恋は、やさしく

美凪ましろ

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act63. 結ばれる *

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 落ち込んでいる暇なんかないくらいに、イベントが盛りだくさんだった。


 翌週には蒔田のマンションへと引っ越し。

 その次の週には、例のマンションの仮契約を済ませ。

 三月に入ると。紘花の父と紘花と蒔田とで蒔田の実家へ挨拶に向かった。

 そこで彼女は、いよいよ初めての蒔田の父との対面を果たす。

『私は、息子の問題に干渉するつもりは、無い』

 第一印象は、情の薄い人間、だった。

『どのような人間を選ぶというのは、そやつの自由であり趣味に任せておる。もはや蒔田家から勘当されたに等しい人間が、今更どの面を下げて会いに来ておるのだ』

 その印象を裏切らない発言を蒔田(まきた)観樹(かんじゅ)は続けて見せた。

『正しい判断を下すように教育してきた親の努力を無下にし、常に勝手をして生きてきた人間がこの期に及んで「よろしくお願いします」、か。 所帯を持つから理解せよというのならこれまでの三十数年、一切の努力を怠りながらにして生きてきたその怠慢を反省せよ』

 息子の結婚を祝うどころか。

 彼の存在を否定すらする発言に彼女は憤りを覚えたが。

 父が去ったのち、皆に頭を下げる蒔田を見て冷静さを取り戻したのだった。

 結局、蒔田の父親は問題発言をしただけで姿を消し、蒔田母子と榎原父子の四人での会食となった。

 蒔田の父親の振る舞いの余波を打ち消すように、四人はよく喋った。紘花は自分の育ちのことも話した。最愛の蒔田の親に自ら伝えずに彼と結婚をするのは不誠実だと思ったからだ。蒔田の母は別段嫌な顔をせず、受け入れている様子だった。

「一臣が決めたひとと一緒になるのがなによりよ」と微笑さえして見せた。

 蒔田は母親の愛情を受けずに育ったと聞く。しかし、いまの母親の言動は子を想う親そのものだ。そのどこにも不自然さは見当たらず――しかし、当の蒔田が『受けられず』育ったというのなら彼の言うことを信じるほかあるまい。ゆえに、かえって紘花の不信感を増長する会食となったのだった。

 なお、結婚式は、長男である樹が東京で済ませたゆえ、二人は好きにしていいと二人とも口を揃えて言った。一応は、家族全員で写真を取りたいとは思ったものの新婚旅行とウェディングを外国で済ませてみたいと明かしたところ、「素敵。いいわねえ」と蒔田の母が同意してくれた。

 恵まれていると彼女は思った。すくなくとも、息子たちの意向を潰す親ではない。

 その晩。二つ並んだ布団に寝そべりながら彼女は、率直に蒔田に訊いた。


「蒔田さんのお母さん、本当に、蒔田さんの結婚を喜んでいる様子だったよね」


 同意を求めて笑いかけたつもりが。


「――他人の子だからだ」


 彼女の顔すら見ずに彼が答える。

 二人のあいだにそびえる壁は思ったよりも分厚いのかもしれない。とそのとき彼女は予感したのだった。


 蒔田の実家への挨拶を済ませ、三月の中旬に差し掛かると今度は紘花の仕事が忙しくなってきた。入社して二ヶ月も経てばひととおりのことができるようになり彼女は会社で重宝された。

 蒔田との新しい生活が開始し、仕事はボリュームが増し、落ち込む暇なんかなかった。

 ひとり帰り道で親子を見かけ煩悶することはあれど。

 じわりと紙にインクが滲むように、どす黒い感情が溢れ出してくるのだ。彼女はもはやそれを止められず流るるに任せた。

 いつか、時間が経てば気持ちの整理ができるだろうと自分を信じて待つことにした。

 彼女には、支えてくれる人間が居る。


 蒔田との同居がスタートすると、必然、平日の家事は彼女が担当することとなる。家事は苦手な彼女だが、蒔田のためにできることがあるという日々を嬉しい気持ちとともに噛み締めた。蒔田がこれまでに作ってくれたレシピを頭のなかで総動員し、近い味を作ることに務める。

「旨いな」といつも彼は言ってくれ自然、彼女の頬は緩んだ。

 洗濯も彼女の担当。最初の頃は、汗の染みこんだワイシャツの匂いをくんくん嗅いだものだった。

 部屋の掃除も時間があれば行った。

 好きなひとのために部屋のメンテナンスをすることが、会社で思い返し微笑んでしまうくらいに嬉しかった。誰かのために役立つことが実感できるから。

 毎日、彼が帰ってくるのが嬉しかった。一人寂しい日々とはもう、さよならだ。

 休日は、どちらが言うまでもなく二人で一緒に家事をした。父親は仕事が忙しくひとりで済ませることの多かった彼女からすれば、この共同作業は幸せだった。仕事同様に手際よく済ませる蒔田を見てこのひとと一緒になってよかったと、本能で感じたのだった。

