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act54. はじめてのGW・日常への回帰
しおりを挟む光陰矢のごとし。
楽しい時間が過ぎるのは、非常に速い。つまらなくて退屈な時間がとても遅く感じるのに比して。ボストンバッグを手にした彼女は、玄関先で微笑んだ。
「ありがとう蒔田さん。とっても、楽しかった……」
「おれも」二人は、抱き合う。
また会えることなど分かりきっているのに。
ひとときの別れを惜しむように。そしてキスをする。
「あの。蒔田さん……」焦って彼女は唇を離す。「それ以上されちゃうと、あたし……腰砕けになっちゃいます。本当に、行かないと……」
「行くのか、本当に」と言う蒔田は、寂しそうだ。後ろ髪を引かれる思いがするが、「行きます」と彼女は断言した。
「送っていく」と彼が靴を履くのを、「いいの」と彼女は制した。これ以上一緒にいると決意が鈍りそうだ。
明日以降、彼のいない日々を生きていかなければならない。それには覚悟が必要だ。
あの孤独に再び向き合うという、覚悟が。
「まだ明るいから平気です。じゃあ、蒔田さん。またね……」
「うち着いたら電話くれるか」
「します」と彼女は笑った。会社では無表情と評される彼が、あんまりにも寂しそうで。決意がぐらつくくらいだ。
彼は、彼女に近寄ると、その前髪をあげ、ちゅ、とキスをする。
「じゃあな、紘花」
「うん……」
名残惜しい気持ちとともに、彼の部屋を出て行く。
ドアが閉まる。静寂が、取り残される……。
前を向いて彼女は歩き出す。駅までの道筋は、覚えている。彼と、この連休中、たくさん歩いた。けれども彼がいないだけでなんだか、景色が違って見える。
ひとりで生きていくことへのプレッシャーを彼女に与える。それは彼女は上京して以来、バッグの中のポーチのように、常に、欠かさず、保有してきたものだった。
帰宅するなり、父親に電話をする。長いGWを帰省しなかったことをなにか言われるかと思ったが、案外、父は、明るかった。「また今度、落ち着いた頃にでも帰っておいで」と優しく言ってくれた。
そして、ボストンバッグの中身を開封する。昨日今日の洗濯物以外は蒔田の家で済ませた。なんだか奥さんみたいだった。彼と結婚すれば彼と自分のために時間を費やせる、ミラクルな日々が、待っている。でも彼女は――
焦るつもりは無かった。
恋人という期間も十分に楽しみたい――そう、思っていた。早くに結婚した周りの知人は皆、結婚を焦るなと言う。どうやら結婚には、なにかしらの困難が憑き物のようだ。
結婚していない彼女には、それがなんのことだが知るよしも無いが。
六日も留守をしたため、部屋がなんとなく埃っぽい。換気し、掃除機をかけることにした。
ぐぃんぐぃんと洗濯機が働く音をBGMに。彼との六日間の思い出を支えに。
一人の時間を、生きていく。
夕方になり、買い出しに行き、親子丼を一人分作って食べた。彼とつきあい始めてから、携帯でレシピを検索し、それなりのものは段々作れるようになってきた。ひとまえでどうぞ! と見栄を張れるほどのものではないが。風呂に入る前に、蒔田に、電話をした。
「――遅い」
電話越しの彼は、不機嫌だった。
「なにかあったかと心配したじゃないか」
「ごめん、なさい……」彼を待たせるのは禁物のようだ。確かに、帰ったらすぐ電話をくれというニュアンスで彼はものを言った。
敢えて彼女は言い訳をしなかった。蒔田不在の時間に向き合う覚悟が固まるまで、彼の声を聞きたくなかったのだ。明日からでも一緒に住みたい! と彼に甘えてしまいそうで。そしてそんな彼女を、きっと彼が受け止めてくれるだろうことも、分かっているから……。
だが、彼女は、彼が頃合いと思った頃に言い出すのを、待とうと、決めていた。二人でべたべたしているだけでなく一人の時間が大切だということも、彼女は、大人だから、知っている。
「夕食は、もう、食べたのか」
「うん。親子丼。ちゃんと作ったよ。蒔田さんは?」
「牛丼だ。店で買ったのを食った」
「……自炊する蒔田さんにしては、なんか、珍しいですね」
「作る気が起きなくってな……」どうやら、蒔田は、本格的に寂しいらしい。彼のマンションにお邪魔するだけだった彼女に比して、彼は、自分のテリトリーに彼女を招き入れ、そして彼女が帰ったあときっと、手持ち無沙汰なのだ。
一言二言だけでも、彼の気持ちが手に取るように分かる。同時に自分の存在が、彼のなかで大きくなったことを確認でき、嬉しくもあった。
「……蒔田さん。明日からの日々、大丈夫ですか? あたし無しで」くすりと笑い、彼女は聞いてみた。
全然、大丈夫だ。
と、強気な返事が返ってくると思ったのに、「うーん……」と煮え切らない様子。
くすくすと彼女は笑う。
「どうして、笑うんだ」
「なんか蒔田さん可愛いなあって思って」
「夜。おれなしで寝れるのか、おまえ」
「あたしですか。全然、大丈夫ですよ」
「そうか」またも気落ちする様子。弱気な蒔田が、彼女にはなんだかいじらしかった。
近くに居たら胸に彼の顔を押しつけてぎゅうぎゅう抱きしめてあげるのに。
そばに居ないことが、惜しくもあった。「ねえ蒔田さん」
「うん」
「人生、幸せ?」
「決まってるさ。後悔するためなんかに生きちゃいない。おれは――
おまえがいるから、人生の意義を再確認できた気がするよ。人生とは、
――素晴らしい」
「良かった。そんな感じで、明日も頑張りましょうね」
「ああ。おまえも無理しすぎないようにな。かなり忙しいと聞いている」
「ミカちゃんがいるから大丈夫だよ。おやすみなさい、蒔田さん」
「ああ。お休み」
そして電話が切れる。熱くなった携帯が、彼の置き土産……。
彼の愛ある日々を、今日も生きていこう。
「うしっ」と彼女は立ち上がる。洗い物を片付けるために。
新しい今日を、生きていくために。
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