛み合い、思わず官能のうめきを漏らす。とそこで。

 唇を離される。

 鼻と鼻をくっつけあい、互いの瞳を覗きこむ。

 有する意識は、すべて同じ。互いが互いをどうしようもないほどに欲している。

 求めている。

 そのままソファに倒されると思ったら、何故かソファの下のカーペットのうえ。

 ソファとセンターテーブルの間の狭い領域に倒され、蒔田がうえからのしかかった。


「ちょっと狭いです、蒔田さん」と笑い混じりに彼女は言った。

 笑う余裕もないらしい。着ていたセーターを脱がされる。思いのほか、性急だ。

 彼女は黙って蒔田に従う。

 下着一枚の背中に熱い蒔田の手が添えられ、上半身を起こされ、キスの嵐が降り注ぐ。

 首を振り、逃れようとしても、その官能の波からは逃れきれない。

 捕まえようとして追いかけtくる。

 彼女の存在も、実体も。

「蒔田、さぁん……」キスとキスの狭間で。切ない声を漏らし、彼の短い黒髪を掴む。ぐしゃぐしゃにかき回したい衝動に駆られる。

 彼のことを愛している。

「蒔田さん。……


 好きに、して」


 と彼女はその願いを言葉にして放った。

 その瞬間、からだを倒され、右にはソファ。左にはテーブルの、肩幅しか無い狭い身動きの取れない領域に再び封じ込められ、その空間のなかでめいっぱい蒔田に愛される。

 めくるめく炎のうず。

 薔薇の花が舞い散るように美しい世界。

 人間はこんなにキスをできるのかというほどに、求められ、応えることの幸せに、涙が滲む。


「好き。大好き、蒔田さん……」冷たくて情欲の炎に燃えた蒔田の手がたまらなく愛しい。

 その唇も。肌も。

「紘花。紘花……」ひとは愛したくなるとどうしてその相手の名前を呼びたくなるのだろう。

 たまらなく切ない。

 呼ぶほどに、苦しい。それでもやめられない。

 ある種の恋愛地獄のようなものだ。身を焼かれるような苦しさと切なさの嵐の中を、必死に手を伸ばす。

 いつの間にか下着も剥ぎ取られていた。

 骨っぽくて、繊細な肌を持つ蒔田の手が彼女のはだのうえを駆けめぐる。

 そのたびに、声を漏らし、蒔田の名を呼ぶ。自分が狂ってしまったかと思うほどに。

 と、その手が、違う領域を探し求める。

 彼女は蒔田の意図に気づき、いやいやと首を振る。だが蒔田は止める気配がない。探し当てた結果、率直に蒔田は彼女の状態を口にした。

 羞恥に、頬が熱くなる。だが蒔田は俯くことを許さない。

 じっと瞳を覗き込み、


「もっと、欲しがれよ」


 と、言ってのけるのだった。俺様な上司は、愛し方も俺様。でもとんでもなく――


(気持ち、い……)


 油断すれば意識が飛びそうなくらいだった。それを、応えるどころか必死にしがみついている有り様。こんなの、


(初めて経験するみたい)


 彼女は、気づいていた。


(相性が、良すぎる……)


 この段階でこんな状態。いったい本気で愛され、次の段階に進んだら、自分が正気を保っていられるだろうか。

 乱れるに、違いない。

 その興奮と期待と羞恥とで、ますます熱が高まるのだった。

「駄目。駄目です、蒔田さん、あの、それ以上は、あっ……」

 考えることすらできない。もう身を任せるしかない。でくのぼう状態。

 目の前に火花が散り、がくん、とからだが崩れていた。

 気がつけば、苦しい息をし、蒔田に寄りかかってる結末。これを。


 恥ずかしいと言わずしてなんと言うのか……。


「馬鹿……。蒔田さんの馬鹿……。駄目です、って、あたし、言ったのに……」言っているうちに正体不明の涙がこぼれてくる。

 なんだかもうわけが分からない。だって本来は、いまごろ実家に帰って、お見合いをしているはずだったのだ。

 それを、上半身素っ裸で、いまだに上下をスウェット姿の上司に愛されまくってる状況。

「ふええ」と無性に、泣きたくなった。なんでこんなことになっているのか。

 幸せなはずなのに、自分だけって。

 蒔田が、彼女の両肩を掴み、その身体を離す。顎先を摘まれ、ぼろぼろっと涙がこぼれる。


(呆れられたかも。幻滅されたかもしれない……)