 入籍は、きりのよいタイミングが見当たらず、蒔田の誕生日である八月八日にすることに決めた。九月に二人は新築マンションに引っ越す。その前後にしようと話し合った。実はそれは蒔田が彼女の精神状態を慮っての結果だということを、言われずとも彼女は分かっていた。

 あれ以来いまだ蒔田と愛し合っていない。彼女はまだ怖かったのだ。

 いまだ傷が癒えていない。そんななのに仮にまた同じことが起きてしまっては、二度と立ち直れないかももしれない。そのことを言葉にして伝えずとも、彼は、彼女の真意を汲み取ってくれ、一緒に抱きしめて眠るだけに留めてくれた。

 その優しさに甘えてしまっていいのか彼女は迷いはしたが。

 信じよう、と思った。

 自分のことも、彼のことも。

 男性にとって我慢することは想像以上に苦しいことに違いない。彼女は意識して、彼にひとりの時間を作らせようとしたが別段彼が困っている様子など見られなかった。別に、自慰くらいしてくれていても構わなかったのだが。

 その代わりかもしれないが、彼はほぼ毎日ジョギングをするようになった。からだを動かすことが好きなのだろう。

 * * *

 手続きは拍子抜けするくらいに簡単だった。

 だがしかし紙切れ一枚がどれほど重たい意味を持つのかまだ彼女は知らない。

「……蒔田、紘花になったんだね、あたし……」新しい苗字を、喜びとともに口にしてみる。蒔田が、「ああ」と言って手を繋ぐ。

 日差しの強い真夏の日のこと。蝉が激しく鳴いており、限られた生命の尊さを訴えてくる。彼女は意識して日陰を歩いた。長身の彼が長い日陰を作ってくれる。

 歩道の右手に公園がある。まだ二歳足らずだろうか。よちよち歩きの子どもを親子が見守っている。幸せそうだ。

 いつもなら妬ましい感情が雪崩れ込む場面だが。

 ぎゅ、と彼が握る手に力を込めたのを感じた。

「あたし……」彼女は喉に乾きを覚えつつ続けた。「蒔田さんとの子どもが、欲しいな……」

「おれも」彼が彼女に微笑みかける。「いつか、……きみとの子どもを肩車してやって、花火を見せてみたい。

 おれの育った町の景色を見せてやりたい。

 青い海も、白い波も、透き通るような青空も」

「そうだね」彼女も彼に笑いかけた。「いこ、蒔田さん」

「うん」

 帰宅してから二人は互いの親に報告を入れた。婚姻届を提出し終えたことを。

「おれ、シャワー浴びてくる」

 喜ぶ父親と話していると、蒔田が彼女に言い、バスルームに向かった。


 * * *


「どうした」蒔田が居間で携帯をいじっていると、彼女がタオル一枚巻いた姿で出てきた。


「……抱いて。一臣さん……」


 腕のなかに飛び込む彼女を抱え、寝室へと向かった。


 彼女を抱くのはもう何ヶ月ぶりかというくらい、昔だった。彼女は相変わらず順応に反応し。

 蒔田の感度を高めていく。狂おしいくらいに彼女を愛した。意識しているのかしていないのか。彼女の締めつける動きも激しかった。互いに追い込み追い込まれ官能の渦に溺れた。

 汗の玉が表面に浮かぶ彼女の柔肌を撫でる。吸い付いてくる。指で割り開きそっと舌を入れる。口とからだで反応してみせる、素直な彼女がいじらしい。

 もう、待てなかった。

 熱くたぎる自身を深く沈めると彼女の柔らかい部分が震えた。直接彼はその震えを感じ取っていた。

 震える彼女の唇をなぞり、その口に指を入れてみると粘膜が彼を舐めとった。唾液が伸び、きらきらとしてとても綺麗だった。

「紘花」

「なぁに」組み敷かれた彼女は思いのほか落ち着いた声で答える。


「……愛している」


「わたしも」そっと上体を彼女が起こす。彼を抱きしめ、短くくちづける。


「どう表現したらいいか分からないくらいに、一臣さんが、好き……」


 のぼせあがりそうな口づけが再開される。それを妨げるものは現実にも過去にもどこにもなかった。

 彼は彼女を深く愛し彼女はそれに応えた。

 互いが通じ合ったことをいまこのとき認識したのだった。


 あれほど苦しめられた事実が、過去のものになる。

 未来を、このひとと生きていきたい。


 確かな叫びとともに、彼女はその欲望をあますことなく伝えたのだった。


 *
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