 絶望的な予測が彼女のなかに広がる。見つめ返す勇気などなく、ただ、目を閉じて俯いていた。


 ち、と蒔田が舌打ちをする。嫌われた。とそれを聞いて彼女は思った。


「そんな顔されたらどうしようもなくなるだろ」


 吐き捨てるように蒔田は言う。なんだか照れ隠しみたいに。

 空気が柔らかくなるのを感じ、彼女は瞳を開いた。「へ?」

「その、……そんな目で見るな。……止められなくなるだろ」

 なにを言っているのだろう、蒔田は。

 止める気なんかナッシングだったじゃないか。

 と恨みがましい目線をよこすと、今度は蒔田が自分から目を逸らした。なにかぶつぶつ言っているが内容がよく聞き取れない。責任が――とか、理性が、とか。

「あの聞こえないんですけど蒔田さん。はっきり言ってください」

 しばしの黙考ののち。

 蒔田が、重い口を開いた。「その、あれが、無い」

「あれって?」彼女は、まだ理解していない。

「その、あれだ。持っていない」

「あ」ここで彼女は気がついた。

 自分だけ至らしめられた理由。

「その、……持っていないのに最後までするわけにはいかんだろう」とかゆくもないだろう頬を掻く。


 意外と、真面目なんだ。


 そんなの、気にしないで突っ走る男のほうが多いと思っていたのに……。

 彼女は蒔田に好感を抱いた。

 本当に、大事に思ってくれているのだと感じた。


「えっとその、……」彼女は、自分の答えが意味するところを思うと、それを言うのが恥ずかしかった。


 でも、言いたかった。


「あります」


 膝をつきあわせ、正座をした男女が二人。

 互いになんだか照れてしまい、たまらず俯いてしまったのだった。

 彼は、よかった、と答えるのもなんだかデリカシーに欠ける気がして。

 そしてそんなことを告白させてしまった気まずさから。

 彼女は露骨に彼を求めてしまう発言に、気恥ずかしくなり。それでも

 どちらともなく抱きしめ合う。

 キスを交わす。


「場所を変えていいか」

 彼に訊かれ、彼女はこくりと頷いた。


 * * *




 いつかと同じく、お姫様抱っこ。

 違うのは互いが互いを求めていると確信していることだ。

 想いが、行動をかたちづくる。目が合うと、まぶたに、キスを落とされた。

 野蛮な感じで手が動く。「やだちょっとやめてくださいよ蒔田さん」

「やめてもいいのか」

「ほんとは、……続けて欲しい、です」

「素直でよろしい」薄暗いなか、蒔田が笑った気配を感じた。

 短い廊下を抜け、寝室に入る。蒔田は、彼女を抱きながら器用に扉を開けた。

 いつもの、見慣れた自分のベッド。

 小さめで長身の蒔田の足がはみ出てしまうかもしれない。

 状況が違えば、なにもかも違ったふうに見える。

 暗くカーテンも閉ざした部屋のなかで、そっと、ベッドに横たえられる。立ったままの蒔田は、ベッドから離れ服を脱ぎだした。

 暗闇をうごめくシルエット。もう後戻りできない。

 後悔する感覚など毛頭ないのに、引き返せないところへ行くのは多少の恐怖を伴う。

 勇気をもって、自分から脱いだ。ほんとうは脱がして欲しかったけど、もう待てない。


 ありのままの自分で、蒔田とぶつかりたかった。


「紘花……」

 蒔田も、ベッドに横たわる。彼女の髪を撫でながら愛しそうにその名を呼ぶ。触れられるだけでなみだがこぼれそうだ。

 彼女は、我慢するつもりはなかった。頬に添えられた蒔田の手を使い、そっと拭う。そして。

 自分から、彼を、抱きしめに行った。

 素肌と素肌が触れ合うとどうしてひとは感じるのだろう。

 孤独なのに。

 類似した感覚を共有できたとてまったく同じ痛みなど分かり合うことなどできないのに。

 でも、あたたかい。生身の蒔田がそこには居る。着実に確実に存在している。

 触れる素肌がびりびりと痛いほどだ。蒔田は、彼女の手を持ち、自分の胸にそっと添える。

「すごく――どきどきしてますね」と彼女は微笑む。

「実を言うと緊張している」

「蒔田さんでも緊張することなんてあるんですね」

「おまえはおれをサイボーグかなにかだと勘違いしていないか」

「サイボーグじゃ人間を愛せません。


 抱いて、一臣」


 その言葉で火がついたようだった。再びめくるめく炎のうずに投じられる。

 目の前が、見えなくなる。聞こえなくなる。ただ感覚だけが鋭敏で。

 一度触られた場所が再び触られれば細胞が喜びだす。感覚の再生。そして鼓動。耳の奥の息遣いが響く。

 蒔田の声も聞こえる。その息遣いも。人間は獰猛で、野性的な生物だ。

 真に愛する誰かを見つけたときに、狂いそうになる。

 その激しい情欲を刻みつけていた。彼女は叫びそしてわななく。

 口に指を突っ込まれ、くわえさせらえる。彼女はそれに応える。たまらず噛んでしまい、首を振るが、それでも構わないということらしい。攻撃の手が緩まないのだから。

 むしろ、強くなるいっぽうで、頼れるものが欲しくて、彼女は必死に手を伸ばした。

 応え、指を絡ませる蒔田の意志。

 ぎゅう、と手を握られ、彼女は笑みを漏らした。

 はだかで抱き合っている状況だったが、


「もう待てない。あたし、蒔田さんが、……欲しい」


 遠慮しがちな彼に(行動はちっとも遠慮がちじゃないが)。

 彼女は、自分から、切り出したのだった。


 * * *

 きらめく生命の鼓動。

 望ましい魂の衝動。

 突き上げるたびに、長い髪が揺れる。愛おしい、かけがえのない一瞬をからだに刻み込んでいる。

 からだのしたにいる彼女が揺れる。無理矢理、自分の名を呼ばせたい衝動に駆られる。いつまでも苗字じゃちっとも満足できない。それでも、さっき名を呼んだことからするとどうやら『使い分けている』らしい。

 惚れた側の負けだ。いつの間にこんなに好きになったのだろう。


「かず、おみ、さ……」快楽の波にさらわれながらも自分の名前を呼ぶ彼女。

 こんな展開など予想していなかった。

 こんなに、埋没する自分など。

 没頭する自分など。愛おしくてたまらない。

 壊してしまいたいくらいめちゃくちゃにしたい、しかし同時に深く愛してもいる。自分が傷つけてしまわないかの不安。

 でもそれを彼女は見抜いて、『好きにして』と自ら言ったのだった。愛されるとはこういうことか。

 彼女の意識に深く沈み彼女を見つめ返す感覚。

 夢のなかで彼女は、手を振り、笑っていた。


『蒔田さん、だぁいすき』


「愛してる……」現実の声が聞こえた。

 髪をすかれ、母のように胸のなかに抱きしめていたのだった。


 *
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